水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~
「では、やるか。体におかしな事があったらすぐに言ってくれ」
「は、はい」
和紙を引いた上に紅月は足を伸ばして座り、まずは足の前方からかいていく事になった。
矢鏡は紅月の足元に座ると体制を低くして、筆を肌に落とした。
冷たい液体と筆の感触に、体がビクッと震える。それは何とか我慢出来た。が、どうしても我慢できない問題があった
「ふッ、ん、ふふふふ」
筆が肌の上を走ると、いくら墨が乗っていてもくすぐったさを我慢出来ずに、声が漏れてしまう。
呪い払いをするとは思えない、必死に唇を閉じるが洩れて来てしまう笑い声は、耳なし芳一作戦を台無しにしてしまいそうだった。
「まぁ、笑っているぐらいの方が緊張しなくていいが。なんとも、雰囲気がないな」
「だって、くくく、こんなの我慢できるわけないですよ。ッ、ははは」
「声は我慢しなくてもいいが、まずは体を動かすのは我慢してくれ」
「わ、わかりました」
彼は真剣だと言うのに、こちらは不可抗力だといえど笑ってしまうなんて申し訳なってしまう。
どうにか気を紛らわせなければいけない。そう思って、真剣に自分の肌に筆を滑らせている矢鏡に視線を向けることにした。
さらりとした銀色の髪は、透けるように光っているが、今日は出会ったときに紅月を重ねていた時のように、火の光りを浴びてうっすらと赤みを帯びている。同じく銀色の睫毛は影になり、少し暗いと思いつつも琥珀色の瞳があるために闇は見られない。やはり神様という存在は神秘的で近くに居るだけで、ドキドキとしてしまうものなのだな。
けれど、そんな遠い存在であった神様である矢鏡だが、唯一、紅月と同じものがある。
それは、矢鏡がくれた沈丁花の花が描かれている銀色の指輪だった。形は違えど、同じ花の結婚指輪。
その指輪だけは、人間である紅月と人ならざる存在である矢鏡が同じものだと伝えてくれているようだった。
彼とお揃いの沈丁花の指輪。それは、もちろん紅月の左手の薬指で輝いている。それが特別になった証のようで、不思議な気持ちになる。
それが、恥ずかしいだけではない事を紅月は知っていた。
「終わったぞ。次は体だ。タオルを脱げ」
「は、はい」
気づくと途中で後ろを向かされたので、両足の裏表まで綺麗に墨の文字が書かれている。墨どくとくの濃淡がある文字。矢鏡文字はまっすくで堂々としたものだった。不思議と墨が垂れることはなく、しかも早く乾いている。それは、矢鏡の力なのかはわからない。
が、そんな事を考えている暇はなかった。
ついに、その時が来てしまったのだ。
けれど、もう迷うのは止めた。彼の妻なのだから、恥ずかしがる必要はないのだ。それに、矢鏡の気持ちをないがしろにはしたくないのだ。
もう、どうとでもなれ。
そんな気持ちのまま、紅月はタオルを体から離した。
音もなくずり落ちたタオルは床に落ちる。
正面から矢鏡を見られるのは、やはり恥ずかしさがあり咄嗟に背を向けてしまう。
肌寒さよりも、矢鏡の視線が刺さるのを薄肌に感じる。耳に入るのは、自分の鼓動と蝋燭がジジジッと燃える音だけだ。