水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~
八、
八、
○○○
梅雨の始まりは唐突にやってくる。
紅月の街にも大雨をもたらす灰色の分厚い雲が押し寄せ、近くの川を氾濫させる一歩手前までの雨量が地上に落ちた。台風が去った後とは違い、大雨を運んだ雲が去った後も、どんよりとした空が街を覆っていた。
けれど、紅月はその雲からは逃げ出すかのように、街から離れていた。
「矢鏡様、座ってください。一応座席は2つ取ってありますから」
天井ギリギリに浮遊している矢鏡に向けて、紅月が小声で声を掛ける。
すると、彼は「そうなのか」と、仕方がないといった様子で紅月の隣の席に音もなく座った。
「俺はすぐに自分の社に戻れるのだから、準備など不要だったんだがな」
「矢鏡様、新幹線に乗ってみたかったのですよね?」
「それは、こんなにも早く走る駕籠など、乗ったことがないから興味があっただけで」
「あ、お腹空いてますか?油揚げ入りのおにぎりとサラダを持ってきたので、どうぞ」
「食べる」
今日は平日の昼間とあって新幹線の中は空席が目立っていた。走行中に立ち歩く人も少ないだろう。矢鏡を窓側に座ってもらえば、空席の前にテーブルに弁当を置いても不審には思われないだろうと紅月は思った。
この日は、2人で遠出をしていた。
矢鏡は「これはデートというものだな」と、現代のドラマで得た言葉を使いながら嬉しそうにしてくれた。このデートは紅月が提案したものだった。
目的地は、矢鏡神社。紅月は、そこにお参りに行きたいと伝えたのだ。半年に一度、紅月は実家に顔を出した後に矢鏡神社を参拝していたのだ。今日は、いつもより早めになるが、どうしても神社に行きたかったのだ。
「呪いを払ったお礼をしたいと言ったが、目の前に俺がいるのに、なぜわざわざ神社にお参りなど」
「やっぱり直接足を運んで、矢鏡様の神社でお参りしたいんです」
「そんなものなのか?」
「そんなものですよ」
まだ納得できないのか、首を傾げながら紅月が作ったサラダを口に運ぶ彼を、紅月は笑顔を送る。