水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~
「………」
「では再開する。では、背中から……」
「せ、せめて何か言ってくださいッ!」
沈黙を破ってくれたのは矢鏡の言葉だったが、せっかく意を決して裸を晒しているのに何も反応がないと、どうしていいのかわからなくなる。それにこの姿について、何も言われないというのも何だか気になってしまうのが女心というものだ。男の人に見せた事がない体。何か変な所があるのではないか。そんな不安が襲ってきてしまうのだ。
そのため、咄嗟にか細いながらも非難の声を上げてしまったのだ。
体は後方を向いたまま、紅月は首だけを矢鏡の方へと向き直す。
すると、すぐに彼はパッと顔を横に背けた。
「何かって何だ。俺はただ呪いを払うだけで……」
「それはわかっていますけど、夫婦になった相手がこの姿なのに……」
「………始めるぞッ」
「もう、冷たいんですから……」
まだ納得がいかない紅月だったが、問答無用で墨汁のついた筆を背中につけられると、体がが震え言葉が詰まってしまう。
その後は、「集中するから話しをするな」と文句をいう事も許されず、挙句には「顔から先に書いてやる」と目を閉じなければいけなくなり、矢鏡がどんな顔をしているのかを見る事も許されなかった。
顔や腕が終わった後は体の正面になる。
背中などもかなり恥ずかしかったが、正面になったらはその倍以上に感じてしまうだろうと覚悟をしていた。
が、そんな事は杞憂だったようだ。
「や、矢鏡様。なんだか、急に息苦しくなってきました……」
腹部に墨を下ろされた途端、紅月は一気に吐き気に襲われたのだ。
心臓がドクンドクンッと今までで感じた事がないほど、大きく鼓動している。そして、それと同時に喉元まで何かが迫ってきているのが。
苦しさと恐怖で涙が出そうになる。けれど、泣いてしまえばそこから矢鏡が書いた墨の念仏が消えてしまう。
黒い文字で染まった手をギュッと握りしめることも、胸を抑えることも出来ないのだ。肌と肌が触れてしまえば、擦れ合い大切な文字が消えてしまう。
苦しみは声を発するだけで耐えなければいけない。
紅月は、フローリングに短い爪を立てて、この苦しみが終わる時を今か今かと待つしかないのだ。
矢鏡が助けてくれる。
だから、大丈夫なのだ。
「や、矢鏡様………」
「もう少しだ。もう少しだけ耐えてくれ」