水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~
「ん?どうした、紅月」
「な、何でもありません。お、お参りしてきます」
まさか「消えると思ったから」など彼に言えるはずもなく、紅月はすぐに繋いだ手を離して拝殿へと逃げるように足を向けた。
紅月は決まった参拝手順を行った後に、手を合わせて神様へと語り掛ける。すぐ傍にこの神社の神様である矢鏡がいると思うと恥ずかしさもある。けれど、いつもと同じように、神様に願いを込める。
顔を上げてから、後ろを振り向くと、矢鏡は優しく微笑んでいる。
「矢鏡様?どうかしましたか?」
「いや。おまえはいつも同じことを語り掛けるのだな。願いではなく、決意に近い」
「やっぱりお祈りはすぐに聞こえちゃうんですね」
「当たり前だろう。俺はここの神様なんだから」
当然だと言わんばかりに得意げに笑いながら、紅月に向けて右手を差し出してくる。
紅月は、それが何を意味しているのか理解する前に、自然と手を伸ばす。矢鏡が手を差し出せば、手を繋ぐ合図。それは仕事帰りで恒例になった事だ。
温かい手と冷たい手が交わると、心地よさが増すのだと紅月は知ってしまった。
もう、この手から離れたくないと思ってしまうぐらいに、その感触の虜になってしまっていた。
紅月が祈っているのはいつも同じ事。
『いつも見守りくださり、ありがとうございます。この命を大切に、生きていきます。神様もどうか幸せに』
願い事はただ1つ。それだけなのだ。