水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~




 紅月の気持ちを気づいていたのか、気づいていなかったのかはわからないが、矢鏡の口調はとても穏やかだった。そして、紅月の体を先に案じてくれ、「それは、よかった」と言ってくれる。
 矢鏡はやはり、自分よりも他の人の安全を優先する人なんだな、と思った。神様なのだ。


 「紅月についていた蛇の呪いは払った。無事に成仏させたから」
 「矢鏡様が、私の呪いを取り込んだから、倒れてしまったのですよね?だから、その口づけをしたのですよね?」
 「あぁ、あの時は悪かった。だが、方法は耳なし芳一作戦のようにあれしかったんだ。紅月の体から出てきた呪いを払える力は私にはないからな。私の体内に閉じ込めて浄化させる。それしか方法はなかった」
 「体の中に呪いを入れるなんて……そんな無茶を……」
 「紅月の体の中にあったものだぞ?」
 「それは、そうなんですど」
 「もう、呪いは払い去った。首も元に戻してやったから。大丈夫だろう。おまえには、影響はないはずだ」
 「ありがとうございます」


 お礼の言葉を言いながらも、紅月はすぐに「でも」と言葉を続ける。
 先程から紅月の事ばかり案じているが、矢鏡の話を聞いていないのだから。


 「矢鏡様は本当に大丈夫だったのですか?ほぼ1日寝込んでいたのだから」
 「先程からおまえは俺の心配ばかりだが、口づけをした事は許してくれるんだな?」
 「えッ」


 忘れていたわけでも、些細なことだったわけでもないけれど、紅月の頭の中からキスの事が抜け落ちてしまっていた。それよりも気にしなければいけないことが沢山あったからだ。
 紅月の呪いを払うためとはいえ、矢鏡にキスをされたのだ。それを、目の前の本人から言われてしまうと、その時の場面を思い返してしまう。
 冷たい唇と、目を細目ながら見た彼の綺麗な瞳の色。そして、苦しさの中に感じた甘さを。
 それに先程紅月を起こした時だって、もしかして額に唇を落とした可能性があるのだ。
 彼が目覚めてホッとした瞬間に頭から抜け落ちてしまったようだ。


 「夫婦になったのだ。口づけはいつでもしていいという事か?」
 「そ、それは………そんな事はありませんっ!」
 「何だ、そうなのか」


 口調は残念そうにしていたけれど、矢鏡の表情はとても楽しそうだ。からかわれたのだとわかり、紅月は悔しくなる。
 年上すぎる余裕なのか、神様だからお見通しなのかわからない。けれど、面白がりすぎではないか、と少しだけ顔をふくれさせた。


 そんな頬袋にどんぐりを入れたリスのような頬に、矢鏡が触れる。そして、目を細めて「やはり、夢ではないな」と、急にまた真剣な表情に変わっていた。
 彼の表情は、本当にコロコロ変わる。変わりすぎて、矢鏡の感情が上手く読めない。

 
 「触れれば温かいし、おまえと会話出来ているのだ。夢ではないな」
 「………私も夢なら覚めたくないです」
 「紅月……?」
 「矢鏡様が目の前にいるのですから。目が覚めてこれが夢だったなんて、悪夢すぎます」
 「…………覚めないさ、夢なんかじゃない」


 どの言葉が嘘なのか。
 矢鏡にはわからないはずで、自分がどんなに酷いことをしているのかを知らない彼は、とても優しい。

 わからないから、優しい?
 それは違う。矢鏡はそんな人ではない。そんな事はこの数日で嫌というほどわかってしまった。


 頬に触れていた彼の手を、紅月は包むように手を乗せる。頬と手のひらから温めて、彼に少しでも温かくなって欲しいと、紅月は願った。

 嘘つきの代償は、自分の体温を差し出す。それもいいな、なんて思い心の中でひとり悲しげに笑ったのも、彼はきっと知ることはない。
 
 

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