あなたとはお別れしたはずでした ~なのに、いつの間にか妻と呼ばれています~
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過去を忘れるように、和花はひたすらデッサンをした。
手を動かすことに集中して、無心になって絵を描き続けた。
コートとストールに手袋という完全武装でロンドン市内の観光名所をぶらぶら歩き、気の向くままに描き続けた。
後見役を自称している晃大が、美術関係の学校に行くかギャラリーで働くか、どちらでも選べる様に手配してくれている。
だが、和花はまだどちらとも決めかねていた。
『春まで、ゆっくり考えてごらん』
晃大は和花を急かさない。
彼の好意に甘えて申し訳なかったが、和花は時間に縛られないのが嬉しかった。
その日もサウス・ケンジントン駅に近いヴィクトリア&アルバート博物館に行き、外観をせっせとスケッチしていた。
「あら、あなた上手ね」
ふいに、日本語で話しかけられた。少し低いが艶のある声で、はきはきとした話し方だ。
「とってもよく描けているわ」
久しぶりに聞く日本語に、スケッチブックから顔を上げると妖艶な美女が黒いカシミアのコートを着て立っていた。
鋭角的なボブは顔の輪郭に沿って流れるようにカットされている。
目の上の濃いアイラインと紫っぽい口紅が個性的なメイクで、しげしげと見つめてしまった。
「あら、日本語わからない?」
「あ、失礼しました。突然の日本語でびっくりしちゃって」
「そう、旅行でこちらに?」
気軽な話し方に、和花も笑顔で答える。
「いえ、絵の勉強しようかなと思っています」
「あら、学生さんだったのね」
「え~と、チョッと訳アリで、美大は中退なんです」
恥ずかしかったが、なんとなく噓をつきたくなかった。
「アハハ! 正直なのね、あなた。気に入ったわ!」
「ありがとうございます?」
「時間があれば、V&Aカフェでお茶しましょうよ」
和花は、謎の美女に強引に誘われてカフェに行くことになった。