あなたとはお別れしたはずでした ~なのに、いつの間にか妻と呼ばれています~
いつの間にか、紳士はキールのお代わりを注文してくれたようだ。
「お名前も知らない方にご馳走になってしまって」
「大丈夫です。今日、とってもいい契約が取れて、私もお祝いしたい気分なんですよ」
本来なら警戒すべきなのだろうが、その紳士はとても上品な物腰だったので和花は安心しきっていた。
「それは、おめでとうございます」
「実は、私の妻は日本人なんです。若い頃はあなたのように真っ直ぐな長い黒髪だったんですよ」
「今はどうなさってるんですか?」
「残念ながら、短くバッサリ切ってしまったんです」
紳士は指で顎のラインをさした。
それこそ和花くらいの長さから顎まで切るとしたら、三十センチ以上は髪をカットしたのだろう。
「思い切りのいい方なんですねえ~」
「そうなんです。さっぱりしてて気っ風がいいんです」
紳士は妻の話をする時はニコニコ顔だ。とても大切な人なのだろう。
和花はチョッピリ羨ましくなった。
「粋な方なんですね、奥様は」
「はい。妻は江戸っ子、下町育ちなんですよ」
「まあ!」
紳士との会話は本当に楽しくて、近いうちにロンドンに行くことまで話してしまった。
(この人は、相手をリラックスさせる天才かもしれない)
和花がそんなふうに思うくらい、気持ちがよくて楽しい会話だった。
さっきの涙が噓のように引いていたし、和花は久しぶりのお酒に少し酔いが回ったようだった。
その時、一気に酔いが醒める声がした。
「和花……」