水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~
「さて、それでは蛇払いでもするか」
食事もお風呂も終わり、もう寝るだけになった頃。矢鏡は、「もう寝るか」というかのように軽い口調で紅月にそう言ったのだ。呪いを払うとなると、もっと大がかりな準備が必要だと思っていただけに、紅月はぽかんとしてしまった。
神社でご祈祷をしてもらう時にお経を上げたり、川で禊をしたり、呪いと激しく戦ったりすると思っていたので覚悟していたが、どうやら神様ならば簡単に対処出来るのだろう。もしかすると、言葉ひとつで終わったりするのだろうか。
そうでなければ、そんな明るい声音で言うはずもないのだろう。
そう思うと、紅月は一気に気が楽になってきた。
が、その期待はすぐに崩れてしまう事になる。
「俺はほとんど廃神社になってしまった神だからな。力はあまりないんだ」
「え」
「だから、作戦を考えてある」
「作戦?」
矢鏡は腕を組んで真剣に話し始めたけれど、紅月は妙に嫌な予感がひしひしと伝わってくる。根拠はない。けれど、女の勘というものだろう。
きっと、あまり良い方法ではない。
緊張した面持ちで、彼にその作戦内容を聞いてみる。
すると、矢鏡は聞き覚えのある昔話のタイトルを言ったのだ。
「『耳なし芳一』、だ」
「耳なし芳一って、あのお話の?お経を耳に書き忘れたから耳を取られてしまったっていう?」
耳なし芳一は、日本の怪談話。
盲目の琵琶法師である芳一が、平家の怨霊から逃れるためにお寺の住職に全身にお経を書いてもらうのだ。その夜、平家の亡霊が芳一の元へ訪れるが、お経のおかげで亡霊には芳一の姿が見えなくなっていた。が、住職は耳にお経を書き忘れてしまい、見えていた芳一の耳だけを亡霊が奪って去っていく。
そんな怖いお話だ。子どもの頃にこの話を聞いた紅月は、あまりの怖さから泣てしまったのを今でも覚えていた。日本の怪談の中でもトップクラスで知られている話だろう。
その怪談の内容を頭に思い浮かべた瞬間、紅月はハッとしてしまう。
もしかすると、いや、もしかしなくても作戦というのは、あれではないか、と。
「矢鏡様。もしかして、作戦というのは……」
「そうだ。全身にお経を書くんだ」