水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~
ふわりと沈香が鼻先を掠める。
矢鏡が近くにいてくれるのだ。
それを感じられただけでも、紅月は少しずつ力が抜けていく。痛みや苦しさが無くなったわけでもないのに、どうしてだろうか、安心感というのは安らぎをくれるのだ、と紅月は身をもって実感した。
と、頭に何かが触れる。矢鏡が紅月の頭を手で触れてくれている。地肌に冷たい体温を感じる。
「本来ならば、髪も全て剃って頭にも念仏を書かなければいけないのだが、紅月の綺麗な髪を剃ってしまうのは、俺が嫌なのだ。だから、俺の手で守ろう」
「え……」
髪は女の命というが、命のためとはいえど全部の髪を剃るとなると、いかほどの決意が必要だっただろうか。きっと、裸になる事よりも尻込みしてしまったはずだ。
きっと、それを矢鏡は見越して別の方法を考えてくれていたのだろう。肌に念仏を書くことは避けられなかったが、髪だけは死守してくれた。
それを紅月には伝えずに、自分が勝手に決めた事としてさらりと話してくれる。
そのさりげない優しさに、ドクンッと胸が高鳴った。
と、同時に胸が感じたこともないぐらい締め付けられ、意識が飛びになったのかくらりと頭が揺れた。どうにか耐えられたのは、矢鏡の手の冷たさが気持ちよかったからだろう。
強く目を縛り、声を我慢した。
ドクンドクンッと今心臓の部分の肌を見たら、波打っているのではないかと思ってしまうほどの強い鼓動を感じ、心臓が動く度に体が動いてしまう。
「………そろそろだ。少し追い打ちをかける」
紅月の心臓部分に、矢鏡が唇近づけると、紙風船に空気を入れるように優しくフーッと息を吐く。
彼の息は氷りのように冷たい。けれど、その冷たさよりも心臓が激しく震え、あまりの衝撃の強さに一気に嫌悪感が増していき、胃の奥から上へ上へと湧き上がり喉元まで不快感が押し寄せてきた。
「ぅッ……」
「紅月、我慢しなくていい。吐き出したいのは、呪いだ」
「で、も………」
唇を噛み必死に我慢をする。
すると、紅月の頭を包んでいた手で頭を押された。
そして、少し上を向かされたと思うと、その瞬間に「口を開けろ」と彼の切羽詰まる声が聞こえてきた。紅月は、口を開けるのを恐れながらも唇を緩める。ほんの少し唇の間に空洞が出来る。きっと指一本も入らないぐらいだろう。
その口の穴をふさぐように、冷たくふんわりとした物が覆われる。