あなたとはお別れしたはずでした ~なのに、いつの間にか妻と呼ばれています~
「樹さん……」
カウンター席から振り向くと、真後ろに樹が立っていた。
「おや、ナイトがいらっしゃったんですね。では、私はこれで」
英国紳士は立ち上がって少し離れた席に移動しようとしたが、ふと思いついたように和花に小さなカードを差し出した。
「よかったら、私の店にお立ち寄りくださいね」
「ありがとうございます」
和花が大切そうに受け取るのを、樹はなんともいえない目で見ていた。
紳士が立ち去ると、その席にスルリと樹が腰掛けてきた。
「和花、探した」
「えっ?」
樹の言葉に和花は驚いた。彼が今さら自分を探していたなんてありえないことだ。
「さっき車で銀座通りを走っていたんだ。そうしたら画廊のビルの辺りに君がいたような気がして」
泣いているところを見られたのかと和花は焦ったが、樹の表情からはなにも読み取れない。
「どうしてここに?」
「君を見かけたのが画廊の近くだったから、おそらくここかなと思った」
「そう」
画廊の近くでふたりの思い出の場所といえば、樹もここだと思ったらしい。
和花は彼も同じ気持ちだったことがわかって、嬉しさが胸にこみ上げてきた。
「あれからずっと、君のことは気になっていた」
バーテンダーにウイスキーのロックを頼んでから、樹は話し始めた。
「私のこと?」
「君のことがずっと心配だった。君の顔を見られなくなって辛かった」
樹は苦しそうに話すが、和花はそれ以上は聞きたくなかった。
和花との連絡を断った日からのことを言いたいのだろう。
でも、過ぎてしまったことやその間に起こったことは今さらどうしようもない。
「私の心配なんて、もうしなくていいのに」
「和花、そんな顔するな」
自分がどんな顔をしてるのかわからないが、樹だってが苦しそうな顔をしている。
「私の顔なんて、見飽きてるでしょ」
「和花、酔ってるのか?」
「大丈夫よ」
なにか言いたそうにしながら、樹は口を閉じた。
ふたりの間に短い沈黙が流れる。
言葉はなくても、和花の心の中は樹が隣にいるだけで乱れていた。
嬉しくなったり悲しくなったり、意地を張ってみたりと落ち着かない。
(私のそばにずっといて、力いっぱい抱きしめて)
声に出せないというのに、心の中では叫び続けているのだ。
このまま樹と一緒にいては、自分がなにを言い出すかわからないと思った和花は彼から離れることにした。
「私、帰ります」
立ち上がると、チョッとふらついた。空腹のまま二杯飲んだだけのキールの酔いが足に出たらしい。
樹が急いで支えてくれた。
「和花」
彼の腕は、和花の記憶にある通り逞しくて暖かい。
そう感じた瞬間から、和花の記憶は曖昧になっていた。