水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~



 そう言って、数回紅月を殴る蹴るをして痛みつけ、弱ったところで手と足を縄で縛りつけたのだ。
 そして、食事も与えずにそのまま庭にある小さな小屋に押し込めた。始めは抵抗し大声を上げたり、手足をバタバタして逃げ出そうと思った。けれど、どうあがいても縄は外れる事もないし、叩かれたれた場所が痛み、すぐに体力がなくなり、意識を飛ばしてしまった。
 
 次に起きた時には、いつの間にか白無垢姿に変わっており、化粧までさせられていた。父親が決して顔を痛めつけなかったのは、神様への贈り物である娘の顔を傷つければ、お怒りを受けると思ったのだろう。そういうところはしたたかなのだ。

 駕籠に入れてられて山道を登り始めた時。
 紅月はもう諦めていた。逃げ出す気力もなくなっていた。


 「………山男さん」


 紅月は、最後に自分の部屋から何か持っていっていいと言われた時、すぐに薄汚れた布を選んだ。母親が洗濯をしたのか、綺麗に畳んで机の上に置いてあったが、汚れはとれていなかった。それに決めたというと、父親は「そんなものでいいのか」と怪訝そうにしていたが、剣などの危険物ではなかったため、すぐに受け入れられた。
 それを手に持ったまま紅月は、ずっとあの山奥に独りで住む男への思いを心の中で伝え続けた。


 短い時間だったかもしれない。
 人と慣れていない所も、少し不愛想な所もあったけれど、紅月が微笑むと困った顔で小さく笑う。それが、とても嬉しかった。紅月の心配をしてくれたり、優しくもしてくれた。紅月が銀髪の事を褒めると、戸惑いながらも少しだけ表情が柔らかくなったのもわかった。
 人里離れた山奥で暮らしているのだ、何か事情があると思っていたが、きっとあの銀色の髪のせいで辛い思いをしていたのだろう。あんなにも綺麗なのに、どうして人と違うというだけで、人間は怖がるのだろうか。
 あの人の気持ちも性格も知らないくせに。

 私だったら、彼を笑顔にさせてあげられる。
 ずっと一緒にいられる。大切にして、山奥での暮らしも楽しく過ごせる。
 だって、私が彼が好きだから。
 好きになって貰えるように努力して、いつか好きになって貰いたい。そうすれば、結婚も出来るのだろうか。そうならば、2人で幸せに過ごしていきたい。そう思っていた。



 「……死にたくない。死にたくないよ」


 自分の力で死ぬことは出来ないと判断したのか、口元の布は取られていたので、言葉を発する事が出来るようになっていた紅月は、そう呟き続けていた。
 鈴の音でかき消されるほどの小さな声にしたつもりだった。けれど、もしかしたら駕籠を持つ男に聞こえてしまったようで、ただ冷たく「うるさいぞ」言い捨てられてしまった。
 しばらくすると、駕籠の揺れがおさまり、お経が聞こえ始めた。あぁ、もう崖の近くまできてしまったのだ。あと少しで、崖から飛び降りて、そのまま蛇神に食べられてしまうのだ。
 その恐怖から体は震え、もう声も涙も出なくなってしまった。



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