白衣とブラックチョコレート
インシデント
時刻は八時二十分。日勤の桜井恭平が病棟に到着する時間だ。
「あっ、桜井さんおはようございます!」
既に受け持ちの情報を取り終えた雛子は、あくびを堪えながらやってきた恭平に挨拶をした。
「はよー……っと」
「うぶっ、すす、すみませんっ」
時計とステーションの入口を交互に見ながら恭平の出勤を待っていた雛子は、勢い余って足を縺れさせ恭平の胸に顔面からダイブしたのだった。
(勢い余って転んだ挙句、変な声を出してしまった……)
幸先の悪いスタートに若干テンションが下がる。
「……って言うかなんか、ひなっち顔色あんまり良くないけど……大丈夫?」
「だ、大丈夫です!」
わざわざ高い背を屈めて、色素の薄い猫のような瞳が雛子の顔を覗き込んだ。目が合った瞬間、雛子の頬に熱が集まる。
(桜井さんに心配されてる……なんか嬉しいかも……)
「……って何考えてるの!? 煩悩退散! 退散退散ー!!」
「!?」
雛子は目を覚ますように頬をバシッと叩く。後半が声に出ていたことは本人は気付いていない。
「あっそうだ、勤務前に朝一オペの出棟時ドリップが確か……」
ブツブツと独り言を言いながら点滴作製台に向かっていく雛子。恭平が呆気に取られていると、夜勤の大沢が「遅い」といつもの如く恭平の横腹をどつく。
「うぐっ……」
思わずくぐもった呻きが口から漏れる。
「ねぇ……ちょっと。あんた雨宮のことちゃんと見てあげてる?」
大沢のジト目に、今日も朝から説教が始まる事を覚悟する。お怒りの内容はプリセプティの雨宮雛子についてのようだ。
「あー……はい、俺なりに?」
恭平の煮え切らない返答に、大沢は深い溜息を吐く。
「はぁ〜……あのねぇ。あの子、今朝何時に来たと思う?」
「さぁ……六時とか?」
いつの時代も、新人は他のスタッフより早く来るのが看護師社会の常である。「そういう体育会系の雰囲気だから」というのが無きにしも非ずだが、単純に新人本人が情報収集に時間がかかることを自覚しているからである。
特にここ火野崎大学病院のような場所では、入院患者の入れ替わりが激しいことや高度な治療法、最先端の薬剤を使用しているため、そもそも収集した情報を遂行する前に理解すること自体難易度が高いのである。
「あのねぇ、八時よ、八時! 他のスタッフに聞いてみたらここ最近その時間みたいなの。いくら慣れてきたからって新人が来るには遅すぎない!?」
……想像していた話と違った。
以前の雛子ならば七時前には来ていると風の噂に聞いていたし、ここ最近は翔太のこともある。
気合を入れ過ぎて出勤時間が前以上に早まっているのなら、さすがに注意するべきかと考えていたところだったのだが。
しかも、と大沢は続ける。
「昨日は十八時頃に記録を終えたら慌てて荷物まとめて帰って行ったわよ。今まで誰よりも遅くまで残ってあれこれやってたって言うのに……彼氏だか何だか知らないけど、ちょっと弛んできてるんじゃないの?」
あんたはさっさと帰っちゃうから知らないかもしれないけど、と大沢。
「……へぇ」
新人が早く来るべきだとか、早く帰るのは弛んでいるだとか、さすがにやや時代錯誤な物言いである。定時までに出勤して残業などせずきっちり仕事をこなせる人間の方が、恭平からすれば評価に値する。
無論、彼氏がいようがいまいがそれも個人的な話であり恭平には関係ない。
とは言え仕事に穴があればそれは問題だ。
実の所、最近は受け持ちが増えたり業務を任せられるようになったせいか小さな抜けが頻発していることは他方から聞こえていたし、恭平自身も一緒に勤務していて感じていたことである。
大きなミスに繋がらなければいい、とは危惧していたところだ。
「まったく……雨宮みたいな鈍臭い子は頑張ることくらいしか取り柄がないんだからさぁ……いくらあんたの十八番でも、手の抜き方や楽の仕方なんて教えなくて良いのよ」
「うっす……」
そんなことを教えているつもりはないのだが。そしてもちろん、自分は仕事が早いのであって決して手抜きや楽はしていないと自負している。
「……」
大沢とそんな会話をしているうちに、勤務開始まで残り五分となってしまった。恭平は受け持ちの情報を流し読みしながら、どうしたものかと溜息を吐いた。
(オペの患者さんは無事オペ室に送り届けたし……さっちゃん、今回は肺炎になりかけてるみたいでさっきちょっと苦しそうだったな……まずはさっちゃんの吸入して……よし、それから午前中のうちに動けない人の清拭に回っちゃおう)
雛子は頭の中で優先順位を付けながら業務内容を組み立てる。もちろんその間にも手は血圧測定を行い、口は患者の話し相手をしている。
随分とマルチに身体を使えるようになったものだ。
(あー、そういえばそろそろ納涼祭のうちわ作り始めないとな……確か予備も含めて三十五個だっけ? どんな柄が良いかなぁ)
続いてステーションに戻ってくると今度は吸入器に薬液を入れ、慣れた手つきでチューブに繋ぐ。それを幸子のベッドサイドに持っていき、コンセントを差し込む。
「さっちゃん、息が楽になるお薬しようね?」
「……」
普段から無口で無愛想な幸子だが、今日はいつにも増して口数が少ない。その代わりに時々苦しそうに咳き込む様子が見られる。
(そういえば今日は翔太君もちょっと体調悪そうなんだよな……昨日から微熱も出てるし、昼頃もう一回熱測りに行こう)
吸入を終えて呼吸が安定したところで素早く幸子の着替えを手伝い、次の患者の清潔ケアへと回っていく。
「雛子ちゃん、ちょっと良いかしら?」
後ろから鈴の音のような凛とした声で呼び止められ、雛子はワゴンを押す手を止めた。
「真理亜さん」
そこに立っていたのは清瀬真理亜。恭平と同期の五年目看護師である。
黒髪の映える色白で、目鼻立ちの整った美人。加えてスラリと背が高く、出るところは出ていてスタイルも良い。患者にも同僚にも優しく仕事も丁寧、まさに白衣の天使と呼ぶに相応しい女性。
恭平に次いで雛子が憧れている先輩だ。
「一号室の吉澤さん、雛子ちゃんの担当よね? 点滴の刺入部が漏れてきてるの。一緒に見に行きましょうか」
「えっ!? は、はい! お願いします!」
真理亜は本日フリーの看護師として、受け持ちをしているスタッフのフォローに回っている。特に下の学年のスタッフが受け持ちをしている場合は、キメ細やかに業務の確認をしてくれている。
点滴漏れも雛子が見逃していないか念の為チェックしてくれたのだろう。
「吉澤さん失礼します。ちょっと見せてくださいね」
布団をめくり点滴の入った左前腕を確認すると、薬液はすでにベッドシーツを濡らすほど漏れてしまっていた。接続部分が緩んでいたようで、再度しっかり繋いではみたもののすでに針の中で血液が固まり開通しそうにない。
(そんな……さっきバイタルチェックで回った時には漏れてなかったはずなのに……)
確認はしたつもりだった。しかしその時本当に大丈夫だったのか? そう問われると一気に自信がなくなる。
それは確認できていないのと同義だ。
「吉澤さん、まだ抗生剤の点滴あるし抜針とはならないわよね……雛子ちゃん、刺し直しの準備しましょうか」
「は、はいっ」
吉澤に声をかけ、今入っているプラスチック針は1度抜いて止血する。謝罪をして刺し直す事を伝えるが、難病でほとんどの時間を微睡んで過ごしている吉澤がどこまで理解しているかは分からない。
(情けない……真理亜さんが気付いてくれなかったらもっと大変なことになってた……)
処置室でトレイの上にルートキープの物品を用意しながら、雛子は深い溜息を吐く。
自分の確認が甘かったせいで患者に余計な処置を受けさせるだけでなく、イレギュラーな対応により他の患者に対応する時間まで削られてしまう。
(そういえば翔太くんの看護計画見てもらわなきゃいけないのに……桜井さんに声掛けそびれちゃったな……)
雛子の脳裏に、今朝恭平の胸に顔面ダイブした映像がプレイバックする。
(桜井さん……)
思い出しただけで心臓がドキドキと音を立て始め、それを何とか抑えようと雛子は深呼吸を繰り返す。
「おい」
「っ……!? さ、桜井さん!?」
心の中に思い描いていた人物が突然、処置室に現れた。驚いた拍子に手からトレイが滑り落ちて派手な音を立て、針や駆血帯が床に散らばる。
「すみませっ……」
「バカ、何やってんだ」
いつもより低い声で窘めつつ、恭平も散らばった物品を拾い集めてくれる。
「吉澤さん、もうすぐ抗生剤の投与時間だろ? 早く挿れ直さないと次の投与もズレてくる。もう少しテキパキ準備すること」
「はい、すみませんっ……」
しゅんと下を向く雛子に、恭平はさらに畳み掛ける。
「それに、点滴漏れには真理亜が気付いたんだろ? あれだけ漏れていて気付かないのは自分の患者見れてない証拠だ。もっと集中しろ」
「気を付けますっ……」
それだけ言うと恭平は処置室を後にした。
(桜井さんの言う通りだ……もっと気を引き締めないと……)
羞恥に身体が熱くなる。最近は確かに翔太のことで頭が一杯になり、他のことが疎かになっていたのかもしれない。
今度はトレイを落とさないようにぎゅっと握り直し、雛子は吉澤のベッドサイドへと向かう。点滴挿入はまだ経験が少なく緊張したが、真理亜に見守られながら何とか一度で成功する事ができた。
「良かった……」
チラリと真理亜の方を見ると、小さく微笑みを返してくれる。それを見て、雛子の肩からようやく力が抜けた。
点滴の固定を終え滴下速度を合わせるのに四苦八苦している時、真理亜のPHSが鳴り彼女がそれに応答する。
「はい清瀬です。はい、はい……分かりました……。雛子ちゃん」
通話を切ったあと、真理亜は雛子に声をかける。
「これから入院で上がってくる総合内科の患者さん、外来で血培(血液培養:血液内に細菌がいないか調べるための血液検査)を取り忘れたから病棟で取って欲しいみたいなの。良かったらやってみる?」
「えっ、良いんですか?」
手技の勉強はしてある。恭平が採血しているところも見学させてもらった。
これが上手くできたら、名誉挽回出来るかもしれない────。
「はい、やらせてください!」
一瞬頭に過った下心は見て見ぬふりをして、雛子は勢いよく名乗りを上げる。
「分かったわ。じゃあここが終わったら処置室に来てちょうだい。あっちの準備は私がしておくから」
「分かりました。よろしくお願いしますっ」
滴下速度の確認は後ほどしてもらうことになり、真理亜は病室をあとにする。
雛子は急いで滴下を合わせると、続いて側管から抗生剤の投与を行う。何とか予定していた投与時間までに間に合わせることが出来た。
「吉澤さん、お疲れ様でした。痛い思いさせてすみません」
返事のない吉澤に、雛子はそっと声をかけその場をあとにする。
「うわっ」
病室のドアを開けたところで、雛子は小さな影にぶつかりそうになり小さく声を上げる。
「びっくりした……どうしたの、さっちゃん?」
そこに立っていたのは池野幸子、通称さっちゃん。先程までベッドの上でぐったりしていたのに、吸入したせいかいつもの様に病棟内を彷徨いているようだ。
「……真理亜お姉ちゃんは?」
幸子が伏し目がちにポツリと呟き、雛子はすぐに合点がいく。
「ああ、真理亜さん? それなら今は処置室にいるはずだよ」
「……」
そう告げると、幸子はすぐに踵を返し処置室へ向かおうとする。雛子は慌てて幸子の手を掴む。
「ストーップ! 駄目だよさっちゃん、今回は本当にじっとしてないと。また苦しくなっちゃう」
しゃがんで目線を合わせると幸子は何か言いたげな瞳でしばらく雛子を見つめていたが、結局はこくりと頷いて素直に病室へと戻っていった。
真理亜に指導してもらい無事に血液培養を取り終え、検体を検査科へ提出しに向かう。
業務中に病棟を離れると少しだけ肩の力が抜けた。張り詰めていた緊張感が緩み、自然と深く息をつく。
(午前中の予定が大幅に狂っちゃったな……休憩前になるべく修正しないと)
そんなことを考えながら病棟に戻った時だった。
「雨宮、ちょっと」
ステーションに入るなり雛子を呼んだのは紛れもなく恭平だった。
(苗字で呼ばれた……?)
普段の飄々とした雰囲気ではなく、低く感情の見えない声で呼びつけられたことに内心動揺する。
「……はい」
しかしこの場から逃げるわけにもいかず、雛子は覚悟を決め平静を装い側に寄る。
「インシデントだ、雨宮」
ドキンと、心臓が大きく跳ねた。頭からさっと血の気が引くのが分かる。
「さっき点滴入れた吉澤さん、真理亜が確認してくれた時には三十分で200ml近くも落ちていたそうだ。挿入後に滴下数の確認はしたか?」
「はい、えっと……」
確認は基本中の基本だ。しっかりしているはずだ。
雛子は点滴挿入時のことを必死で記憶から引っ張り出す。しかし時間にしたらまだ一時間も経っていないというのに、パニックが邪魔をしてうまく思い出せない。
「確認していて200も落ちることはないだろ」
そんな雛子の様子に恭平はあからさまに溜息を吐く。
「この人の時間辺りの流量指示は?」
答えないうちに次の質問が飛んでくる。ステーションの真ん中で行われるやり取りに他のスタッフがチラチラと送る視線が強烈に刺さり、パニックが加速する。
(早く答えなくちゃっ……!)
慌てて自分のワークシートに目を落とし、吉澤の点滴を確認しようとするとまたも聞こえる溜息。
「時間辺り80mlだろ。そのくらいすぐ答えられなくてどうする」
「すみません……」
飽きれられている。そう思うと、惨めで悲しくて消えてしまいたくなる。何より患者への影響よりも、恭平にガッカリされる事を真っ先に心配した自分がとても恥ずかしくなった。
こんなのは、看護師失格だ。
「時間80ってことは約二秒に一滴の滴下速度だ。三十分で200ml落ちたって事は一秒に二滴以上。うっかりミスだな」
「はい……あの……吉澤さんは……」
雛子はやっと吉澤の体調に思いが至る。恭平は感情の読めないトーンのまま淡々と告げた。
「一応バイタルチェックもしたが何ともない。不幸中の幸いだった。とにかくもうちょっと確認は責任持ってやってくれ」
「はい……」
吐き捨てるように言い終えると、恭平はすぐにステーションを出て奥の病室へと消えていった。
残された雛子はしばらくその場から動けず、ぎゅっと下唇を噛んで下を向いていた。
「雛子ちゃん……」
佇む雛子に声をかけたのは真理亜だった。
「真理亜さん……すみません、私……」
真理亜の慈しむような瞳に見つめられ、思わず泣きそうになるのを必死に堪える。
「ご迷惑おかけしてすみませんでした……真理亜さんが気付いてくれなかったら今頃どうなっていたか……」
平謝りの雛子に、真理亜は首を横に振った。
「幸い循環器には何の問題もない患者さんだったし、血圧も問題なかったから大丈夫。新人の頃に点滴過剰なんて一番よくあるミスよ。……恭平、ちょっと厳しくし過ぎね」
切り替えましょう、と肩を叩かれ、一度患者の様子見にラウンドしてくるよう指示される。
(真理亜さんの言う通りだ……他にも患者さんはいるんだし、切り替えてこなさないと……)
雛子は強ばった表情のまま無理矢理「はい」と返事をし、ステーションを後にした。
切り替えると簡単に言うものの、その後は目も当てられない散々なものだった。
ペンを走らせれば床に落とし、ナースコールに対応すればカートにぶつかって派手な音を立てる。
「すみません!!」
今日の日勤スタッフは、一体何度雛子の謝罪を聞いたか分からないほどだった。
「あ〜あ……雨ちゃん大丈夫かな? なんかめちゃくちゃ空回りしてるけど」
「桜井さんにガツンと言われたのがよっぽどショックだったんじゃない?」
「まぁ最近目に見えて色んなことに気が散ってるし……しょうがないよ」
ステーションでは雛子を後目にヒソヒソと先輩スタッフが言葉を交わしていた。
カクテルパーティ効果。こういう言葉は、何故だかはっきりと聞こえてしまうものだ。すでにあらかたのケアは終えラウンドも済ませたところだが、雛子は記録を後回しにして翔太の病室へ向かう。
この雰囲気の中でパソコンに向かっても、とても集中出来そうになかったからだ。
「ごめんね、あまりゆっくり来られなくて」
病室のドアを軽くノックし、雛子は部屋の中へ入る。部屋の主は頭まで毛布を被って横になっており、雛子の声に少しだけ身動ぎをした。
「体調どう? 今日は微熱もあるし、しんどいかな?」
我ながら分かりきった質問だ。
入職したての頃、患者との会話は雑談ではなく、全てが情報収集であると教えられた。患者が話す事全ては療養上に必要な情報であり、医療者の質問ももちろんその上で行われるべきだと。
とはいえ、実際にそれを実行するのは難しい。
「……別にいいよ。担当だからって用もないのに来なくて」
案の定、体調の悪い翔太は不機嫌そうな目を毛布の隙間から覗かせていた。
「あ、用はあるよ! 一応もう一回熱を測ろうと思ったの」
「……」
雛子が差し出した体温計を、翔太は無言のまま緩慢な動作で受け取って脇に挟む。
測定を知らせる電子音が鳴るまでが、いつもより長く感じる。
「……今日はミスしまくって桜井さんにもたくさん怒られててさぁ。参っちゃうよね」
沈黙がもたらす居心地の悪さに、思わず口が滑ってしまった。職場内の愚痴を入院患者に、それも未成年の翔太に言うべきではなかったとすぐに後悔する。
しかし飛び出した言葉は今更引っ込められない。雛子はすぐさま話題を変える。
「辛かったら氷枕持ってこようか? 冷やすだけでも少しはすっきり……」
「いらない」
食い気味に断られ、再び沈黙が訪れる。次に繋げる糸口が見つからず押し黙った雛子に、翔太から深い溜息が漏れる。
「……あのさ、恭平さんに怒られた? それで不貞腐れて、ステーションにいるのが嫌でここに来たわけ?」
「ち、ちがっ……」
心臓がドキリとした。
もちろん翔太の様子が気になっていたことに違いはないが、半分は彼の指摘通りだったからだ。
動揺を見せた雛子を、翔太は見逃さなかった。
「なぁ……良いよな、そうやって嫌な事から逃げられるお前はさ」
翔太は吐き捨てるようにそう言った。
「ミスしたってさ、こうやって俺と話して仕事してるフリすりゃ先輩からの心象も良くなんだろ?」
「そんなことないよ……」
翔太は続ける。
「俺みたいな死にかけの子どもの担当になって、正直面倒くさいだろ?」
「……そんなこと思ってない」
(耐えろ……耐えるんだ……相手は患者だ……)
雛子は固く拳を握る。
「……お前は違うかと思ってたけど。やっぱり他の奴らと一緒か」
再び聞こえる深い溜息。
「やっぱりお前も、俺の事腫れ物に触るように扱うんだな……俺が末期患者だからってさ」
「っ……!」
咄嗟に否定する事が出来なかった。『耐えろ』と自分に命令していた時点で、翔太の言う通りだ。
「何で年下の俺にここまで言われてキレないわけ? そんなのおかしいだろ?」
「それはっ……」
(あなたが、患者だから)
指摘されたことを認めるのが怖くて、口に出す事ができない。
(何でなの私……? 篠原さんには言い返した事もあったのに……)
以前、舞に口答えしたことを思い出す。それと同じことを、何故だか翔太にはすることが出来ない。
それは翔太の言う通り、紛れもなく彼が『末期患者』という位置付けにいるからなのかもしれない。
「……」
「……チッ」
何も喋らなくなった雛子に、翔太は悔しそうに舌打ちをして体温計を投げつけた。
「……良いから、もう出てけよ……」
それっきり、翔太は背中を向けたまま喋らなくなった。雛子もまた、言葉を発する事が出来ないまま逃げるようにして病室をあとにした。
点滴過剰についてのインシデントレポートも重なり、結局業務を終えたのは定時を三時間ほど過ぎた頃だった。
疲れ切っていたためか最後の方は頭が回らなくなり、なかなか言いたいことが文章化できず時間ばかりが過ぎてしまっていた。
「お先に失礼します……」
夜勤のスタッフに挨拶して、雛子はふらつく足取りのまま更衣室に向かう。
日中の精神的ダメージが、身体全体にも重くのしかかっているように感じた。
(なんか……頭がぼんやりする……)
緩慢な動作でやっと着替えを終え、更衣室を後にする。目を瞬かせたり首を振ったりしてみるものの、そんなことくらいで疲労は吹き飛びそうになかった。
足を引きずるようにしてスタッフ用出入口から外に出たところで、雛子は見知った背中を見つける。
「桜井さん……?」
ああ、今は、会いたくないな。
業務終わりに少しだけ緩んでいた緊張の糸が、一気にピンと張り詰める感覚。
このまま恭平が気付かなければ良い。そう思ったが、神様はまだ雛子に休息の時間など与えてくれないようだ。
「……ああ、やっと終わったか」
人の気配に振り返った恭平が、雛子の姿を捉える。
「どうして……」
何故、恭平はここに居るのだろう。雛子は疑問に思う。彼は平素、勤務時間内に仕事を終えて定時に帰宅してしまう。本日は雛子のレポート記入に付き合わせてしまったため三十分ほど残業が発生したものの、彼自身の業務は既に終えていたはずだ。
「お前が終わるの待ってた。まぁ、なかなか終わんなそうだったから先帰ろうとしてたとこ」
恭平の声音は、昼間と同様に感情が読めずどこか素っ気ない。表情も能面のように冷たい。その仮面の下から漏れる本音が、今は手に取るように分かってしまう。
(怒ってる……)
雛子は直感でそう感じ取った。
「最近ちょっと酷いぞ」
起伏のない物言いの中にも、トゲがチラつく。
「ハッキリ言って弛んでる。プライベートまで干渉する気はないが、仕事に支障を来たすな」
恭平の言葉が、ナイフのように脳内を抉った。目の奥がジワジワと熱くなって、雛子は慌てて顔に力を込める。
(泣くな! 泣いちゃダメっ……!!)
必死の抵抗も虚しく、みるみるうちに溢れた涙が頬に伝う。それを見た恭平は鬱陶しそうに溜息を吐く。
「はぁ……あのさ、泣けばなんか解決する?」
平坦だった言葉にも、如実にイラつきが現れ始めていた。
「『頑張ります』『私なりに努力します』そうやって言ってりゃ評価してもらえんのはガキの頃だけだ。結果の実らない努力で患者が救えるのか?」
恭平は続ける。
「『ちゃんとやったつもりでした』これも一緒だ。やったつもり、見たつもり、その結果できてなかったら意味がない、それはしていないのと一緒だ」
「はいっ……す、すみませっ……」
一度溢れてしまったら、もう涙を止めることは困難だった。雛子は今度は嗚咽が漏れないよう必死に喉に力を入れた。
(私の行動は全部結果が伴ってない……それじゃ無駄なんだ……)
悔しい、悲しい、苦しい。
涙で視界が歪む。硬いアスファルトを踏んでいるはずなのに、足元がぐにゃぐにゃとトランポリンのように揺らぎ始める。
(全部桜井さんの言う通りだ……それなのに……私……)
歪んだ視界の端から、徐々にサイケデリックな模様が踊り出す。上手くまとまらない思考の中で、雛子はこの期に及んでまだ幼稚な感情に振り回されている自分に心底呆れた。
(私……昼間と一緒だ……桜井さんに怒られてる事自体に一番ショックを受けちゃってる……)
本当、馬鹿だな。
サイケデリックな模様は、遂に視界全てを覆ってしまっていた。赤や緑にチカチカとしていたそれが、徐々に大きな砂嵐を鳴らして灰色に変わっていった。
「……とにかく、明日は休みだからしっかり休息取って……雨宮?」
『はい』と『すみません』を小さな声で何度も繰り返していた雛子が、やがて何の相槌も打たなくなったことで恭平はようやく彼女の顔を覗き込む。
雛子は虚ろな表情のまま一度大きく揺らいだかと思うと、そのまま糸の切れたマリオネットのようにアスファルトの地面へ崩れていった。
「雨宮っ……!? おいっ、しっかりしろっ! 雨宮……! 雨宮っ!!」
「あっ、桜井さんおはようございます!」
既に受け持ちの情報を取り終えた雛子は、あくびを堪えながらやってきた恭平に挨拶をした。
「はよー……っと」
「うぶっ、すす、すみませんっ」
時計とステーションの入口を交互に見ながら恭平の出勤を待っていた雛子は、勢い余って足を縺れさせ恭平の胸に顔面からダイブしたのだった。
(勢い余って転んだ挙句、変な声を出してしまった……)
幸先の悪いスタートに若干テンションが下がる。
「……って言うかなんか、ひなっち顔色あんまり良くないけど……大丈夫?」
「だ、大丈夫です!」
わざわざ高い背を屈めて、色素の薄い猫のような瞳が雛子の顔を覗き込んだ。目が合った瞬間、雛子の頬に熱が集まる。
(桜井さんに心配されてる……なんか嬉しいかも……)
「……って何考えてるの!? 煩悩退散! 退散退散ー!!」
「!?」
雛子は目を覚ますように頬をバシッと叩く。後半が声に出ていたことは本人は気付いていない。
「あっそうだ、勤務前に朝一オペの出棟時ドリップが確か……」
ブツブツと独り言を言いながら点滴作製台に向かっていく雛子。恭平が呆気に取られていると、夜勤の大沢が「遅い」といつもの如く恭平の横腹をどつく。
「うぐっ……」
思わずくぐもった呻きが口から漏れる。
「ねぇ……ちょっと。あんた雨宮のことちゃんと見てあげてる?」
大沢のジト目に、今日も朝から説教が始まる事を覚悟する。お怒りの内容はプリセプティの雨宮雛子についてのようだ。
「あー……はい、俺なりに?」
恭平の煮え切らない返答に、大沢は深い溜息を吐く。
「はぁ〜……あのねぇ。あの子、今朝何時に来たと思う?」
「さぁ……六時とか?」
いつの時代も、新人は他のスタッフより早く来るのが看護師社会の常である。「そういう体育会系の雰囲気だから」というのが無きにしも非ずだが、単純に新人本人が情報収集に時間がかかることを自覚しているからである。
特にここ火野崎大学病院のような場所では、入院患者の入れ替わりが激しいことや高度な治療法、最先端の薬剤を使用しているため、そもそも収集した情報を遂行する前に理解すること自体難易度が高いのである。
「あのねぇ、八時よ、八時! 他のスタッフに聞いてみたらここ最近その時間みたいなの。いくら慣れてきたからって新人が来るには遅すぎない!?」
……想像していた話と違った。
以前の雛子ならば七時前には来ていると風の噂に聞いていたし、ここ最近は翔太のこともある。
気合を入れ過ぎて出勤時間が前以上に早まっているのなら、さすがに注意するべきかと考えていたところだったのだが。
しかも、と大沢は続ける。
「昨日は十八時頃に記録を終えたら慌てて荷物まとめて帰って行ったわよ。今まで誰よりも遅くまで残ってあれこれやってたって言うのに……彼氏だか何だか知らないけど、ちょっと弛んできてるんじゃないの?」
あんたはさっさと帰っちゃうから知らないかもしれないけど、と大沢。
「……へぇ」
新人が早く来るべきだとか、早く帰るのは弛んでいるだとか、さすがにやや時代錯誤な物言いである。定時までに出勤して残業などせずきっちり仕事をこなせる人間の方が、恭平からすれば評価に値する。
無論、彼氏がいようがいまいがそれも個人的な話であり恭平には関係ない。
とは言え仕事に穴があればそれは問題だ。
実の所、最近は受け持ちが増えたり業務を任せられるようになったせいか小さな抜けが頻発していることは他方から聞こえていたし、恭平自身も一緒に勤務していて感じていたことである。
大きなミスに繋がらなければいい、とは危惧していたところだ。
「まったく……雨宮みたいな鈍臭い子は頑張ることくらいしか取り柄がないんだからさぁ……いくらあんたの十八番でも、手の抜き方や楽の仕方なんて教えなくて良いのよ」
「うっす……」
そんなことを教えているつもりはないのだが。そしてもちろん、自分は仕事が早いのであって決して手抜きや楽はしていないと自負している。
「……」
大沢とそんな会話をしているうちに、勤務開始まで残り五分となってしまった。恭平は受け持ちの情報を流し読みしながら、どうしたものかと溜息を吐いた。
(オペの患者さんは無事オペ室に送り届けたし……さっちゃん、今回は肺炎になりかけてるみたいでさっきちょっと苦しそうだったな……まずはさっちゃんの吸入して……よし、それから午前中のうちに動けない人の清拭に回っちゃおう)
雛子は頭の中で優先順位を付けながら業務内容を組み立てる。もちろんその間にも手は血圧測定を行い、口は患者の話し相手をしている。
随分とマルチに身体を使えるようになったものだ。
(あー、そういえばそろそろ納涼祭のうちわ作り始めないとな……確か予備も含めて三十五個だっけ? どんな柄が良いかなぁ)
続いてステーションに戻ってくると今度は吸入器に薬液を入れ、慣れた手つきでチューブに繋ぐ。それを幸子のベッドサイドに持っていき、コンセントを差し込む。
「さっちゃん、息が楽になるお薬しようね?」
「……」
普段から無口で無愛想な幸子だが、今日はいつにも増して口数が少ない。その代わりに時々苦しそうに咳き込む様子が見られる。
(そういえば今日は翔太君もちょっと体調悪そうなんだよな……昨日から微熱も出てるし、昼頃もう一回熱測りに行こう)
吸入を終えて呼吸が安定したところで素早く幸子の着替えを手伝い、次の患者の清潔ケアへと回っていく。
「雛子ちゃん、ちょっと良いかしら?」
後ろから鈴の音のような凛とした声で呼び止められ、雛子はワゴンを押す手を止めた。
「真理亜さん」
そこに立っていたのは清瀬真理亜。恭平と同期の五年目看護師である。
黒髪の映える色白で、目鼻立ちの整った美人。加えてスラリと背が高く、出るところは出ていてスタイルも良い。患者にも同僚にも優しく仕事も丁寧、まさに白衣の天使と呼ぶに相応しい女性。
恭平に次いで雛子が憧れている先輩だ。
「一号室の吉澤さん、雛子ちゃんの担当よね? 点滴の刺入部が漏れてきてるの。一緒に見に行きましょうか」
「えっ!? は、はい! お願いします!」
真理亜は本日フリーの看護師として、受け持ちをしているスタッフのフォローに回っている。特に下の学年のスタッフが受け持ちをしている場合は、キメ細やかに業務の確認をしてくれている。
点滴漏れも雛子が見逃していないか念の為チェックしてくれたのだろう。
「吉澤さん失礼します。ちょっと見せてくださいね」
布団をめくり点滴の入った左前腕を確認すると、薬液はすでにベッドシーツを濡らすほど漏れてしまっていた。接続部分が緩んでいたようで、再度しっかり繋いではみたもののすでに針の中で血液が固まり開通しそうにない。
(そんな……さっきバイタルチェックで回った時には漏れてなかったはずなのに……)
確認はしたつもりだった。しかしその時本当に大丈夫だったのか? そう問われると一気に自信がなくなる。
それは確認できていないのと同義だ。
「吉澤さん、まだ抗生剤の点滴あるし抜針とはならないわよね……雛子ちゃん、刺し直しの準備しましょうか」
「は、はいっ」
吉澤に声をかけ、今入っているプラスチック針は1度抜いて止血する。謝罪をして刺し直す事を伝えるが、難病でほとんどの時間を微睡んで過ごしている吉澤がどこまで理解しているかは分からない。
(情けない……真理亜さんが気付いてくれなかったらもっと大変なことになってた……)
処置室でトレイの上にルートキープの物品を用意しながら、雛子は深い溜息を吐く。
自分の確認が甘かったせいで患者に余計な処置を受けさせるだけでなく、イレギュラーな対応により他の患者に対応する時間まで削られてしまう。
(そういえば翔太くんの看護計画見てもらわなきゃいけないのに……桜井さんに声掛けそびれちゃったな……)
雛子の脳裏に、今朝恭平の胸に顔面ダイブした映像がプレイバックする。
(桜井さん……)
思い出しただけで心臓がドキドキと音を立て始め、それを何とか抑えようと雛子は深呼吸を繰り返す。
「おい」
「っ……!? さ、桜井さん!?」
心の中に思い描いていた人物が突然、処置室に現れた。驚いた拍子に手からトレイが滑り落ちて派手な音を立て、針や駆血帯が床に散らばる。
「すみませっ……」
「バカ、何やってんだ」
いつもより低い声で窘めつつ、恭平も散らばった物品を拾い集めてくれる。
「吉澤さん、もうすぐ抗生剤の投与時間だろ? 早く挿れ直さないと次の投与もズレてくる。もう少しテキパキ準備すること」
「はい、すみませんっ……」
しゅんと下を向く雛子に、恭平はさらに畳み掛ける。
「それに、点滴漏れには真理亜が気付いたんだろ? あれだけ漏れていて気付かないのは自分の患者見れてない証拠だ。もっと集中しろ」
「気を付けますっ……」
それだけ言うと恭平は処置室を後にした。
(桜井さんの言う通りだ……もっと気を引き締めないと……)
羞恥に身体が熱くなる。最近は確かに翔太のことで頭が一杯になり、他のことが疎かになっていたのかもしれない。
今度はトレイを落とさないようにぎゅっと握り直し、雛子は吉澤のベッドサイドへと向かう。点滴挿入はまだ経験が少なく緊張したが、真理亜に見守られながら何とか一度で成功する事ができた。
「良かった……」
チラリと真理亜の方を見ると、小さく微笑みを返してくれる。それを見て、雛子の肩からようやく力が抜けた。
点滴の固定を終え滴下速度を合わせるのに四苦八苦している時、真理亜のPHSが鳴り彼女がそれに応答する。
「はい清瀬です。はい、はい……分かりました……。雛子ちゃん」
通話を切ったあと、真理亜は雛子に声をかける。
「これから入院で上がってくる総合内科の患者さん、外来で血培(血液培養:血液内に細菌がいないか調べるための血液検査)を取り忘れたから病棟で取って欲しいみたいなの。良かったらやってみる?」
「えっ、良いんですか?」
手技の勉強はしてある。恭平が採血しているところも見学させてもらった。
これが上手くできたら、名誉挽回出来るかもしれない────。
「はい、やらせてください!」
一瞬頭に過った下心は見て見ぬふりをして、雛子は勢いよく名乗りを上げる。
「分かったわ。じゃあここが終わったら処置室に来てちょうだい。あっちの準備は私がしておくから」
「分かりました。よろしくお願いしますっ」
滴下速度の確認は後ほどしてもらうことになり、真理亜は病室をあとにする。
雛子は急いで滴下を合わせると、続いて側管から抗生剤の投与を行う。何とか予定していた投与時間までに間に合わせることが出来た。
「吉澤さん、お疲れ様でした。痛い思いさせてすみません」
返事のない吉澤に、雛子はそっと声をかけその場をあとにする。
「うわっ」
病室のドアを開けたところで、雛子は小さな影にぶつかりそうになり小さく声を上げる。
「びっくりした……どうしたの、さっちゃん?」
そこに立っていたのは池野幸子、通称さっちゃん。先程までベッドの上でぐったりしていたのに、吸入したせいかいつもの様に病棟内を彷徨いているようだ。
「……真理亜お姉ちゃんは?」
幸子が伏し目がちにポツリと呟き、雛子はすぐに合点がいく。
「ああ、真理亜さん? それなら今は処置室にいるはずだよ」
「……」
そう告げると、幸子はすぐに踵を返し処置室へ向かおうとする。雛子は慌てて幸子の手を掴む。
「ストーップ! 駄目だよさっちゃん、今回は本当にじっとしてないと。また苦しくなっちゃう」
しゃがんで目線を合わせると幸子は何か言いたげな瞳でしばらく雛子を見つめていたが、結局はこくりと頷いて素直に病室へと戻っていった。
真理亜に指導してもらい無事に血液培養を取り終え、検体を検査科へ提出しに向かう。
業務中に病棟を離れると少しだけ肩の力が抜けた。張り詰めていた緊張感が緩み、自然と深く息をつく。
(午前中の予定が大幅に狂っちゃったな……休憩前になるべく修正しないと)
そんなことを考えながら病棟に戻った時だった。
「雨宮、ちょっと」
ステーションに入るなり雛子を呼んだのは紛れもなく恭平だった。
(苗字で呼ばれた……?)
普段の飄々とした雰囲気ではなく、低く感情の見えない声で呼びつけられたことに内心動揺する。
「……はい」
しかしこの場から逃げるわけにもいかず、雛子は覚悟を決め平静を装い側に寄る。
「インシデントだ、雨宮」
ドキンと、心臓が大きく跳ねた。頭からさっと血の気が引くのが分かる。
「さっき点滴入れた吉澤さん、真理亜が確認してくれた時には三十分で200ml近くも落ちていたそうだ。挿入後に滴下数の確認はしたか?」
「はい、えっと……」
確認は基本中の基本だ。しっかりしているはずだ。
雛子は点滴挿入時のことを必死で記憶から引っ張り出す。しかし時間にしたらまだ一時間も経っていないというのに、パニックが邪魔をしてうまく思い出せない。
「確認していて200も落ちることはないだろ」
そんな雛子の様子に恭平はあからさまに溜息を吐く。
「この人の時間辺りの流量指示は?」
答えないうちに次の質問が飛んでくる。ステーションの真ん中で行われるやり取りに他のスタッフがチラチラと送る視線が強烈に刺さり、パニックが加速する。
(早く答えなくちゃっ……!)
慌てて自分のワークシートに目を落とし、吉澤の点滴を確認しようとするとまたも聞こえる溜息。
「時間辺り80mlだろ。そのくらいすぐ答えられなくてどうする」
「すみません……」
飽きれられている。そう思うと、惨めで悲しくて消えてしまいたくなる。何より患者への影響よりも、恭平にガッカリされる事を真っ先に心配した自分がとても恥ずかしくなった。
こんなのは、看護師失格だ。
「時間80ってことは約二秒に一滴の滴下速度だ。三十分で200ml落ちたって事は一秒に二滴以上。うっかりミスだな」
「はい……あの……吉澤さんは……」
雛子はやっと吉澤の体調に思いが至る。恭平は感情の読めないトーンのまま淡々と告げた。
「一応バイタルチェックもしたが何ともない。不幸中の幸いだった。とにかくもうちょっと確認は責任持ってやってくれ」
「はい……」
吐き捨てるように言い終えると、恭平はすぐにステーションを出て奥の病室へと消えていった。
残された雛子はしばらくその場から動けず、ぎゅっと下唇を噛んで下を向いていた。
「雛子ちゃん……」
佇む雛子に声をかけたのは真理亜だった。
「真理亜さん……すみません、私……」
真理亜の慈しむような瞳に見つめられ、思わず泣きそうになるのを必死に堪える。
「ご迷惑おかけしてすみませんでした……真理亜さんが気付いてくれなかったら今頃どうなっていたか……」
平謝りの雛子に、真理亜は首を横に振った。
「幸い循環器には何の問題もない患者さんだったし、血圧も問題なかったから大丈夫。新人の頃に点滴過剰なんて一番よくあるミスよ。……恭平、ちょっと厳しくし過ぎね」
切り替えましょう、と肩を叩かれ、一度患者の様子見にラウンドしてくるよう指示される。
(真理亜さんの言う通りだ……他にも患者さんはいるんだし、切り替えてこなさないと……)
雛子は強ばった表情のまま無理矢理「はい」と返事をし、ステーションを後にした。
切り替えると簡単に言うものの、その後は目も当てられない散々なものだった。
ペンを走らせれば床に落とし、ナースコールに対応すればカートにぶつかって派手な音を立てる。
「すみません!!」
今日の日勤スタッフは、一体何度雛子の謝罪を聞いたか分からないほどだった。
「あ〜あ……雨ちゃん大丈夫かな? なんかめちゃくちゃ空回りしてるけど」
「桜井さんにガツンと言われたのがよっぽどショックだったんじゃない?」
「まぁ最近目に見えて色んなことに気が散ってるし……しょうがないよ」
ステーションでは雛子を後目にヒソヒソと先輩スタッフが言葉を交わしていた。
カクテルパーティ効果。こういう言葉は、何故だかはっきりと聞こえてしまうものだ。すでにあらかたのケアは終えラウンドも済ませたところだが、雛子は記録を後回しにして翔太の病室へ向かう。
この雰囲気の中でパソコンに向かっても、とても集中出来そうになかったからだ。
「ごめんね、あまりゆっくり来られなくて」
病室のドアを軽くノックし、雛子は部屋の中へ入る。部屋の主は頭まで毛布を被って横になっており、雛子の声に少しだけ身動ぎをした。
「体調どう? 今日は微熱もあるし、しんどいかな?」
我ながら分かりきった質問だ。
入職したての頃、患者との会話は雑談ではなく、全てが情報収集であると教えられた。患者が話す事全ては療養上に必要な情報であり、医療者の質問ももちろんその上で行われるべきだと。
とはいえ、実際にそれを実行するのは難しい。
「……別にいいよ。担当だからって用もないのに来なくて」
案の定、体調の悪い翔太は不機嫌そうな目を毛布の隙間から覗かせていた。
「あ、用はあるよ! 一応もう一回熱を測ろうと思ったの」
「……」
雛子が差し出した体温計を、翔太は無言のまま緩慢な動作で受け取って脇に挟む。
測定を知らせる電子音が鳴るまでが、いつもより長く感じる。
「……今日はミスしまくって桜井さんにもたくさん怒られててさぁ。参っちゃうよね」
沈黙がもたらす居心地の悪さに、思わず口が滑ってしまった。職場内の愚痴を入院患者に、それも未成年の翔太に言うべきではなかったとすぐに後悔する。
しかし飛び出した言葉は今更引っ込められない。雛子はすぐさま話題を変える。
「辛かったら氷枕持ってこようか? 冷やすだけでも少しはすっきり……」
「いらない」
食い気味に断られ、再び沈黙が訪れる。次に繋げる糸口が見つからず押し黙った雛子に、翔太から深い溜息が漏れる。
「……あのさ、恭平さんに怒られた? それで不貞腐れて、ステーションにいるのが嫌でここに来たわけ?」
「ち、ちがっ……」
心臓がドキリとした。
もちろん翔太の様子が気になっていたことに違いはないが、半分は彼の指摘通りだったからだ。
動揺を見せた雛子を、翔太は見逃さなかった。
「なぁ……良いよな、そうやって嫌な事から逃げられるお前はさ」
翔太は吐き捨てるようにそう言った。
「ミスしたってさ、こうやって俺と話して仕事してるフリすりゃ先輩からの心象も良くなんだろ?」
「そんなことないよ……」
翔太は続ける。
「俺みたいな死にかけの子どもの担当になって、正直面倒くさいだろ?」
「……そんなこと思ってない」
(耐えろ……耐えるんだ……相手は患者だ……)
雛子は固く拳を握る。
「……お前は違うかと思ってたけど。やっぱり他の奴らと一緒か」
再び聞こえる深い溜息。
「やっぱりお前も、俺の事腫れ物に触るように扱うんだな……俺が末期患者だからってさ」
「っ……!」
咄嗟に否定する事が出来なかった。『耐えろ』と自分に命令していた時点で、翔太の言う通りだ。
「何で年下の俺にここまで言われてキレないわけ? そんなのおかしいだろ?」
「それはっ……」
(あなたが、患者だから)
指摘されたことを認めるのが怖くて、口に出す事ができない。
(何でなの私……? 篠原さんには言い返した事もあったのに……)
以前、舞に口答えしたことを思い出す。それと同じことを、何故だか翔太にはすることが出来ない。
それは翔太の言う通り、紛れもなく彼が『末期患者』という位置付けにいるからなのかもしれない。
「……」
「……チッ」
何も喋らなくなった雛子に、翔太は悔しそうに舌打ちをして体温計を投げつけた。
「……良いから、もう出てけよ……」
それっきり、翔太は背中を向けたまま喋らなくなった。雛子もまた、言葉を発する事が出来ないまま逃げるようにして病室をあとにした。
点滴過剰についてのインシデントレポートも重なり、結局業務を終えたのは定時を三時間ほど過ぎた頃だった。
疲れ切っていたためか最後の方は頭が回らなくなり、なかなか言いたいことが文章化できず時間ばかりが過ぎてしまっていた。
「お先に失礼します……」
夜勤のスタッフに挨拶して、雛子はふらつく足取りのまま更衣室に向かう。
日中の精神的ダメージが、身体全体にも重くのしかかっているように感じた。
(なんか……頭がぼんやりする……)
緩慢な動作でやっと着替えを終え、更衣室を後にする。目を瞬かせたり首を振ったりしてみるものの、そんなことくらいで疲労は吹き飛びそうになかった。
足を引きずるようにしてスタッフ用出入口から外に出たところで、雛子は見知った背中を見つける。
「桜井さん……?」
ああ、今は、会いたくないな。
業務終わりに少しだけ緩んでいた緊張の糸が、一気にピンと張り詰める感覚。
このまま恭平が気付かなければ良い。そう思ったが、神様はまだ雛子に休息の時間など与えてくれないようだ。
「……ああ、やっと終わったか」
人の気配に振り返った恭平が、雛子の姿を捉える。
「どうして……」
何故、恭平はここに居るのだろう。雛子は疑問に思う。彼は平素、勤務時間内に仕事を終えて定時に帰宅してしまう。本日は雛子のレポート記入に付き合わせてしまったため三十分ほど残業が発生したものの、彼自身の業務は既に終えていたはずだ。
「お前が終わるの待ってた。まぁ、なかなか終わんなそうだったから先帰ろうとしてたとこ」
恭平の声音は、昼間と同様に感情が読めずどこか素っ気ない。表情も能面のように冷たい。その仮面の下から漏れる本音が、今は手に取るように分かってしまう。
(怒ってる……)
雛子は直感でそう感じ取った。
「最近ちょっと酷いぞ」
起伏のない物言いの中にも、トゲがチラつく。
「ハッキリ言って弛んでる。プライベートまで干渉する気はないが、仕事に支障を来たすな」
恭平の言葉が、ナイフのように脳内を抉った。目の奥がジワジワと熱くなって、雛子は慌てて顔に力を込める。
(泣くな! 泣いちゃダメっ……!!)
必死の抵抗も虚しく、みるみるうちに溢れた涙が頬に伝う。それを見た恭平は鬱陶しそうに溜息を吐く。
「はぁ……あのさ、泣けばなんか解決する?」
平坦だった言葉にも、如実にイラつきが現れ始めていた。
「『頑張ります』『私なりに努力します』そうやって言ってりゃ評価してもらえんのはガキの頃だけだ。結果の実らない努力で患者が救えるのか?」
恭平は続ける。
「『ちゃんとやったつもりでした』これも一緒だ。やったつもり、見たつもり、その結果できてなかったら意味がない、それはしていないのと一緒だ」
「はいっ……す、すみませっ……」
一度溢れてしまったら、もう涙を止めることは困難だった。雛子は今度は嗚咽が漏れないよう必死に喉に力を入れた。
(私の行動は全部結果が伴ってない……それじゃ無駄なんだ……)
悔しい、悲しい、苦しい。
涙で視界が歪む。硬いアスファルトを踏んでいるはずなのに、足元がぐにゃぐにゃとトランポリンのように揺らぎ始める。
(全部桜井さんの言う通りだ……それなのに……私……)
歪んだ視界の端から、徐々にサイケデリックな模様が踊り出す。上手くまとまらない思考の中で、雛子はこの期に及んでまだ幼稚な感情に振り回されている自分に心底呆れた。
(私……昼間と一緒だ……桜井さんに怒られてる事自体に一番ショックを受けちゃってる……)
本当、馬鹿だな。
サイケデリックな模様は、遂に視界全てを覆ってしまっていた。赤や緑にチカチカとしていたそれが、徐々に大きな砂嵐を鳴らして灰色に変わっていった。
「……とにかく、明日は休みだからしっかり休息取って……雨宮?」
『はい』と『すみません』を小さな声で何度も繰り返していた雛子が、やがて何の相槌も打たなくなったことで恭平はようやく彼女の顔を覗き込む。
雛子は虚ろな表情のまま一度大きく揺らいだかと思うと、そのまま糸の切れたマリオネットのようにアスファルトの地面へ崩れていった。
「雨宮っ……!? おいっ、しっかりしろっ! 雨宮……! 雨宮っ!!」