あなたとはお別れしたはずでした ~なのに、いつの間にか妻と呼ばれています~
儚いしあわせ
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松丘佐絵子は仕事の帰り道、岸本病院の近くにある花屋の前でウロウロしていた。
和花の願いもむなしく、彼女の母の具合はどんどん悪くなっていた。
酸素吸入が続いているらしく、意識があるのかないのかそばにいてもわからないと和花から聞いて泣きたくなったくらいだ。
十月に入ってから、和花は仕事を休んでずっと病院で母に付き添っているという。
和花の母のお見舞いに花を買って行こうと思い立ったのだが、邪魔になるかもしれないと迷ってしまって選べない。
「さえちゃん?」
親し気な呼びかけに振り向くと、ビジネススーツに身を包んだ樹だった。
「樹さん」
「珍しいね、こんなところで会うなんて」
「そうですね」
佐絵子にしてみれば、こんなところで会いたくない人だ。つい、素っ気ない挨拶になってしまった。
「大翔の部屋に花瓶は置けないんじゃない?」
樹はどうやら、佐絵子は恋人の部屋に花を買っていく途中だと思っているらしい。
「そうですね」
いつもと違う無機質な佐絵子の反応に、樹もさすがにおかしいと思ったようだ。
「あれ? 大翔のためじゃないのかな?」
「樹さん、大翔からなにも聞いてないんですか?」
樹の言葉にカチンときた佐絵子は、つい言わなくてもいいことを口にした。
「大翔? 俺たち実家を出てからあんまり話さないからなあ。なにかあったのか?」
佐絵子はしまったと思ったがもう遅い。和花の母のことは樹に話すわけにいかないのだ。
「えっと……あの……」
どう返事しようかと迷っていたら、樹のうしろにいた秘書らしい女性がふたりの間に割り込んできた。
「樹さん、お急ぎください。次のクライアントがお待ちかねです」
「ああ、すまない。チョッと彼女と話があるから車を取ってきてくれる?」
「はい? わかりました」
秘書は樹から車のキイを受け取ると、冷たい視線を佐絵子に向けてコインパーキングの方へ歩いて行った。