水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~
老婆に対して、反論しようとした言葉を矢鏡と止められてしまう。諦めと、興味がないような、そんな低く小さな声だった。彼の方を振り向くと、矢鏡は先程から変わらない無表情のままだった。
けれど、紅月は些細だけれど、彼の瞳が揺れているのに気づいた。
それもそのはずだ。
面と向かって自分が守っている村人に「祟り神」「さっさと壊してしまえばいい」と言われたのだ。ショックを受けないわけがないだろう。
紅月がゆっくりと近づき、今度は自分から手を差し伸べた。
「矢鏡様。帰りましょう。もうお参りは終わりましたから」
「あぁ。そうだな」
雨が強くなってきた。
それでも、今はこの場所に居ない方がいいと思った。それが、彼の家だったとしても。
矢鏡神社から離れなければ、そう思ったのだ。
案の定、雨は強くなるばかりで、山を下りる頃には、頭の先から靴までもずぶ濡れになり、靴には泥がついてしまっていた。あの老婆が使っていた階段も使えなかったため、遠回りして下山したため、酷く時間と体力を使ってしまった。すぐにでもタクシーを呼びたかった。けれど、水浸しの泥だらけの紅月の姿では、タクシーにも乗車を拒否されてしまうだろう。歩けば2時間ぐらいかかるが、移動手段がないので徒歩で駅の近くの実家やホテルまで行こうとした。
「それはダメだな。風邪ひくぞ」
「ですが、それしか方法が……」
「先程お前が俺の神社を参ってくれたからな。少しなら力が使える」
「え……」
その言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、紅月の体が変化が見られた。
紅月の周りだけ、陽だまりのような温かな光りが発生し、ふわりと春の風が訪れたのだ。そして、紅月の体の通り過ぎる時に、体や服についていた水滴な泥などを全て運んで去っていった。
そして、残ったのはよく晴天の下に干していた洗濯物の太陽の香りだった。
そして、その光が消える頃には、安心する香りがする洗い立ての洋服に、すっかり乾いた体に戻っていた。
「矢鏡様、これは……」
「神様だから。それぐらい出来る。また濡れる前に車を呼ぶんだろ?」
「は、はい。ありがとうございます」
紅月は、神社の近くの民家の屋根付きの駐車場を借りてタクシーを呼んだ。
タクシーが到着し、駅までの十数分。
矢鏡は一言も発しなかった。