白衣とブラックチョコレート
人工呼吸……?
「……ねぇ」
防波堤の上から消波ブロックの隙間を覗き込み、舞は声を掛けた。
「……ちょっと」
返事はない。
雛子の姿も目視で確認することが出来ない。
「もう良いからっ! 早く戻ってきなさいよっ!!」
大声で呼びかけても、雛子が戻ってこない。
まずいことになった。
額に冷や汗が滲む。
「だ、誰かっ……」
もつれそうになる足を必死に動かし、元来た防波堤を全力で走る。
(どうしようっ……!!)
母の形見だなんて大嘘もいいところだ。
ちょっとした憂さ晴らしのつもりだった。
昨日恭平と親密そうにしているのを目の当たりにして、雛子の事を疎ましいと思う気持ちが尚更強くなったからだ。
少し痛い目に合わせてやろう。
それもせいぜい、今日着て帰るはずの服がびしょ濡れになったとか、そのくらいで良かったはずだった。
「た、助けてっ!! 早く来てっ!!」
相変わらずビーチで遊んでいる面々に、舞は必死で叫ぶ。息を切らす舞の姿に、皆不思議そうな顔を向ける。
「どうしました? 雛子は?」
夏帆が訊ねる。
「お、落ちてっ……海にっ……」
「え?」
口がカラカラで上手く喋る事もできない。
「落ち着いて、篠原さん。どうしたの?」
真理亜が舞の背を擦りながら顔を覗き込む。
「だからっ! あの子が海に落ちたの! 全然上がってこないのよっ!!」
舞が叫ぶ。皆の顔色が一斉に変わった。
「どこだ」
「あっち、防波堤の」
「早く案内しろっ!!!!」
舞は恭平の怒声に一瞬びくりとするも、すぐ雛子の降りた地点へと再び走り出した。
舞を先頭に、恭平と鷹峯、その他皆が着いてくる。
「ここ、ここから中に入って、戻ってこないっ……」
舞がボロボロと泣きながら消波ブロックの隙間を指差す。
恭平が躊躇うことなくその中へ飛び込む。
「ちょっと恭平っ……!! あなたまで巻き込まれたらどうするのよ!?」
恭平の行動に真理亜がギョッとして声を上げる。
「言ってる場合かっ!!」
恭平が消波ブロックの下から怒鳴り返す。
「雨宮!! いるか!! 返事しろっ!!!!」
中は複雑に入り組んでおり、その上足場も悪い。
(あいつ何でこんな所にっ……!)
足を取られないよう気を付けながら、恭平は進んでいく。
「雨宮っ!!!!」
程なくして、隙間のひとつに揺蕩う人影を見つけた。
まるで打ち捨てられた人形のようにうつ伏せで揺らめくその姿に、心の底からゾッとした。
「おいっ!! しっかりしろっ!!雨宮っ!!!!」
脇に手を差し込み力の限り引き上げる。表を向いたその顔は、信じられないほど真っ白で生気がない。
「クソッ……!! 起きろ、雨宮っ!!!!」
足が何かに挟まれている。このまま無理矢理引き抜けば折れるかもしれない。頭では分かっていたが、それよりも救助する事が先決だ。
「おい……!! 起きろって……!!」
このままここにいれば自分も巻き込まれる。そうなる前に戻らなければならない。
恭平はありったけの力で、完全に脱力した雛子の身体を引っ張る。
「ッ……! 抜けたっ!!」
そのまま意識のない雛子を引き摺り、最初にブロックを降りた場所まで戻る。
「救助用ロープありました!!」
「桜井君! これを!!」
上から鷹峯と悠貴、夏帆が救助用ロープを降ろす。恭平は雛子にロープを括り付け、皆が雛子を引き上げている間に自身はブロックに足を掛けて器用に上までかけ登る。
「しっかりしろっ!! おいっ!!!!」
紫色に変色した唇に、恭平は自身の唇を押し当て息を吹き込む。
「っ……ゲホッゲホッ……」
雛子が飲み込んだ海水を吐き出し、苦しそうに咳き込んだ。その直後から真っ白だった顔に次第に色が戻っていく。
「呼吸が戻りました。脈も……大丈夫、問題ありません。清瀬さん、回復体位を」
「雛子ちゃん、ちょっと身体動かすわよ」
鷹峯が素早く診察し、安堵の表情を浮かべた。指示を受けた真理亜が雛子を横向きに寝かせる。
「恐らく溺水していた時間が短かったんでしょう。すぐに意識も戻ると思います」
「雛子っ……!」
夏帆が泣きながら雛子にしがみつく。悠貴は傍らに茫然と立ち尽くしていた。
「……足が挟まってたんだ。無理矢理引き抜いたから、そっちも見てやってくれ」
少し落ち着きを取り戻した恭平が、鷹峯に依頼する。雛子の右足首からは流血が見られていた。
「浅い切創はいくつかありますが……縫うほどではありませんし、折れたりもしていません。酷くても捻挫程度でしょう」
「そうか……」
恭平は気が抜けたように息を吐く。膝をついて、雛子の顔に張り付く前髪を払ってやった。
「……で、改めて伺いますが。これは一体どういう状況ですか、篠原さん?」
雛子の無事が分かると、鷹峯は低い声で舞に向き直った。
泣きながら事態を見ていただけの舞は、そこで初めて皆が自分を冷たい目で見つめていることに気付いた。
「ッ……! 仕方ないじゃないっ……! こんなことになるなんて思わなかったのよっ!!」
舞は一連の経緯を捲し立てるように説明する。
「ちょっとその女を困らせてやりたかっただけなのっ……! 」
「お前なぁっ、」
さすがの恭平も青筋を立てて舞に詰め寄ろうとした。しかし。
「お前バッカじゃねーの!? ふざけんなよコラッ!!」
「痛っ……!?」
恭平が何か言うよりも先に、舞に平手打ちをしたのが悠貴だった。まさかの展開に一同は呆気に取られる。
「お前自分が何したか分かってんのか!? こん中で溺れたらなぁ、波で揉まれて下手したら遺体も回収出来ねぇんだよ! 恭平さんが死ぬ気で行ってくれなきゃ雨宮は助からなかったし、最悪恭平さんまで死ぬところだったんだぞ!!」
「そんなっ……私、そんなことっ……」
「知らなかったで済むのか!? それでお前は殺人犯にでもなるつもりだったのかよ!?!?」
「ッ……!!」
殺人犯というワードに、舞は少なからずショックを受けたようだった。鷹峯が頷く。
「というか、現時点で貴女は殺人未遂で現行犯逮捕されても可笑しくない状況ですよ。事の重大さがあまり分かっていなかったようですね」
「ご、ごめんなさっ……」
舞は青ざめて俯いた。自分のした事の愚かさをようやく理解したようだった。
「ん……」
横たわっていた雛子が身動ぎをした事で、皆の意識が彼女へと移った。恭平が雛子の隣に膝を付く。
「雨宮っ! 分かるか!?」
恭平の呼び掛けに反応するかのように、雛子が薄く目を開く。
「ん……私……?」
目を開けて、一番最初に視界に飛び込んできたのは恭平の顔だった。今までになく至近距離のそれは、どこか泣きそうなような、ほっとしたような、心配しているような、怒っているような、何とも言えない複雑な表情をしていた。
「変な表情……」
恭平からここまで様々な感情を読み取れることなどそうそうない。
「……おい、どんな感想だそれは」
一方、変呼ばわりされた恭平は不服そうに首を傾げてみせた。
思わず鷹峯が吹き出している。
「雛子ちゃん、あなた海で溺れたのよ。覚えてる?」
真理亜の問いに、次第に気を失う前のことを思い出す。舞の姿を見た瞬間、はっとして身体を起こした。
「篠原さんごめんなさい! その、ピアス見つからなくて……」
すぐに引き返せばよかったのに、結果的に皆に迷惑を掛けてしまった。雛子は申し訳なさに頭を垂れた。
「皆さんも……せっかく遊びに来てるのにこんなに迷惑掛けちゃって……すみませんでした……」
泣きそうになっている雛子に、舞は何かを耐えるように顔を歪めた。そして早足で雛子の元へ向かうと、膝を着いて素早く頭を下げた。
「こっちこそごめんなさいっ……。お母さんの形見なんて嘘なの……」
「えっ……」
雛子はきょとんとして舞を見つめた。
「こんなに危険な場所だなんて知らなくて……少しあなたのこと困らせてやろうと思っただけなのっ! ごめんなさいっ!!」
事態が呑み込めていない雛子に、舞は再び謝罪する。
「嘘……?」
雛子はその言葉を反復する。
「なんだ……良かったぁ……」
そして小さくついた安堵の溜息。
「大事なものなのかと思ってたから……安心した……」
ほっとしたような笑みを浮かべた雛子に、舞以外は釣られて笑顔になった。
恭平が雛子をすっと抱き締めた。
「バカ野郎」
抱き締めた手に力が篭もる。
「心配しただろうが」
静かな声だったが、少しだけ震えていたような気がした。
「ご、ごめんなさい……」
どうやら恭平を心配させたようだと気付き、雛子は戸惑った。
嬉しい。
(……嬉しい?)
申し訳ないはずなのに、そんな感情が生まれた自分に疑問を抱く。
「一応診察はしましたが、貴女海水を飲んだでしょう? 念の為病院で胸部CTを撮りたいので、私の車で帰りますよ」
夏帆と真理亜に促され、雛子は立ち上がる。足首に少しだけ違和感があるが、歩けない事はなさそうだ。
「たかみー、頼む」
一緒に着いていきかけた恭平だったが、ここにはバイクで来ていた事を思い出す。仕方なく雛子を鷹峯に託し、ここでそれぞれ解散することとなった。
「……良かったな、あいつがお人好しで」
悠貴が座り込んだままの舞に手を差し出す。舞は戸惑いながらも、徐にその手を取った。
「っ……本当、馬鹿すぎるでしょ」
反対の手で涙を拭いながら、舞は悪態をつく。
「でもそれがあいつなんだよなぁ……」
もうすっかり遠くにある雛子の後ろ姿を見つめながら、悠貴が困ったように笑った。
同期三人組は鷹峯の車で都内へ戻り、雛子はその日のうちに鷹峯により検査を受けることとなった。
「はい。特に誤嚥性肺炎も起こしていませんし、問題ないでしょう。もし今後発熱などあればすぐに知らせて下さい」
「ありがとうございました」
鷹峯からのお墨付きをもらい、雛子は寮の部屋へと帰ってきた。付き添っていた夏帆と荷物を預かっていた悠貴も一緒に雛子の部屋を訪れた。
「うわ、お前食生活ヤバくねぇか」
玄関に置かれたエナジードリンクの箱と栄養補助食品を目にし、悠貴が眉を顰める。
「これでもちょっと前よりは良くなったわよ。ね、雛子?」
夏帆の助け舟に雛子は頷く。
「そうそう。一回倒れて桜井さんに迷惑かけたしね……」
室内に入りエアコンを付けると、雛子は冷蔵庫から一リットルペットボトルのアイスティーを取り出し、氷を入れたグラスに注いだ。
「良いわよ気を遣わなくて。一応病み上がり? なんだから」
「気なんて遣ってないよ。二人ともありがとね」
トレイで三人分のグラスを運んできた雛子は、二人に礼を言う。
「にしても、凄いもの見ちゃったわね。ねぇ入山?」
「おう。恭平さんのあんな焦ったとこ初めて見た」
「え、そうなの?」
言われてみれば確かに、気付いた時の恭平は平素とは比べ物にならない程表情豊かに見えた。
『心配しただろうが』
「〜〜〜っ……」
今更になって、きつく抱き締められたことを思い出し羞恥に頬が熱くなる。
「それにしても鷹峯先生さすがだったわね。あの非常事態でも冷静に対応してたし」
「だな。あと真理亜さんも」
熱くなった頬を扇いで冷ます雛子に気付かず、二人はその時の面々の様子で盛り上がっていた。
「あ、そういえば雛子。『あれ』は本当に凄かったわよ。あんたは覚えてないだろうけど」
夏帆が突然、にやりと悪い笑みを浮かべて悠貴と目を合わせた。
「あ〜、『あれ』なぁ〜……」
「『あれ』??」
一方の悠貴はというと、少しだけ気まずそうに顔を赤らめた。雛子はなんの事か分からず首を傾げる。
「だぁからぁ〜……」
勿体ぶったようにニヤニヤしていた夏帆だが、雛子のあまりにもピンと来ていない様子に業を煮やしたようだった。
夏帆は机から身を乗り出し、雛子の唇に人差し指を突き出す。
「キスよ、キス! 桜井さんの! 雛子はそれで息を吹き返したのよ、白雪姫みたいにね?」
その言葉を聞いた瞬間、雛子はぽかんと口を開け、そして金魚のようにパクパクとさせた。
「なっ、えっ、キ、キキキ……!?」
思った通りの反応だったのか、耳まで真っ赤に染った雛子に夏帆は満足そうに頷く。
「『人 工 呼 吸』な! お前あんま雨宮をからかうなよ」
悠貴が飽きれたように夏帆を窘める。
「何よ、あれはどう見てもキスだったでしょ? ぶちゅーって」
「ぶちゅー……」
(え、どうしよ。し、心臓が、持たない……)
ますます茹でダコになる雛子は、ぎゃあぎゃあと騒がしい同期二人を後目に自身の口元をそっと押えた。
防波堤の上から消波ブロックの隙間を覗き込み、舞は声を掛けた。
「……ちょっと」
返事はない。
雛子の姿も目視で確認することが出来ない。
「もう良いからっ! 早く戻ってきなさいよっ!!」
大声で呼びかけても、雛子が戻ってこない。
まずいことになった。
額に冷や汗が滲む。
「だ、誰かっ……」
もつれそうになる足を必死に動かし、元来た防波堤を全力で走る。
(どうしようっ……!!)
母の形見だなんて大嘘もいいところだ。
ちょっとした憂さ晴らしのつもりだった。
昨日恭平と親密そうにしているのを目の当たりにして、雛子の事を疎ましいと思う気持ちが尚更強くなったからだ。
少し痛い目に合わせてやろう。
それもせいぜい、今日着て帰るはずの服がびしょ濡れになったとか、そのくらいで良かったはずだった。
「た、助けてっ!! 早く来てっ!!」
相変わらずビーチで遊んでいる面々に、舞は必死で叫ぶ。息を切らす舞の姿に、皆不思議そうな顔を向ける。
「どうしました? 雛子は?」
夏帆が訊ねる。
「お、落ちてっ……海にっ……」
「え?」
口がカラカラで上手く喋る事もできない。
「落ち着いて、篠原さん。どうしたの?」
真理亜が舞の背を擦りながら顔を覗き込む。
「だからっ! あの子が海に落ちたの! 全然上がってこないのよっ!!」
舞が叫ぶ。皆の顔色が一斉に変わった。
「どこだ」
「あっち、防波堤の」
「早く案内しろっ!!!!」
舞は恭平の怒声に一瞬びくりとするも、すぐ雛子の降りた地点へと再び走り出した。
舞を先頭に、恭平と鷹峯、その他皆が着いてくる。
「ここ、ここから中に入って、戻ってこないっ……」
舞がボロボロと泣きながら消波ブロックの隙間を指差す。
恭平が躊躇うことなくその中へ飛び込む。
「ちょっと恭平っ……!! あなたまで巻き込まれたらどうするのよ!?」
恭平の行動に真理亜がギョッとして声を上げる。
「言ってる場合かっ!!」
恭平が消波ブロックの下から怒鳴り返す。
「雨宮!! いるか!! 返事しろっ!!!!」
中は複雑に入り組んでおり、その上足場も悪い。
(あいつ何でこんな所にっ……!)
足を取られないよう気を付けながら、恭平は進んでいく。
「雨宮っ!!!!」
程なくして、隙間のひとつに揺蕩う人影を見つけた。
まるで打ち捨てられた人形のようにうつ伏せで揺らめくその姿に、心の底からゾッとした。
「おいっ!! しっかりしろっ!!雨宮っ!!!!」
脇に手を差し込み力の限り引き上げる。表を向いたその顔は、信じられないほど真っ白で生気がない。
「クソッ……!! 起きろ、雨宮っ!!!!」
足が何かに挟まれている。このまま無理矢理引き抜けば折れるかもしれない。頭では分かっていたが、それよりも救助する事が先決だ。
「おい……!! 起きろって……!!」
このままここにいれば自分も巻き込まれる。そうなる前に戻らなければならない。
恭平はありったけの力で、完全に脱力した雛子の身体を引っ張る。
「ッ……! 抜けたっ!!」
そのまま意識のない雛子を引き摺り、最初にブロックを降りた場所まで戻る。
「救助用ロープありました!!」
「桜井君! これを!!」
上から鷹峯と悠貴、夏帆が救助用ロープを降ろす。恭平は雛子にロープを括り付け、皆が雛子を引き上げている間に自身はブロックに足を掛けて器用に上までかけ登る。
「しっかりしろっ!! おいっ!!!!」
紫色に変色した唇に、恭平は自身の唇を押し当て息を吹き込む。
「っ……ゲホッゲホッ……」
雛子が飲み込んだ海水を吐き出し、苦しそうに咳き込んだ。その直後から真っ白だった顔に次第に色が戻っていく。
「呼吸が戻りました。脈も……大丈夫、問題ありません。清瀬さん、回復体位を」
「雛子ちゃん、ちょっと身体動かすわよ」
鷹峯が素早く診察し、安堵の表情を浮かべた。指示を受けた真理亜が雛子を横向きに寝かせる。
「恐らく溺水していた時間が短かったんでしょう。すぐに意識も戻ると思います」
「雛子っ……!」
夏帆が泣きながら雛子にしがみつく。悠貴は傍らに茫然と立ち尽くしていた。
「……足が挟まってたんだ。無理矢理引き抜いたから、そっちも見てやってくれ」
少し落ち着きを取り戻した恭平が、鷹峯に依頼する。雛子の右足首からは流血が見られていた。
「浅い切創はいくつかありますが……縫うほどではありませんし、折れたりもしていません。酷くても捻挫程度でしょう」
「そうか……」
恭平は気が抜けたように息を吐く。膝をついて、雛子の顔に張り付く前髪を払ってやった。
「……で、改めて伺いますが。これは一体どういう状況ですか、篠原さん?」
雛子の無事が分かると、鷹峯は低い声で舞に向き直った。
泣きながら事態を見ていただけの舞は、そこで初めて皆が自分を冷たい目で見つめていることに気付いた。
「ッ……! 仕方ないじゃないっ……! こんなことになるなんて思わなかったのよっ!!」
舞は一連の経緯を捲し立てるように説明する。
「ちょっとその女を困らせてやりたかっただけなのっ……! 」
「お前なぁっ、」
さすがの恭平も青筋を立てて舞に詰め寄ろうとした。しかし。
「お前バッカじゃねーの!? ふざけんなよコラッ!!」
「痛っ……!?」
恭平が何か言うよりも先に、舞に平手打ちをしたのが悠貴だった。まさかの展開に一同は呆気に取られる。
「お前自分が何したか分かってんのか!? こん中で溺れたらなぁ、波で揉まれて下手したら遺体も回収出来ねぇんだよ! 恭平さんが死ぬ気で行ってくれなきゃ雨宮は助からなかったし、最悪恭平さんまで死ぬところだったんだぞ!!」
「そんなっ……私、そんなことっ……」
「知らなかったで済むのか!? それでお前は殺人犯にでもなるつもりだったのかよ!?!?」
「ッ……!!」
殺人犯というワードに、舞は少なからずショックを受けたようだった。鷹峯が頷く。
「というか、現時点で貴女は殺人未遂で現行犯逮捕されても可笑しくない状況ですよ。事の重大さがあまり分かっていなかったようですね」
「ご、ごめんなさっ……」
舞は青ざめて俯いた。自分のした事の愚かさをようやく理解したようだった。
「ん……」
横たわっていた雛子が身動ぎをした事で、皆の意識が彼女へと移った。恭平が雛子の隣に膝を付く。
「雨宮っ! 分かるか!?」
恭平の呼び掛けに反応するかのように、雛子が薄く目を開く。
「ん……私……?」
目を開けて、一番最初に視界に飛び込んできたのは恭平の顔だった。今までになく至近距離のそれは、どこか泣きそうなような、ほっとしたような、心配しているような、怒っているような、何とも言えない複雑な表情をしていた。
「変な表情……」
恭平からここまで様々な感情を読み取れることなどそうそうない。
「……おい、どんな感想だそれは」
一方、変呼ばわりされた恭平は不服そうに首を傾げてみせた。
思わず鷹峯が吹き出している。
「雛子ちゃん、あなた海で溺れたのよ。覚えてる?」
真理亜の問いに、次第に気を失う前のことを思い出す。舞の姿を見た瞬間、はっとして身体を起こした。
「篠原さんごめんなさい! その、ピアス見つからなくて……」
すぐに引き返せばよかったのに、結果的に皆に迷惑を掛けてしまった。雛子は申し訳なさに頭を垂れた。
「皆さんも……せっかく遊びに来てるのにこんなに迷惑掛けちゃって……すみませんでした……」
泣きそうになっている雛子に、舞は何かを耐えるように顔を歪めた。そして早足で雛子の元へ向かうと、膝を着いて素早く頭を下げた。
「こっちこそごめんなさいっ……。お母さんの形見なんて嘘なの……」
「えっ……」
雛子はきょとんとして舞を見つめた。
「こんなに危険な場所だなんて知らなくて……少しあなたのこと困らせてやろうと思っただけなのっ! ごめんなさいっ!!」
事態が呑み込めていない雛子に、舞は再び謝罪する。
「嘘……?」
雛子はその言葉を反復する。
「なんだ……良かったぁ……」
そして小さくついた安堵の溜息。
「大事なものなのかと思ってたから……安心した……」
ほっとしたような笑みを浮かべた雛子に、舞以外は釣られて笑顔になった。
恭平が雛子をすっと抱き締めた。
「バカ野郎」
抱き締めた手に力が篭もる。
「心配しただろうが」
静かな声だったが、少しだけ震えていたような気がした。
「ご、ごめんなさい……」
どうやら恭平を心配させたようだと気付き、雛子は戸惑った。
嬉しい。
(……嬉しい?)
申し訳ないはずなのに、そんな感情が生まれた自分に疑問を抱く。
「一応診察はしましたが、貴女海水を飲んだでしょう? 念の為病院で胸部CTを撮りたいので、私の車で帰りますよ」
夏帆と真理亜に促され、雛子は立ち上がる。足首に少しだけ違和感があるが、歩けない事はなさそうだ。
「たかみー、頼む」
一緒に着いていきかけた恭平だったが、ここにはバイクで来ていた事を思い出す。仕方なく雛子を鷹峯に託し、ここでそれぞれ解散することとなった。
「……良かったな、あいつがお人好しで」
悠貴が座り込んだままの舞に手を差し出す。舞は戸惑いながらも、徐にその手を取った。
「っ……本当、馬鹿すぎるでしょ」
反対の手で涙を拭いながら、舞は悪態をつく。
「でもそれがあいつなんだよなぁ……」
もうすっかり遠くにある雛子の後ろ姿を見つめながら、悠貴が困ったように笑った。
同期三人組は鷹峯の車で都内へ戻り、雛子はその日のうちに鷹峯により検査を受けることとなった。
「はい。特に誤嚥性肺炎も起こしていませんし、問題ないでしょう。もし今後発熱などあればすぐに知らせて下さい」
「ありがとうございました」
鷹峯からのお墨付きをもらい、雛子は寮の部屋へと帰ってきた。付き添っていた夏帆と荷物を預かっていた悠貴も一緒に雛子の部屋を訪れた。
「うわ、お前食生活ヤバくねぇか」
玄関に置かれたエナジードリンクの箱と栄養補助食品を目にし、悠貴が眉を顰める。
「これでもちょっと前よりは良くなったわよ。ね、雛子?」
夏帆の助け舟に雛子は頷く。
「そうそう。一回倒れて桜井さんに迷惑かけたしね……」
室内に入りエアコンを付けると、雛子は冷蔵庫から一リットルペットボトルのアイスティーを取り出し、氷を入れたグラスに注いだ。
「良いわよ気を遣わなくて。一応病み上がり? なんだから」
「気なんて遣ってないよ。二人ともありがとね」
トレイで三人分のグラスを運んできた雛子は、二人に礼を言う。
「にしても、凄いもの見ちゃったわね。ねぇ入山?」
「おう。恭平さんのあんな焦ったとこ初めて見た」
「え、そうなの?」
言われてみれば確かに、気付いた時の恭平は平素とは比べ物にならない程表情豊かに見えた。
『心配しただろうが』
「〜〜〜っ……」
今更になって、きつく抱き締められたことを思い出し羞恥に頬が熱くなる。
「それにしても鷹峯先生さすがだったわね。あの非常事態でも冷静に対応してたし」
「だな。あと真理亜さんも」
熱くなった頬を扇いで冷ます雛子に気付かず、二人はその時の面々の様子で盛り上がっていた。
「あ、そういえば雛子。『あれ』は本当に凄かったわよ。あんたは覚えてないだろうけど」
夏帆が突然、にやりと悪い笑みを浮かべて悠貴と目を合わせた。
「あ〜、『あれ』なぁ〜……」
「『あれ』??」
一方の悠貴はというと、少しだけ気まずそうに顔を赤らめた。雛子はなんの事か分からず首を傾げる。
「だぁからぁ〜……」
勿体ぶったようにニヤニヤしていた夏帆だが、雛子のあまりにもピンと来ていない様子に業を煮やしたようだった。
夏帆は机から身を乗り出し、雛子の唇に人差し指を突き出す。
「キスよ、キス! 桜井さんの! 雛子はそれで息を吹き返したのよ、白雪姫みたいにね?」
その言葉を聞いた瞬間、雛子はぽかんと口を開け、そして金魚のようにパクパクとさせた。
「なっ、えっ、キ、キキキ……!?」
思った通りの反応だったのか、耳まで真っ赤に染った雛子に夏帆は満足そうに頷く。
「『人 工 呼 吸』な! お前あんま雨宮をからかうなよ」
悠貴が飽きれたように夏帆を窘める。
「何よ、あれはどう見てもキスだったでしょ? ぶちゅーって」
「ぶちゅー……」
(え、どうしよ。し、心臓が、持たない……)
ますます茹でダコになる雛子は、ぎゃあぎゃあと騒がしい同期二人を後目に自身の口元をそっと押えた。