水もしたたる善い神様 ~沈丁花の記憶~




 思わず、そんな低い声が出てしまい足が止まった。
 前に血の付いた白無垢が落ちていた辺りに、ありえないものの姿があったからだ。

 それは真っ黒な巨大な蛇だ。蛇を大きくしただけではなく、ずっしりと太っているのがわかる。何か獲物を体の中に納めた時のように、ぶっくりとした胴体。そして鱗は真っ黒で、丁度雨雲のようなどす黒い色だ。だがその中に赤い箇所があり、それが際立ってみえる。瞳とチロチロと見え隠れする舌だ。瞳は河に落ちている岩のように大きく、舌はとても長い。矢鏡は恐れから、気づかぬうちに体が震え、後ずさりしてしまっていた。


 「……あれが神様だって。嘘だろう。あんなのは神様じゃない、化け物ではないか……」


 どうみても、神々しさは感じられず、逆に異界の住人と言ったほうが納得できる容姿と雰囲気だった。
 巨大な蛇は、崖の下をうろうろとしては上の方をじっと見つめている。そして、時よりぱっくりと大きな口を開けている。その顔は期待に満ちた顔だった。
 そう、そこから人間が落ちてくるのを楽しみにしているように。

 それがわかった瞬間、矢鏡はぞわりと鳥肌が立った。この白い巨体の蛇は人間を食べるつもりなのだ、と。
 きっと、ここから人間、いや食料が落ちてくると理解しているのだろう。それを今か今かと心待ちにしているのだ。
 すると、崖の上から鈴の音とお経が雨音に混じって微かだが振ってくる。
 白い巨体に怖気づいているうちに、もう嫁入り行列は崖まで到着してしまったようだ。


 この蛇が河女の妹を食べ、その女も今から腹の中へ入れようとしているのだ。
 そう思うと、矢鏡の手は自然に弓矢へと伸びていた。矢鏡は山の中で生活し狩りをして育った。そのため弓矢にはかなりの自信があった。短剣を使うよりも弓矢で仕留める方が得意だったのだ。
 

 「離れた所から弓矢を打てば、この場から逃げて貰えさえすれば、あいつを助けられる」


 そう思った矢鏡は、ゆっくりと白い蛇に近づき、矢が届く範囲までくると、ゆっくりち矢をひいた。狙うはあの真っ赤な血のような瞳だ。
 禍々しい空気と、蛇が動く度に聞こえる石がすれる音とぎょろぎょろとした目。それを全身で感じては、先程よりも体が震えてしまう。

 自分が倒せば、彼女が助かる。
 矢鏡を褒めてくれた、彼女を。



 「名前を聞くって決めてたんだ。だから、俺は、何が何でも助けるって決めたんだ………」


 そう言って、矢鏡は弓矢を真っ赤な瞳に向けて、矢を放った。


 矢鏡が神へと崇められるようになったのは、この戦いのためだった。


 矢鏡は巨大な蛇を倒し、晴れの日を取り戻したのだった。

 束の間の、栄光と光りの時間を。


 
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