白衣とブラックチョコレート
堕天使の囁き
静寂が訪れる。
「えぇ……?」
雛子は乾いた笑みのまま呟いた。
「え、これって何の話ですか? 急に……」
何を言われているのか分からず、雛子は本気で聞き返す。それでも、胸はドキドキと嫌な音を立てた。
「海での、って……あ、偶然出会ったと見せかけて、実は桜井さんが来る事を知ってたとか? 何の事かよく分からな」
「そうじゃなくてっ……あんたが溺れたのは、清瀬真理亜にけしかけられたからだって言ってんの!」
なかなか要領を得ない雛子に業を煮やし、舞は声を荒らげた。
舞の言葉の意味をようやく理解した雛子は、それでもまだへらりと薄ら笑いを見せていた。
「し、篠原さんってば変な冗談言って……いやだなぁ、もう」
「嘘じゃないわっ!」
舞はイラついて声を荒らげた。
「もう良い、お人好し過ぎるあんたに教えといてあげる。私が熱を出して、先に休んで……あの女が同室になった時……」
『体調はどう、篠原さん?』
真理亜は心から心配しているという顔で、舞のベッドサイドに腰を下ろした。レースのカーテン越しに眩しいほどの月明かりが差し込んで、真理亜の端正な顔を美しく照らしていたのが印象的だった。
『……別に、いつもより何か怠い』
自分より綺麗と思える女性にはあまり免疫が無い。その顔を見たくなくて、舞は布団を頭まで被ってぶっきらぼうに答えた。
『そう……雛子ちゃんもとっても心配してたわよ?』
『っ……アイツの名前なんか聞きたくない』
思い出したくないのに。
恭平が雛子に笑いかけたこと。その事を自分で思っている以上に根に持っていると気付かされ、悔しさが溢れる。
『……何なのあの子。恭平の何なのよ? ただの出来の悪い後輩でしょ? それなのにっ』
『それなのに、何故か恭平に気に入られていていけ好かない?』
『っ……!』
ドス黒い感情を言語化され、舞は唇を噛む。
『でも、何となく分かるわぁ。篠原さんの言うこと』
真理亜は怒るでも窘めるでもなく、相変わらず薄らと笑ったような口調で宣う。それが見せかけの共感なのか、心からの同意なのか、舞には判断がつかなかった。
『雛子ちゃんは、そうねぇ……。ふわふわしていて、すぐ人を信じちゃうから、騙されやすそうでほっとけないのよねぇ。そういう所が恭平の興味を引くのかしら?』
私達にはそういう所がないものねぇ、と真理亜は笑う。
『雛子ちゃんね、たぶん、大事なものを海に落としたって言えば、代わりに飛び込んで探してくれると思うのね? 例えばこの、ピアスとか』
不意に真理亜の細い指先が布団に潜り込んだ舞の耳たぶを撫で、鳥肌が立った。
クスクスと可笑しそうに笑うその様子は、まるで新作のスイーツの話でもしているかのように軽やかで。
『例えそれが、その辺に落ちてる何の価値もない石ころだったとしても』
笑っていない。
真理亜の声音を聞き、突然そう感じた瞬間に恐怖が心を支配した。
『これはダイヤモンドなのよ、って言ったら、信じちゃうの。可愛いわよね?』
『ッ……性悪女っ』
ふと真理亜の纏う空気が軽くなった。
『うふふ、冗談よ。まさか篠原さんにそんな事言われるなんて思わなかったわ』
真理亜が隣にあるもう一つのベッドに移動したのが分かった。舞は少しだけ顔を出して真理亜の様子を伺う。
悪戯に成功したような表情の彼女に、してやられたと気付き悔しくなる。
『でも今ので分かったわ。篠原さんにはそんな酷いこと出来っこない。結構根は優しいのね?』
かぁっと頬の熱が高まったのが分かった。
『ちょっと何なの!? 人のこと馬鹿にしてっ……』
『馬鹿になんてしてないわ?』
真理亜は笑う。何度も、綺麗に。
『ただ優しくてからかいがいがある者同士、案外雛子ちゃんと仲良くなれそう、って思って』
冗談じゃない。
『嫌よあんな子。私はあの子とは違うわ』
『そう?』
『そうよ』
舞は先程触れられたピアスに指を添える。もうどこで買ったかも覚えていない、安物のピアスだ。
『私も今のではっきり分かったわ。アンタあの子のこと嫌いなのね。本当は今すぐ自分の手で海に突き落としてやりたいんでしょ?』
そんな事ないけれど、と真理亜は宣う。
『強いて言うなら、私は雛子ちゃんが心配よ。将来悪い人に騙されて痛い目見るんじゃないかしら。その前に社会勉強させてあげられたら良いんだけれど』
……白々しい女め。
『分かったわよ。そんなに言うんだったら、明日』
『明日?』
『私がちょっとだけ、懲らしめてあげる』
雛子は舞から聞かされた話を、どう解釈すれば良いか分からなかった。
「そんなの……篠原さんが勝手にやっただけじゃないですか……真理亜さんは何も」
「そうよ。あの女は私に何かを『やれ』だなんて一言も言ってない」
「だったら」
「マインドコントロールよ」
舞は吐き捨てるようにそう言った。
「確かに何も指示はされていない。でもね、いつの間にか『そうする流れ』に話がすり変わってる。空気感とか、言葉に出さないコミニュケーションも巧妙なのよ」
舞は雛子の手を取った。彼女からこんな風にされた事はなくて、雛子はどうしていいか分からずにたじろぐ。
「気を付けた方が良いわよ。あの女は危ない」
その真剣な眼差しに、少なくとも彼女は嘘をついていないように見えた。
「分かり、ました。気を付けます……」
認めたくない。信じたくない。しかし、そんな雛子の心などお構い無しに暴露されていく現実。
思い出すのは、全てを許すかのような真理亜の美しい微笑み。
あれが嘘だなんて、信じられるはずがない。
「えぇ……?」
雛子は乾いた笑みのまま呟いた。
「え、これって何の話ですか? 急に……」
何を言われているのか分からず、雛子は本気で聞き返す。それでも、胸はドキドキと嫌な音を立てた。
「海での、って……あ、偶然出会ったと見せかけて、実は桜井さんが来る事を知ってたとか? 何の事かよく分からな」
「そうじゃなくてっ……あんたが溺れたのは、清瀬真理亜にけしかけられたからだって言ってんの!」
なかなか要領を得ない雛子に業を煮やし、舞は声を荒らげた。
舞の言葉の意味をようやく理解した雛子は、それでもまだへらりと薄ら笑いを見せていた。
「し、篠原さんってば変な冗談言って……いやだなぁ、もう」
「嘘じゃないわっ!」
舞はイラついて声を荒らげた。
「もう良い、お人好し過ぎるあんたに教えといてあげる。私が熱を出して、先に休んで……あの女が同室になった時……」
『体調はどう、篠原さん?』
真理亜は心から心配しているという顔で、舞のベッドサイドに腰を下ろした。レースのカーテン越しに眩しいほどの月明かりが差し込んで、真理亜の端正な顔を美しく照らしていたのが印象的だった。
『……別に、いつもより何か怠い』
自分より綺麗と思える女性にはあまり免疫が無い。その顔を見たくなくて、舞は布団を頭まで被ってぶっきらぼうに答えた。
『そう……雛子ちゃんもとっても心配してたわよ?』
『っ……アイツの名前なんか聞きたくない』
思い出したくないのに。
恭平が雛子に笑いかけたこと。その事を自分で思っている以上に根に持っていると気付かされ、悔しさが溢れる。
『……何なのあの子。恭平の何なのよ? ただの出来の悪い後輩でしょ? それなのにっ』
『それなのに、何故か恭平に気に入られていていけ好かない?』
『っ……!』
ドス黒い感情を言語化され、舞は唇を噛む。
『でも、何となく分かるわぁ。篠原さんの言うこと』
真理亜は怒るでも窘めるでもなく、相変わらず薄らと笑ったような口調で宣う。それが見せかけの共感なのか、心からの同意なのか、舞には判断がつかなかった。
『雛子ちゃんは、そうねぇ……。ふわふわしていて、すぐ人を信じちゃうから、騙されやすそうでほっとけないのよねぇ。そういう所が恭平の興味を引くのかしら?』
私達にはそういう所がないものねぇ、と真理亜は笑う。
『雛子ちゃんね、たぶん、大事なものを海に落としたって言えば、代わりに飛び込んで探してくれると思うのね? 例えばこの、ピアスとか』
不意に真理亜の細い指先が布団に潜り込んだ舞の耳たぶを撫で、鳥肌が立った。
クスクスと可笑しそうに笑うその様子は、まるで新作のスイーツの話でもしているかのように軽やかで。
『例えそれが、その辺に落ちてる何の価値もない石ころだったとしても』
笑っていない。
真理亜の声音を聞き、突然そう感じた瞬間に恐怖が心を支配した。
『これはダイヤモンドなのよ、って言ったら、信じちゃうの。可愛いわよね?』
『ッ……性悪女っ』
ふと真理亜の纏う空気が軽くなった。
『うふふ、冗談よ。まさか篠原さんにそんな事言われるなんて思わなかったわ』
真理亜が隣にあるもう一つのベッドに移動したのが分かった。舞は少しだけ顔を出して真理亜の様子を伺う。
悪戯に成功したような表情の彼女に、してやられたと気付き悔しくなる。
『でも今ので分かったわ。篠原さんにはそんな酷いこと出来っこない。結構根は優しいのね?』
かぁっと頬の熱が高まったのが分かった。
『ちょっと何なの!? 人のこと馬鹿にしてっ……』
『馬鹿になんてしてないわ?』
真理亜は笑う。何度も、綺麗に。
『ただ優しくてからかいがいがある者同士、案外雛子ちゃんと仲良くなれそう、って思って』
冗談じゃない。
『嫌よあんな子。私はあの子とは違うわ』
『そう?』
『そうよ』
舞は先程触れられたピアスに指を添える。もうどこで買ったかも覚えていない、安物のピアスだ。
『私も今のではっきり分かったわ。アンタあの子のこと嫌いなのね。本当は今すぐ自分の手で海に突き落としてやりたいんでしょ?』
そんな事ないけれど、と真理亜は宣う。
『強いて言うなら、私は雛子ちゃんが心配よ。将来悪い人に騙されて痛い目見るんじゃないかしら。その前に社会勉強させてあげられたら良いんだけれど』
……白々しい女め。
『分かったわよ。そんなに言うんだったら、明日』
『明日?』
『私がちょっとだけ、懲らしめてあげる』
雛子は舞から聞かされた話を、どう解釈すれば良いか分からなかった。
「そんなの……篠原さんが勝手にやっただけじゃないですか……真理亜さんは何も」
「そうよ。あの女は私に何かを『やれ』だなんて一言も言ってない」
「だったら」
「マインドコントロールよ」
舞は吐き捨てるようにそう言った。
「確かに何も指示はされていない。でもね、いつの間にか『そうする流れ』に話がすり変わってる。空気感とか、言葉に出さないコミニュケーションも巧妙なのよ」
舞は雛子の手を取った。彼女からこんな風にされた事はなくて、雛子はどうしていいか分からずにたじろぐ。
「気を付けた方が良いわよ。あの女は危ない」
その真剣な眼差しに、少なくとも彼女は嘘をついていないように見えた。
「分かり、ました。気を付けます……」
認めたくない。信じたくない。しかし、そんな雛子の心などお構い無しに暴露されていく現実。
思い出すのは、全てを許すかのような真理亜の美しい微笑み。
あれが嘘だなんて、信じられるはずがない。