あなたとはお別れしたはずでした ~なのに、いつの間にか妻と呼ばれています~
大翔が和花に謝ったのには理由がある。
『恋人同士が出会った大きな木』には、和花には思い出があった。
大翔の兄、樹と和花の出会いが『大きな木』のある場所だったのだ。
高校生の時に出会ってからニ十歳まで、樹と和花は付き合っていた。
あの事件があるまでは、それこそ婚約して結婚するのではと言われるほどの仲睦まじい恋人同士だった。
ふたりが別れてもう四年が経つ。
和花は大翔とは今でも交流があるが、樹とは二度と会いたくないと思っている。
切ない理由があって、せめてもの和花の意地だった。
「今日、何時までいられる?」
鉛筆で下書きをしている和花に、大翔が声を掛けてきた。
「五時くらいかな」
原稿を見つめたまま、和花が答える。
「でも、土日はバイト休んでこっちに来るよ。締め切りに間に合わせるから安心して」
「助かる~」
アシスタントたちは無言だ。ひたすら自分の仕事に集中している。
和花も手を止めることなく描いていたが、三十分もしないうちに大翔が話しかけてきた。
「和花」
「うん?」
「おふくろさんの具合どう?」
和花は原稿を向いたまま小声で答えた。
「あと、長くて三か月くらいって言われてる」
「そっか……」
それを聞いた大翔は黙り込んでしまう。
「だから、稼がなきゃ。お仕事回してね」
「なにか困ったら言えよ。金なら何とでもなるし」
大翔としては精一杯の言葉だったが、和花はあっさり断った。
「それはダメだよ。大翔と友達でいられなくなっちゃう」
「わかったよ。ゴメン」
二人は手を止めることなくポツポツと喋っていたが、そのうち無言になった。
マンションの仕事部屋には沈黙の時が訪れていた。