水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~
「矢鏡様。この蛇は成仏したら苦しみはなくなるのですか?」
「あぁ。呪いは結局のところ苦しさを閉じ込めたままだ。今も飢えと痛みと死の恐怖を感じているはずだ。とっくに死んでいるというのにな」
「そんな……」
「だが、先程紅月が話したように成仏さえすれば、全て無に帰るのだ。払うだけではなく、成仏もさせる」
「ありがとうございます」
「………おまえは、変わっているな」
「え?」
矢鏡は面白いものを見るように紅月に笑みを向けた後に、紅月の胸の上にあった手に重ねるように、冷え切った大きな手で包んでくる。
「自分が死ぬというのに、裸になるのは拒むくせに、蛇を成仏させるために俺に呪いを払えと願うのだからな」
「そ、そうでしょうか?」
「あぁ。命よりも蛇を優先させるのだからな」
「呪いのために餓死寸前までおいやり、無残に殺されたなんて。誰でも誰かを呪います。この蛇は悪くはないんですよね」
「………あぁ。そうだな。その通りだ」
呪いの話をしている時は厳しい表情だった矢鏡だが、この時だけは目を細めて優しく微笑んでいた。それと同時に紅月の手と重ねていた手が優しく絡みつき、少しだけぬくもりを感じたかのように思えた。
それは自分の体温が移っただけなのかもしれない。
そうだとしても、それは矢鏡の温かさなのだ、と紅月は思った。
日が落ち闇が支配する部屋に、四方に置かれた蝋燭。
紅月の部屋にあった小皿の上に置かれた変哲もない、仏壇などに置かれている白い蝋燭。そこからはまっすぐに伸びた火が光っている。昼間は小さな光りに見えるが、闇の中では、蝋燭の火でさえも大きく見えるから不思議だ。4本の蝋燭に囲まれ、その中央に座るのは紅月。その傍らには、その雰囲気にピッタリな着物姿の神様である矢鏡。
紅花は大判タオルを体に巻いて、和紙が敷きつめられたフローリングの上に緊張した面持ちで座っている。
今から、耳なし芳一作戦で、呪い払いが行われるのだ。
昔見た、耳なし芳一の映像とまるで同じ雰囲気に、紅月の体は震えてしまう。それに墨と蝋燭が溶けていく匂いと肌を撫でる寒さ。その感覚が映像だけでは感じられない、恐ろしさを際立てている。