白衣とブラックチョコレート

怪我の功名

「はい、傷の方は問題なさそうですね。いやぁそれにしても久々のわりに我ながら綺麗な縫い目ですねぇ〜」

まじまじと雛子の顔、正確には左額の傷痕を見ながら鷹峯が自画自賛する。

「五日後にもう一回診て抜糸出来そうならしましょう。その後は念の為接合用テープで留めます。あ、しばらく日焼けはしないよう注意して下さいね」

「はい、ありがとうございます」

日勤開始前、ステーションの隅で診察を終えると、鷹峯はパソコンに向かって雛子のカルテを入力する。

(師長の言ってた通り……本当に凄かったんだ……)

医者というだけである程度頭脳明晰であることは分かりきっているが、その中でも鷹峯は指示の明瞭さ、的確さで看護師から好評を得ている医師のうちの一人である。

さらに外科にも明るいと分かれば、公私共にあらゆる所から引っ張りだこになりそうだ。

「……私の顔に何か付いてます? 気が散るのでやめて下さい」

「……はい、スミマセン」

性格に難アリなのが玉に瑕だが。

雛子は仕切り直すように一つ咳払いをする。

「先生って、元々優秀な外科の先生だったんですよね? 師長から聞きました」

雛子の問いに、鷹峯はキーボードをタイプしながらこともなげに答える。

「……ああ、でも優秀過ぎてもう外科についてはだいたい網羅して飽きてしまったので、内科に転科したんですよ」

「そう……ですか……」

気にしていない体を装ってはいるが、怪我で引退となればまだ若い鷹峯にとって心苦しかったに違いない。

(鷹峯先生……可哀想……)

声にこそ出さないものの、雛子は憐れみの眼差しを向ける。

「……何ですかその目は」

「……いえ、別に」

今度は逆に、鷹峯が咳払いをした。

「……ところで、桜井君とは仲直り出来たみたいですね?」

「えっ……!?」

不意打ちされ、雛子は狼狽えた。

別に仲違いしていた訳ではないのだが。何故気まずくなっていたことをこの男が知っているのかと逡巡するも、そういえば彼らは仲が良かったのだということをすぐに思い出す。

「ま、まぁ雨降って地固まる、的な感じですかね? エヘヘ」

「貴女の場合、怪我の功名の方が適切では?」





そんな会話をしていると、時刻は勤務開始十分前となり恭平が欠伸をしながら出勤してくる。

「あ、おはようございます桜井さん! 先生すみません、私桜井さんに見てもらうレポートがあって。失礼しますっ」

ありがとうございましたと丁寧に一礼し、雛子が小走りに恭平の元へと向かう。顔を寄せあって何やら仲良さげに会話を交わす師弟コンビを後目に、鷹峯もカルテを閉じて席を立った。

向かったのはステーション奥にある師長席だ。

「……で、一体彼女に何を吹き込んだんです?」

「あら鷹峯先生。おはようございます〜」

座っている師長を後ろから囲うようにテーブルに手を付く。若いスタッフなら赤面して慌てふためくところだが、年配のスタッフには通用しない。

「いてっ」

手の甲をキュッと抓られ、鷹峯は大人しく手を引っ込めた。

「別に吹き込むもなにも。手を怪我して内科に転科したって伝えただけですよ」

「ああ……それであの反応ですか……」

どことなく憐れみの眼差しを向けられていると感じたのは、あながち間違いではなかったようだ。

「本当のことなんか言えるわけないじゃない……特に、あの子には」

師長は声を潜め、小さく溜息を吐く。

「どこから『あのこと』が漏れるか分からないのに……。あんなことが外部に漏れたら大問題よ」

「まぁ、そうですねぇ……」

苦々しげな表情の師長とは裏腹に、鷹峯はいつも通り飄々とした笑みを浮かべていた。

「鷹峯先生も知っての通り、下半期から本院の外科医が研修って名目で派遣されているじゃない? 本来ならあなたが座るはずの椅子を勝ち取った『優秀な』外科医がね」

「優秀って……ちょっと鼻で笑っちゃいましたよ」

鷹峯は心底可笑しそうにケタケタと笑う。

「あの外科医(ボンボン)はあなたの同期でしょう? 『あの事』も知っているでしょうし、まったく頭が痛いわ……」

一方の師長は心底憂鬱そうな表情だ。

「ま、私はそういうポストに興味が無いからこそ今ここにいる訳ですけどねぇ。その気があれば今頃アメリカかドイツの病院で外科やってますよ。向こうの方が技術も上ですし、言語も日本語よりずっと簡単です」

鷹峯は肩を竦めてみせる。彼が敬語しか使わないのも、一重に相手に合わせて口調を切り替えるという面倒臭いタスクの一つを割愛するために他ならない。

「……雨宮さんは、あなたのこと覚えてないのかしら」

師長の独り言のような問いに、鷹峯は頷く。

「ええ、覚えていないようですね。まぁ私が初めて彼女と会った時は、救急搬送の直後で意識もない状態でしたから」


その時、ステーションの方からリーダーピッチのコールが聞こえた。


「はい、こちら8A……え、はい、えぇっ? あの、ちょっと……師長ー、すみません」

リーダー看護師が戸惑いながら師長席にやってくる。

「火野崎先生から転棟依頼なんですけど……交通外傷で胸部損傷してまだオペ後十日の患者さん、意識も戻らなくてAライン入ってるような人なんですけど、ICUから上げられないかって……。どうしましょう?」

師長は深く溜息を吐きながら、なるべく平静を装う。

「……上から、火野崎先生の依頼は全部受けるように言われてるの。申し訳ないけど皆頑張ってちょうだい。リカバリールーム空いてたわよね?」

その返答にリーダーは緊張した面持ちで頷いてステーションに戻り、急いで他スタッフと連携を取る。一気に病棟全体が慌ただしくなる。

「はぁ〜今から来るその患者さん、師長会議でも話題になってたのよぉ。『高速道路での交通外傷で、全身ズタボロで搬送された人がいる』ってね」

「えぇ、医局でも話題に上がっていますよ」

鷹峯が気の毒そうに相槌を打つ。

「どう見てもウチみたいな二次救急で受け入れるような状態じゃなかったのに、あの本院から来たボンボンがねぇ〜……はぁもう、先が思いやられるわぁ……」

そう言って師長はひとしきり天を仰いだあと、今度は一転机に突っ伏して頭を抱えた。

「本当に……彼が余計なことをしなければ良いんですがねぇ……。あ、そういえば総合内科(うち)からも一人入院がいるんでした。こちらで取ってもらうことは出来ますか?」

その言葉に、師長はウンザリしたような顔を机から持ち上げる。

「あーそうなの。良いですよ、むしろ外科に占領される前にベッド埋めときましょ。そういえば今日血内からも入院来るんだった……私、伝えるの忘れてたかしら……」

ブツブツと恨み言を呟きながら頭を悩ませ始めた師長を、鷹峯は心底気の毒に思う。

「えーっと、ロイケ……白血病(ロイケ)の女の子なのよ確か、十五歳の。プライマリーは、そうねぇ……」










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