白衣とブラックチョコレート
「おはようございます! お熱と血圧測らせてね〜」

雛子が病室に入ると、翔太は操作していたテレビゲームのコントローラーのポーズボタンを押して居住まいを正した。体調が良い時はもっぱらサッカーゲームをして遊んでいるのが翔太の生活スタイルだ。

「良かったぁ、今日は体調良さそうだね」

「……まぁな」

翔太は雛子を見るなり、やや気まずそうな表情を見せた。

カルテや夜勤からの申し送りである程度状態は把握していたが、やはり直に元気そうな姿を見ると嬉しいものだ。

「この前はごめんね? 体調の悪い時にウザかったでしょう?」

雛子はいつも通り翔太に体温計を渡しながら、休み前のことを詫びた。

「たしかに」

「うっ……そうストレートに言われるとグサッとくるけど……」

にべもない言い方に少し項垂れるも、今日は言葉のキャッチボールができている方だという事実に嬉しくなる。

「と、とにかく! 私はもっと翔太くんのことを知りたいし、仲良くなりたいの。サブとはいえせっかく担当になったんだし、新人で受け持ちが少ない今が一番関われるチャンスなの! だから懲りずにまた暇な時は来ちゃうからね!」

「なんだよそれ……」

雛子の勢いに、翔太は面食らったような表情を見せたあと少しだけ頬を弛めた。

「……俺の方こそごめん」

素直な態度に、今度は雛子の方が目を丸くする。

「この前はその……体調が悪くて、お前に当たっただけなんだ。また具合悪かったらおんなじことしちまうかもしんないけど……」

雛子同様、翔太もまたこの前の態度を反省し、気にかけていた。

(なんだ……めちゃくちゃ普通じゃん……)

病気だからとか、ターミナルだからとかは全く関係ない。そこには藤村翔太という等身大の、どこにでもいる思春期男子の姿があった。

「……次生意気なこと言ったら、今度はガツンとぶん殴る」

雛子の物騒な言葉に、翔太はぎょっとした顔を見せた。

「殴るなよ! 血小板低いんだぞ!?」

しばらくお互い睨み合った後、どちらからともなく笑みがこぼれ、二人は笑いあった。

「そんなことより、お前は大丈夫なのかよ? この前すげー顔色悪かったけど」

「えっ!? バレてた!?」

まさか翔太にまでバレていたとは。患者に心配されていては元も子もない。

「やっぱり具合悪かったんだ」

翔太は飽きれたように溜息を吐き、雛子は恥ずかしそうに笑みを取り繕う。

「いや〜全然自覚はなかったんだけどね……実は勤務終わりに気が抜けて倒れちゃって……あはは〜」

「はぁ!? 倒れたって、本当に大丈夫かよ……」

笑って誤魔化す。恭平に迷惑をかけたとなればさらにとやかく言われるに違いないので、それは黙っておこう。

「まぁ今はだいぶ元気そうだな……気を付けろよお前もうババアなんだからさ。入院なんてしたら暇過ぎてまじで心が死ぬから。あ〜暇だなぁ」

「ちょっとババアはやめてよ、まだ二十一なんだから! ひまひまって、さっきまでゲームしてたじゃない?」

中学生から見ればババアかもしれないが、実年齢からすると童顔な方だし何より病棟の中では最年少なのである。ここは先輩方のためにも一応否定しておく。

「……こんなゲーム、全然やった気しねぇよ。本当のサッカーがやりたい」

翔太は床頭台からサッカーボールを取ると、寂しそうに目を伏せた。

ボールにはチームのメンバーからの寄せ書きが書かれていた。その中には『夢』『希望』『諦めない』などポジティブなワードがそれぞれ刻まれている。

しかし簡単に「病気が治ったらできる」などと言える状況ではないのは誰の目にも明らかだった。

「……」

なんと声をかければ良いのか考えあぐねていると、翔太はふと気が抜けたように笑う。

「なんだ、その顔」

翔太はサッカーボールを置いてあった場所に戻すと、決して広くはないベッドに大の字で寝転んだ。

「別にいーんだよ。これが俺の人生だって受け止めてるから。なんかさ、最近は生きてるのも死んでるのも、人間そんなに変わらないだろって思っててさ。だから俺、死ぬのは怖くないよ」

翔太が窓の外に目を向ける。その瞳には、どこか覚悟のようなものが宿っていた。

遠くから蝉の声が聞こえる。この部屋で唯一、季節を感じられる場所だ。

「俺小さい頃からサッカーばっかりやっててさ、リトルリーグにも所属して将来はプロになりたかったんだ。毎日汗と埃でドロドロになって帰っても、母さんは文句言わずに洗濯してくれてた」

翔太は続ける。

「仕事が忙しくても、試合の日はいつも父さんと、十歳下の妹と三人で見に来るんだ。あ、妹は俺に憧れてサッカー始めたんだけど、なかなかセンスあるんだぜ? すごいだろ!」

家族について語るその目は、まるで小さな子どものように輝いていた。そんな翔太を微笑ましく眺めていると、視線に気が付いた彼がハッとして普段の無愛想な表情へと逆戻りした。

「……俺んとこばっかいるとまた仕事終わらなくて恭平さん達に迷惑かかるだろ。早く戻れよっ」

「ふふっ……はーい」

しっしっと手で追い払われ、雛子は素直に病室を後にする。











ドアの外に一人の女性が立っていたことに気づいたのは、病室を出てからだった。

「あ、お母さんこんにちは」

それが翔太の母親だと気付くのに一瞬の間があった。彼女が普段のパンツスーツ姿ではなく、ラフなTシャツにスニーカーという出で立ちだったからだ。

「こんにちは雨宮さん」

母親はショートカットの髪を耳にかけながら少しだけ頭を下げた。そのまま病室のドアから少し離れた場所まで移動する彼女に、雛子も従う。

「あの子とはうまくやっているのね」

病室の前で翔太と雛子のやり取りを聞いていたのだろう。

「はい、体調によって波はありますが……。今日は調子が良いみたいで、ご家族の話もしてくれました」

雛子のトーンに釣られ、翔太の母親も口元を柔らかに緩める。

「そう……。安心したわ」

彼女は小さくため息をついた。

「サブとはいえ、最初は新人さんが担当になることが少し不安だったの。ごめんなさいね」

でも、と言葉を続ける。

「スタッフさんの中では歳が近いからか、あなたには心を開いているみたい。あの子が残された時間を楽しく過ごしてくれるならそれが一番嬉しいわ」

(あっ……)

笑みの中にも、彼女の瞳の中に強い光を見た。その光は、何かを決意した光だと思った。翔太自身の瞳に見たものと同じだ。

「したくはないけどね、私達も覚悟しないとって主人とも話しているの。だからあの子が一緒にいて楽しいと思える方に担当してもらえるのが良いって」

「お母さん……」

雛子がうまく返答せずにいると、廊下の向こうから大柄の男性と小さな少女が手を繋いでやってきた。

「ママー!」

翔太が雛子達の方に大きく手を振ったのを見て、彼らが翔太の父親と妹だと気付いた。

「こんにちは、初めまして。翔太君の副担当になった雨宮雛子です」

少女はキョトンとして母親の服の裾を掴んでいたが、父親は合点がいったように朗らかに頷いていた。

「新人さんなんだってね。僕はなかなか面会に来られなくて、任せ切りですみません。よろしく頼みます」

ニカッと笑った顔は、翔太にそっくりだった。

釣られて雛子も微笑むと、翔太の部屋のドアに駆け寄りノックをする。再び顔を覗かせた雛子に翔太は忘れ物でもしたのかと訝しむような表情を見せる。

しかし雛子の後ろに見知った顔を見つけ、すぐに驚いたように目を大きく見開いた。

「父さん! それに紫織も!」

母親だけでなく、家族全員揃っていることに翔太は目を瞬かせていた。

「父さんも母さんもちょうど有給が取れたんだよ。紫織も翔太に会いたがってたし、今日は保育園を休ませて連れてきたんだ」

妹の紫織は、翔太の姿を見るとすぐに満面の笑みで駆け寄りベッドによじ登る。翔太もまたそんな妹を柔らかな表情で迎え入れていた。

「……何かあったら呼んでくださいね」

家族が病室に入ると、雛子はそう声をかけて部屋をあとにした。

「……」

普通に、いつも通りに声をかけられた、と思う。

雛子は鼻の奥がツンとしてくるのを堪えた。

(ご両親は、もう覚悟してるんだ……)

家族を亡くす痛みと苦しみは、経験した者にしか分からない。ましてや自分の子どもを失うなどどれほどの痛みだろう。

最後の治療に掛けているとはいえ、それが功を奏する保証はどこにもない。「無理かもしれない」という覚悟を、あの家族は今まさに背負っているのだ。

「やばい……私が泣いてる場合じゃ……」

廊下を歩きながら何とか耐えるも、じわじわと溢れてきた涙を拭うために雛子は処置室へ飛び込んだ。

慌てて涙を拭い、天井を仰いで深呼吸を何度か繰り返して心を落ち着ける。


「だーれだ」

「うぁっ!?」

突然目を塞がれ、雛子は素っ頓狂な声を上げる。反射的に振り返ると、そこには普段通りの恭平がこちらを見下ろしていた。

「さ、桜井さん……心臓に悪いのでそういうのやめてください……」

ドキドキとうるさい胸に手を当て、雛子は非難の声を上げる。

「こんなところでサボってるほど暇じゃないぞー」

そう言いつつ、恭平はおもむろにポケットからチョコレートを取り出すと、もぐもぐと咀嚼しながら雛子を一瞥する。

「ふふっ……桜井さんには言われたくないです」

相変わらずの行動に思わず笑みをこぼすと、恭平は表情の乏しい顔にやや不思議そうな色を浮かべた。

「……なに泣いてんの?」

「いや、笑ってるんですけど」

思わず突っ込む。

「いや、泣いてるじゃん」

「っ……」

突然伸ばされた恭平の長い指が雛子の目尻を拭う。そんな不意打ちにたじろぎつつ、雛子は先程の翔太やその両親達とのやり取りを話した。








「覚悟を決めてるって……お母さん、そう言っていました」

「そうか……」

雛子の話を聞いた恭平は、暫し無言で何かを考えているようだった。やがてふと小さく溜息を吐く。

「……俺もな、家族のような人を亡くしたことがあるんだ」

「えっ……」

恭平のぽつりと呟いた言葉に、雛子は驚いて目を丸くする。

(これって……私が聞いて良いことなの……?)

戸惑う雛子に構わず、恭平は言葉を続ける。

「病気で一年くらい療養していたから覚悟する時間はあったはずなんだが、やっぱりいざとなると谷底に突き落とされたような気分だった。柄にもなく、立ち直るのに時間がかかったな」

恭平の過去に、雛子はなんと言って良いか分からず狼狽えた。淡々と語る言葉の端に、拭い切れない悲しみの影が見える気がした。

「まぁ事故なんかで突然亡くすのに比べたらまだ……って、何でまた泣いてんの?」

「なっ……泣いて、ない、ですっ……」

気が付くと、雛子の両目からは先程とは比べ物にならないくらいの涙がボロボロと零れ落ちていた。ぎょっとしたような顔をして、恭平が再び雛子の頬に伝う涙を拭う。

「そ、そんなのっ、比べることじゃないですっ……病気だろうが事故だろうが、死んじゃったらそれで終わりなんですっ……残された人はずっと、どうして、何でって、答えの出ない疑問でズタボロになりながらっ……それでもっ、生きていかなきゃいけないんですっ……」

そこまで一息に述べると、雛子は今度こそ感情が堰を切って溢れ出ししゃくり上げて泣いた。

「悪かった……そんなに泣くなよ……とりあえずリーダーに言っとくから、お前先に休憩入れ。俺もあとから行く」

恭平は困ったような飽きれたような表情で雛子の頭にポンポンと触れると、処置室を出て行った。雛子は頷き、言われた通りそのまま休憩室へと向かう。


「ふぅっ……」

誰もいない休憩室の冷蔵庫から冷やしておいたミネラルウォーターを取り一口飲むと、ようやく嗚咽が少し収まった。

続いてポケットに携帯しているピルケースの中から数種類の錠剤を取り出し、まとめて口に入れて流し込む。



ふと、暗い記憶の蓋が鈍い音を立てて隙間を開けた気がした。





(あの時……もし死んだのが私だったら……)



「っ……」



考えるな。


考えるな。


考えるな。




何か怖いものが見えそうになって、雛子は心の中で三回、呪文を唱える。

これは記憶に蓋をする呪文と決めていた。


「ダメ、考えちゃ。仕事に支障が出る。この話はおしまい」

自身の声で、耳からも暗示をかける。


雛子は手のひらにある空になった薬のシートを見つめ、深く息を吐いた。


(私はこの薬と共に、生きていくことを宿命付られたんだから……)



突然休憩室のドアが開き、雛子はびくりと身体を揺らした。


「なに、そんなとこ突っ立って。何やってんの」

恭平だった。分かりにくいながらも少し驚いたように目を見開いている。

「あっ、えっと、なんでもないです」

雛子はなるべく不自然にならないよう冷蔵庫から弁当を取り出すふりをしながら、ポケットの中にピルケースと空の薬剤シートを突っ込んだ。

「今日はわりと病棟落ち着いてて良かったな」

「あ、それ。言ったら荒れちゃうやつじゃないんですか?」

「んー迷信迷信」

そんな会話をしつつ、電子レンジで温めた弁当を食べる。恭平はコンビニのチャーハンにメロンパンという異色のコンビを交互に口へ運んでいたがいつものことだ。

「問題は明日の夜。荒れないと良いけどな」

恭平はソファで長い脚をだらしなく伸ばしながらそう宣う。彼とともに明日夜勤入りの雛子も深く同意した。

「何事もなく終わりたいですねぇ。ところで明日の夜勤ってどなたと一緒でしたっけ?」

「誰だっけなー。えーっと……」

二人は休憩室の掲示板に貼られているシフト表に目をやる。明日の日付に『入』と書かれている人物を上から順に探していく。

「……」

「……」

そしてシフトに入るメンバーを確認した時、二人の顔からは一切の感情が抜け落ちていたのだった。










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