水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~
紅月は家から少し遠くの弁当屋で働いている。
近所に住む人や、近くで働く人々が常連として買ってくれている小さな店だ。それでも、もちろん全て手作りで種類も豊富、ボリュームもほどほどあるため、かなり人気があり夕方は閉店前に売り切れるのだ。店長さんもとてもいい人で、売り子の紅月にも丁寧に料理のコツを教えてくれるのだ。そのため、紅月は料理上手になっていた。
だが、困ったこともあった。何故か、男性から行為を持たれる事が多かったのだ。見た目がそうするのかはわからないが、よく「付き合ってほしい」や「結婚を前提に……」と客に言い寄られるのだ。紅月が断ると、もちろんほとんどの客がもう来なくなる。それが申し訳なかった。
もちろん、「好き」と思ってくれる気持ちは嬉しかった。けれど、それに応える事は出来ない。
好きになれるとも思わなかったし、「知らない方がいい」と自分の事を知って欲しいと思えなかったからだ。
紅月はずっとずっとそう思っていた。
「告白される事は多かったかもしれませんけど……。きっと、お弁当の味を結婚してからも食べたいと思ったんじゃないですか?私が働いているお弁当屋さんは、本当にどれもおいしいですから!」
「………そんな理由のわけないだろう?」
「では、矢鏡様はどうして私と夫婦になりたかったのですか?」
「それは、紅月についた呪いを払うためだ。そうしなければ、おまえが死ねば俺も消えるのだからな」
「ですが、それならば結婚しなくても……」
そう。自分の消滅を防ぐために、紅月が死んでしまっては困ると言う理由はわかる。
けれど、だからと言って紅月と夫婦になる理由がわからないのだ。命を奪いかねない紅月の呪いを払ってしまえば、全ては解決する。
神様という尊い存在の彼が、どうしてたかが人間1人と結婚しようとするものだろうか。紅月はそれが不思議でしかたがなかったのだ。
人通りが少なくなった夜の街とはいえ、一人で道路に佇んでいるように見える紅月は、周囲の人にとっては不可解な女性に見えたはずだ。通りすがりながら怪訝な表情で見ていく人もいるぐらいだ。けれど、それでもその理由を彼に聞いてしまいたかったのだ。モヤモヤとした感情のままに夫婦として過ごしていけるわけがない、と。
話してくれないのには、話しにくい理由があるのだろうか。そんな心配もしてしまう。
けれど、そんな紅月の心配をよそに、矢鏡は「そんな事か」と、腕組みをしながら躊躇する様子もなく、いつものように堂々と説明をし始めた。