水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~




 「おまえは何をやってるんだッ!!」
 「っっ!!」

 日が完全に落ち、辺りが真っ暗になった頃、ずぶ濡れの泥まみれになった紅月は家へと戻る事が出来た。
 そこで待っていたのは優しい「おかえり」という言葉でも温かいご飯でもなかった。
 玄関の扉を開けて待っていたのは、住職である父親の大声と力強い殴打だった。体格のよい父の拳は、紅月の腹に食い込み、壁に叩きつけられるほど体は後方へと吹っ飛んだ。あまりの痛さに呼吸が出来ず、咳き込む紅月だが、父親はそんな事も知らずに罵声を浴びせる。朦朧とする意識のまま家の方を見ると、奥に母親が怯えたようにこちらを見ていた。紅月と目が合うと、咄嗟に視線を逸らす。助けるつもりは毛頭ないようだ。



 「おまえ、男と会っているそうだな」
 「………なぜ、それを……」
 「図星か。山の河原で見たこともない、村の男ではない者と一緒にいるのを見かけたと知り合いが教えてくれた。おまえは、それでも蛇神様の嫁になる自覚があるのかっ!?」


 左京と一緒にいるのを村の者が目撃し、父親に告げ口をしたのだろう。
 余計なことをしてくれたものだ。
 人身御供の条件は若い娘、そして男を知らない純潔の女だけだ。他の男と交わり、穢れることを恐れたのだろう。紅月の父親はそれに激怒していたのだ。
 自分の娘が死にに行くというのに、心配するとしたら処女だと言うことのみ。少しも悲しむ様子も見せずに、村の役に立てる事、人身御供として神に食べられることを誇りに思っているらしい。意味が分からない。だったら自分が食べられてしまえばいいのだ。
 紅月には好きな人が出来た。名前も知らないけれど優しくて綺麗な男の人。
 やはり、この村から逃げよう。山男の元に行こう。けれど、山男にも迷惑がかかるかもしれない。それなら、もう1度だけ会いに行き、別れを告げてからこの地を去ろう。こんなところで死んでしまったら、もう一生山男に会えないのだから。
 その時の紅月はそんな風に思っていた。けれど、そんな考えは実の父親にはお見通しであった。



 「いや!離してッ!なんで、何でこんなことをするんですか!?」
 「おまえの事だ逃げ出すつもりだろう。あいつは静かに従ったが、おまえはそんな性格ではないのはわかっている。現に見知らぬ男と会っていたのだから信用などない」



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