水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~
五、
五、
シュッ、シュッと落ち着く音が部屋の中に響く。
小学生の頃に冬休みの宿題で習字の宿題をやった時以来の匂いと音だ。
椿の柄が入った硯に水を少量入れ長方形の黒い塊を擦っていく。持っている方とは逆は少し傾斜になっている。どうやら矢鏡が普段から使っている墨のようだ。
小さな部屋のフローリングの部分に厚手の布を敷き、硯の前に正座をして先程からゆっくりと腕を動かして墨を作っている。沈丁花や沈香の香りより墨の香りが部屋に充満される。お正月の気分と春が一気に混ざり合い不思議感だ。
「矢鏡様。あの、耳なし芳一のようにして呪いを払うと言っていましたが、どうやって払うのですか?確か、あのお話では怨霊から姿を見えなくするためにお経を書いたのだったと思うんですが」
耳なし芳一では、琵琶法師だった盲目の芳一が平氏の怨霊に音楽を聞かせていた。だが、それを寺の住職が、人間に聞かせているのではなく幽霊だと伝えるのだ。演奏をするのを止めるように言ったが、やめてしまえば怨霊は怒るだろうと、住職は体にお経を書いたのだ。本来ならば住職がお経を詠めばよかったのだが、その晩は葬式の予定が入っていて留守にしなければならなかったのだ。そのため、全身にお経を書き「絶対にしゃべったり音をたててはいけない」と、言い残して芳一を一人にした。
そして最後はお経を書き忘れてしまった耳を幽霊に奪われてしまう。そんな怪談話だ。
話の内容から推察すると、全身にお経を書くというのは幽霊に対して姿を見せなくする。そう言った意味だと思ったのだ。けれど、紅月の体の中に呪いがあるのだ。すでに、紅月の姿を見えないようにしても、呪いは体の中になるのだから意味はないのではないか。
呪いについて、何も知るはずがない紅月はそう考えたのだ。
すると、矢鏡は固形墨を擦る手を止めず、視線も下を向けたままゆっくりとした口調で説明を始めた。