白衣とブラックチョコレート
セクハラ、ダメ、ゼッタイ
「あ、雨宮」
ステーションに戻ると大沢が声を掛ける。
「ごめん、今からチョーお偉い天才外科医様が処置室で包交するらしいんだけど人手がなくて。あんたいける?」
「あ、はい。分かりましたっ」
大沢の様子から察するにこれはかなりイラついている。雛子は二つ返事で了承すると、指定された患者を呼びに行き急いで処置室へ向かう。
下っ端のスタッフはあまり関わることもないが、稼働率管理をする役職者やリーダー看護師にとってはこの本院からやってきた外科医というのがどうやら頭痛の種らしい。
その噂は耳にしていただけに、少しだけ緊張したがそこは自分に喝を入れてとにかく足を動かす。
「すみません先生。お待たせしましたっ」
できる限り迅速に処置室へ行くと、既に処置室で待たされていた外科医が物品の準備をするでもなく子どものように椅子でくるくると回っていた。
そう、彼こそが火野崎大学医学部附属病院院長の息子、火野崎誠その人である。
「あ、やっと来た?」
雛子の姿を見るや、患者の前だと言うのに横柄な口調でそう宣う。
「へぇ〜君若くて可愛いね。歳いくつ?」
清潔さのない長めの黒髪から覗く瞳が、眼鏡の奥で下品に笑う。
「っ……二十一です。さぁ村田さん、先生に見てもらいましょうね」
ここは合コンか。そんなツッコミは喉の奥に押さえ込んだ。
質問に短く答え、雛子は車椅子に乗った村田のズボンの裾を捲る。
「ねぇ彼氏いるの? おっぱい何カップ?」
「……村田さーん、少し痛いけど我慢して下さいねー」
村田の耳が遠いことが幸いだ。雛子はあとの質問を無視して村田に大声で話しかける。
無視された火野崎は不機嫌そうに舌打ちをし、ようやく処置に入る。
「鑷子」
「はい」
「消毒」
「はい」
「ガーゼ」
「はい」
指示されたものを、心を無にして黙々と渡す。
「はい、あと保護よろしく〜」
「きゃっ……!?」
素っ気ない態度が気に食わなかったのか、火野崎が振り返りざまに雛子の胸を鷲掴みにする。
「あれ、意外と着痩せするタイプ? あはは」
「〜っ……」
何が可笑しいのか分からないし、とにかく物凄く不快で不愉快だ。平素より巨乳の舞に散々貶されるささやかな胸だが、だからと言って別に真っ平らというわけではない。
(微乳は一定の需要あるんだから……!)
しかしこんな奴に触られて確かめられるなど、なけなしのプライドが許せなかった。
「そ、そういうことはやめてください! 上に言いますよ!?」
こういう行為には毅然とした態度で……と震える足に力を入れて火野崎を睨みつける雛子。
「うっわ、生意気な態度」
しかし火野崎は怯むでもなく、むしろ心外とでも言うようにあっけらかんと目を丸くする。そして雛子の耳元に顔を寄せる。
「言ってごらん? 君が痛い目見るだけだから。僕が誰かは分かってるよね?」
「ひっ……!?」
ぬるりと耳朶に感じる不快な感触。
(嘘でしょっ!? この人何考えてっ……)
舐められたと悟り、全身に鳥肌が立つ。
「いいねぇー。強気だった顔が青ざめる瞬間、堪んない」
火野崎は下品に笑った。
「……村田さん、帰りましょうね!」
屈しては駄目だ。泣いては相手の思う壷だ。
そう自分を叱咤して、雛子は素早く傷の保護をすると足早に処置室を後にする。
「これからもよろしくねぇ、雛子ちゃん」
「っ……」
下の名前で呼ぶな。そう言いたかったが、泣いてしまいそうで声が出せなかった。
村田を病室に送り届けると、雛子はすぐにステーションへ駆け戻る。皆忙しく出払っていてスタッフの数は少なかったが、それでも同僚の顔を見ると少し落ち着いた。
「おかえり、ありがとね雨宮」
礼を言う大沢に、雛子は縋り付く。
「お、大沢さぁん……耳食べられた……」
「はぁ? マイ〇タイ〇ンかよ」
先程の暴挙を必死に説明すると、信じられないという顔で突っ込まれる。本当に泣いてしまいそうだった。
「あいつ……ヤバいやつだとは分かってたけど、思った以上だったわ……」
もちろんあいつとは火野崎のことだ。雛子は声も出せず、何度か頷いてみせる。
「確かにあいつはムカつくやつだけど……権力よ……結局私達も上も権力には勝てないの……三月いっぱいまで頑張って耐えるわよ……」
「そ、そんなぁ……」
下っ端には関係ないだなんてとんでもない認識の誤りだった。これがあと半年も続くだなんて先が思いやられる。
泣き言を言いそうになったその時、ステーションに鷹峯が入ってくる。
「お疲れ様です……って雨宮さん、何ですかその顔は?」
「鷹峯せんせぇ……」
目を潤ませる雛子に、不審な顔をする鷹峯。
「耳食べられたんですって。あのボンボンに」
「はぁ? マ〇クタ〇ソンですか?」
「……」
鷹峯が大沢と全く同じリアクションを見せる。
「……鷹峯先生ごめん。私今まで先生のこと本当に嫌な奴だと思ってたけど、あのボンボンほどじゃないわ」
雛子に代わり、大沢が真面目な顔でしみじみと鷹峯の肩を叩く。一緒に旅行をしたり飲みに行ったりと今でこそ鷹峯に信頼を置く雛子だが、出会った当初は彼に恐れおののき緊張していたことを思い出す。
「……なんかいきなりめちゃくちゃ失礼なこと言いますねぇ」
ぼやきながら鷹峯は白衣のポケットから携帯用アルコール消毒液を取り出し、躊躇いなく雛子の耳にそれを掛ける。
「冷たっ、何するんですかっ!」
「消毒消毒。唾液は汚いです」
事も無げに言ってのける鷹峯。首まで薬液が伝ってひんやりとするが、それも一瞬のことですぐに揮発してしまう。
「ちょっと使い過ぎでは……」
「大丈夫大丈夫。ちなみにこれ、自宅で常に二箱キープしてます」
そんなやり取りをしているうち、別の患者の所へ行っていた火野崎がステーションに戻ってきた。
「あれぇ? 誰かと思ったら、鷹峯君じゃん。元気してた?」
気安く肩を叩いた火野崎に、鷹峯はいつも通りの余裕そうな笑みを浮かべた。その直後に触られた肩を払い、一度しまったアルコールを取り出して自分の手を消毒している。
「火野崎先生、お久しぶりです。各所でお噂は耳にしていますよ」
鷹峯はにんまりと口角を上げ、切れ長の瞳を細める。
「さすがはT大出身の優秀なお医者様だ」
そこはかとなく嫌味が込められた口調に、火野崎も不機嫌を隠そうとしない。
「……ったく、鷹峯のくせに生意気だな」
気分を害したようで、火野崎はステーションを出ていく。
「院外追放もせず内科で面倒見てやってるんだぞ、有難く思えよっ」
小悪党らしく捨て台詞も忘れない。
「やれやれ。無駄足食いましたねぇ……」
「あの先生嫌です……」
「三月まで耐えるわよ雨宮……」
泣き言を言う雛子を大沢が慰めていると、遠くの病室から輸液ポンプのアラーム音が響く。
「私ちょっと行ってきます」
大沢に声を掛け、雛子は音の聞こえる方へ向かう。
「あれ、百合ちゃんの部屋だ」
病室の前まで行くと、確かにドアの向こうから音がしている。
「失礼します」
ノックをして部屋に入ると、百合はそれまで眠っていたのか眠そうな目を擦りながら身体を起こす。
「んん……」
「あ、寝たままで良いよ。ちょっと点滴見せてね」
百合は大人しく横になったまま雛子を見上げる。
「点滴なら少し前に清瀬さんが見てくれてましたけど……何の音なんですか?」
「えーっとね……あ、なんだ空液……」
アラームの原因は至ってシンプル。ボトル内の薬液が空になり、センサーが点滴筒への滴下がない事を知らせていた。
「薬が終わったみたい。すぐに次の点滴を繋ぐからそのまま待っててね」
雛子の返答に安心したのか、百合は微笑んで再び微睡み始めた。体調も優れず寝不足気味なのだろう。眠れる時にはなるべく休ませてあげようと、雛子はできる限り急いでステーションに戻る。
「あ、真理亜さんっ」
ちょうどステーション内にいた受け持ちの真理亜に、雛子は百合の点滴が空になっていることを伝える。真理亜は首を傾げる。
「あら、おかしいわね。メインの点滴は十二時更新の予定なんだけれど……」
二人同時にステーションの時計を見上げる。時刻はまだ十一時を回ったところだった。
「確かに変ですね。私がさっき部屋に行った時も、ちゃんと時間まであるように見えたんですけど……」
考えてもないものは仕方がない。真理亜は雛子に礼を言い、再び鳴り出したアラームに慌てて点滴を手に駆けていく。
「落ちムラひどいからかな?」
独り言を言いつつも、時間は待ってはくれない。雛子は急いで次の仕事へと頭を切り替えた。
ステーションに戻ると大沢が声を掛ける。
「ごめん、今からチョーお偉い天才外科医様が処置室で包交するらしいんだけど人手がなくて。あんたいける?」
「あ、はい。分かりましたっ」
大沢の様子から察するにこれはかなりイラついている。雛子は二つ返事で了承すると、指定された患者を呼びに行き急いで処置室へ向かう。
下っ端のスタッフはあまり関わることもないが、稼働率管理をする役職者やリーダー看護師にとってはこの本院からやってきた外科医というのがどうやら頭痛の種らしい。
その噂は耳にしていただけに、少しだけ緊張したがそこは自分に喝を入れてとにかく足を動かす。
「すみません先生。お待たせしましたっ」
できる限り迅速に処置室へ行くと、既に処置室で待たされていた外科医が物品の準備をするでもなく子どものように椅子でくるくると回っていた。
そう、彼こそが火野崎大学医学部附属病院院長の息子、火野崎誠その人である。
「あ、やっと来た?」
雛子の姿を見るや、患者の前だと言うのに横柄な口調でそう宣う。
「へぇ〜君若くて可愛いね。歳いくつ?」
清潔さのない長めの黒髪から覗く瞳が、眼鏡の奥で下品に笑う。
「っ……二十一です。さぁ村田さん、先生に見てもらいましょうね」
ここは合コンか。そんなツッコミは喉の奥に押さえ込んだ。
質問に短く答え、雛子は車椅子に乗った村田のズボンの裾を捲る。
「ねぇ彼氏いるの? おっぱい何カップ?」
「……村田さーん、少し痛いけど我慢して下さいねー」
村田の耳が遠いことが幸いだ。雛子はあとの質問を無視して村田に大声で話しかける。
無視された火野崎は不機嫌そうに舌打ちをし、ようやく処置に入る。
「鑷子」
「はい」
「消毒」
「はい」
「ガーゼ」
「はい」
指示されたものを、心を無にして黙々と渡す。
「はい、あと保護よろしく〜」
「きゃっ……!?」
素っ気ない態度が気に食わなかったのか、火野崎が振り返りざまに雛子の胸を鷲掴みにする。
「あれ、意外と着痩せするタイプ? あはは」
「〜っ……」
何が可笑しいのか分からないし、とにかく物凄く不快で不愉快だ。平素より巨乳の舞に散々貶されるささやかな胸だが、だからと言って別に真っ平らというわけではない。
(微乳は一定の需要あるんだから……!)
しかしこんな奴に触られて確かめられるなど、なけなしのプライドが許せなかった。
「そ、そういうことはやめてください! 上に言いますよ!?」
こういう行為には毅然とした態度で……と震える足に力を入れて火野崎を睨みつける雛子。
「うっわ、生意気な態度」
しかし火野崎は怯むでもなく、むしろ心外とでも言うようにあっけらかんと目を丸くする。そして雛子の耳元に顔を寄せる。
「言ってごらん? 君が痛い目見るだけだから。僕が誰かは分かってるよね?」
「ひっ……!?」
ぬるりと耳朶に感じる不快な感触。
(嘘でしょっ!? この人何考えてっ……)
舐められたと悟り、全身に鳥肌が立つ。
「いいねぇー。強気だった顔が青ざめる瞬間、堪んない」
火野崎は下品に笑った。
「……村田さん、帰りましょうね!」
屈しては駄目だ。泣いては相手の思う壷だ。
そう自分を叱咤して、雛子は素早く傷の保護をすると足早に処置室を後にする。
「これからもよろしくねぇ、雛子ちゃん」
「っ……」
下の名前で呼ぶな。そう言いたかったが、泣いてしまいそうで声が出せなかった。
村田を病室に送り届けると、雛子はすぐにステーションへ駆け戻る。皆忙しく出払っていてスタッフの数は少なかったが、それでも同僚の顔を見ると少し落ち着いた。
「おかえり、ありがとね雨宮」
礼を言う大沢に、雛子は縋り付く。
「お、大沢さぁん……耳食べられた……」
「はぁ? マイ〇タイ〇ンかよ」
先程の暴挙を必死に説明すると、信じられないという顔で突っ込まれる。本当に泣いてしまいそうだった。
「あいつ……ヤバいやつだとは分かってたけど、思った以上だったわ……」
もちろんあいつとは火野崎のことだ。雛子は声も出せず、何度か頷いてみせる。
「確かにあいつはムカつくやつだけど……権力よ……結局私達も上も権力には勝てないの……三月いっぱいまで頑張って耐えるわよ……」
「そ、そんなぁ……」
下っ端には関係ないだなんてとんでもない認識の誤りだった。これがあと半年も続くだなんて先が思いやられる。
泣き言を言いそうになったその時、ステーションに鷹峯が入ってくる。
「お疲れ様です……って雨宮さん、何ですかその顔は?」
「鷹峯せんせぇ……」
目を潤ませる雛子に、不審な顔をする鷹峯。
「耳食べられたんですって。あのボンボンに」
「はぁ? マ〇クタ〇ソンですか?」
「……」
鷹峯が大沢と全く同じリアクションを見せる。
「……鷹峯先生ごめん。私今まで先生のこと本当に嫌な奴だと思ってたけど、あのボンボンほどじゃないわ」
雛子に代わり、大沢が真面目な顔でしみじみと鷹峯の肩を叩く。一緒に旅行をしたり飲みに行ったりと今でこそ鷹峯に信頼を置く雛子だが、出会った当初は彼に恐れおののき緊張していたことを思い出す。
「……なんかいきなりめちゃくちゃ失礼なこと言いますねぇ」
ぼやきながら鷹峯は白衣のポケットから携帯用アルコール消毒液を取り出し、躊躇いなく雛子の耳にそれを掛ける。
「冷たっ、何するんですかっ!」
「消毒消毒。唾液は汚いです」
事も無げに言ってのける鷹峯。首まで薬液が伝ってひんやりとするが、それも一瞬のことですぐに揮発してしまう。
「ちょっと使い過ぎでは……」
「大丈夫大丈夫。ちなみにこれ、自宅で常に二箱キープしてます」
そんなやり取りをしているうち、別の患者の所へ行っていた火野崎がステーションに戻ってきた。
「あれぇ? 誰かと思ったら、鷹峯君じゃん。元気してた?」
気安く肩を叩いた火野崎に、鷹峯はいつも通りの余裕そうな笑みを浮かべた。その直後に触られた肩を払い、一度しまったアルコールを取り出して自分の手を消毒している。
「火野崎先生、お久しぶりです。各所でお噂は耳にしていますよ」
鷹峯はにんまりと口角を上げ、切れ長の瞳を細める。
「さすがはT大出身の優秀なお医者様だ」
そこはかとなく嫌味が込められた口調に、火野崎も不機嫌を隠そうとしない。
「……ったく、鷹峯のくせに生意気だな」
気分を害したようで、火野崎はステーションを出ていく。
「院外追放もせず内科で面倒見てやってるんだぞ、有難く思えよっ」
小悪党らしく捨て台詞も忘れない。
「やれやれ。無駄足食いましたねぇ……」
「あの先生嫌です……」
「三月まで耐えるわよ雨宮……」
泣き言を言う雛子を大沢が慰めていると、遠くの病室から輸液ポンプのアラーム音が響く。
「私ちょっと行ってきます」
大沢に声を掛け、雛子は音の聞こえる方へ向かう。
「あれ、百合ちゃんの部屋だ」
病室の前まで行くと、確かにドアの向こうから音がしている。
「失礼します」
ノックをして部屋に入ると、百合はそれまで眠っていたのか眠そうな目を擦りながら身体を起こす。
「んん……」
「あ、寝たままで良いよ。ちょっと点滴見せてね」
百合は大人しく横になったまま雛子を見上げる。
「点滴なら少し前に清瀬さんが見てくれてましたけど……何の音なんですか?」
「えーっとね……あ、なんだ空液……」
アラームの原因は至ってシンプル。ボトル内の薬液が空になり、センサーが点滴筒への滴下がない事を知らせていた。
「薬が終わったみたい。すぐに次の点滴を繋ぐからそのまま待っててね」
雛子の返答に安心したのか、百合は微笑んで再び微睡み始めた。体調も優れず寝不足気味なのだろう。眠れる時にはなるべく休ませてあげようと、雛子はできる限り急いでステーションに戻る。
「あ、真理亜さんっ」
ちょうどステーション内にいた受け持ちの真理亜に、雛子は百合の点滴が空になっていることを伝える。真理亜は首を傾げる。
「あら、おかしいわね。メインの点滴は十二時更新の予定なんだけれど……」
二人同時にステーションの時計を見上げる。時刻はまだ十一時を回ったところだった。
「確かに変ですね。私がさっき部屋に行った時も、ちゃんと時間まであるように見えたんですけど……」
考えてもないものは仕方がない。真理亜は雛子に礼を言い、再び鳴り出したアラームに慌てて点滴を手に駆けていく。
「落ちムラひどいからかな?」
独り言を言いつつも、時間は待ってはくれない。雛子は急いで次の仕事へと頭を切り替えた。