水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~
「俺がもともと人間だったからだ」
「矢鏡様が人間……」
「あぁ。大昔の話だけどな。俺が、あの村の大蛇を倒したんだ。だから、英雄として死んでからも神として祀られたみたいだな。よくあるだろう?偉人や武士とかが人神として祀られる事が。庶民でも、その地域で何か功績を上げたりすると、神様にされる事があるんだ。俺もその一人ってだけだ」
「人間だったらか、結婚したいの?」
「結婚してみたいと思うのは男だって同じだろう。それに、おまえだけが俺を覚え、祈ってくれたのだ。そういう女がいいと思っただけだ」
乱暴にそういうと、言葉と同じように紅月の手を掴むと引っ張りながらずんずんと歩いていってしまう。
その後ろ姿から彼の表情はわからない。
けれど、風になびく綺麗な髪の合間から、真っ赤な耳が見えた。
神様も照れる事があるんだな。そんな風に思いながらも先程の話を思い返す。
矢鏡様も自分と同じ人間だった。
神様も人間と同じ存在だった。
神様は聖なる存在で、人にとっては限りなく遠い場所に住むモノというイメージを持っていた。
お願いをするときだけは祈り、それが叶わなければやはり神様はいない。そんな風に思ってしまうほどに、近いようで遠い存在なのだ。
けれど、自分の右手を掴む矢鏡は、他の人には見えていなくても、紅月にはとても近い。
今だって冷たい感触と彼の沈香を紅月は感じられるのだから。
生きていなくても、存在している。
紅月はこの感覚が、彼の言葉が、安心感を与え始めている。
その事に気付かないうちに心地よくなり始めているのに、もう少ししてから理解するのだった。
全てを理解してからでは遅いというのに。