水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~
最後の口づけだとわかったのか。紅月は大粒の涙を流しながら泣き続けていた。体を動かすことが困難な自分では止められない。そして、矢鏡がこの契約を止めようとはしていなことを察知したのだろう。弱々しく体を横に振りながら、矢鏡が離れるのを拒み続け、何度も名前を呼んでいた。
そんな彼女の声を無視をするのは苦しすぎた。けれど、彼女の体を壁に体を預けて座らせた後、ゆっくりと黒煙の蛇神の方と向き合った。
「話ハ終ワッタカ?人間ゴッコ、イヤ神様ノ真似事ハ楽シカッタカ」
「あぁ。楽しかった。十分すぎるほど、この世を堪能出来たのだからな」
「………オマエト出会ワナケレバ、コノ女ハ苦シイ過去ヲ忘レテ、幸セニ生キレタノダ。普通ノ人間トシテナ」
「………そうだな」
そんなことはわかっている。
自分が神になり、彼女の人生は普通の人間のものではなくなってしまっていた事を。
だからこそ、今からそれを正すのだ。
「では、いいな」
「あぁ……」
矢鏡が返事をすると目の前の煙の大蛇の輪郭がボヤけ始め、ゆっくりと分解するとそれが消えていった。けれど、それと同時に地面を這う音と胸がざわつく気配が周囲を包んだ。
ずるずるずる………。
空気を震わせながら、空間が歪んだ場所からあの頃に見た姿と変わらない、恐怖を感じさせる巨大な蛇。真っ白な鱗は前より艶があり、鋭さが増しているようにみえる。だが、昔と違い大きく変わっている部分もある。
それは傷ついた左目であった。右目は血のように深紅に爛々と輝いていたが、左目は傷つき、潰れていた。
それは、大昔に矢鏡が傷つけこの巨大な蛇を殺したためだと一目でわかる。
息を飲んだのに気づいたのか、大蛇の神は長い舌を出してニヤリと笑った。