白衣とブラックチョコレート

泊まっていっても良い?

「うわぁ、どうしたのそのおでこ?」

馴染みの居酒屋『呑んだくれ』のカウンターにて、遅れてやってきた夏帆が大きな絆創膏を貼られた雛子の額をまじまじと覗き込んだ。

「アル中の患者に酒瓶で殴られたんだと。クレイジーだろ」

悠貴が飽きれた顔で雛子の代わりに説明する。

「はぁ? 本当にクレイジーね。そいつ訴えましょう」

憤慨しながら夏帆は雛子の隣に座る。サワーを大ジョッキで頼む夏帆に対し、既に抜糸が済んだとはいえ額を縫ったばかりの雛子はソフトドリンクを啜っていた。

「……何よ雛子、何か心ここに在らずって感じじゃない?」

裁判だなんだと盛り上がる外野に対し、雛子は難しい顔をして焼き鳥を頬張っていた。

「ちょっとねぇ……白血病の子が抗がん剤治療で入院してるんだけど、初発だから色々と大変で……。私ももっと勉強しないといけないんだよねぇ」

雛子は悩みの種である百合について二人に話す。

せめて質問された時にはきちんと答えられるようにしたいが、いかんせん覚えるべきことが盛りだくさんだ。

実はここで呑気に外食などしている暇はなく、何だか罪悪感を覚える。

「そうなんだ。あ、でもプライマリー真理亜さんなんでしょ? だったら雛子がそこまで気にする必要はないんじゃないの?」

「そう、なのかなぁ?」

もちろん疾患にも本人にも詳しくなるに越したことはないが、確かにプライマリーを差し置いて雛子がお節介を焼くのも考えものである。

夏帆は自分用の焼き鳥が来ると、美味しそうにそれをサワーで流し込む。

「あ、そういえばさぁ。あの本院から来た外科医、あれ最悪だわ」

そう言って周りを警戒しながら声を潜めた夏帆に、雛子と悠貴も思わず苦笑いを浮かべた。

「『火野崎』って、確か本院の外科部長もやってるここの病院グループの院長だよな? 今来てるのはその息子だろ?」

悠貴もまた声を潜める。ここは職員寮からも近く、どこで同僚が聞いているか分からないからだ。雛子はオレンジジュースをストローで啜る。

「親のコネか何か知らんが傍若無人っていうかさ、ERでも重傷者バンバン受け入れるからすぐにICUも埋まっちゃって、他科の先生から俺達が文句言われてんだよなぁ」

医者のせいで理不尽に怒られるとなれば、悠貴の不満も致し方ない。皆、火野崎には口を出せないのだろう。

「そう言えば、なんか鷹峯先生と因縁があるような? ないような?」

雛子はステーションで静かに火花を散らしていた両者を思い出す。どちらかと言うと、火野崎の方が一方的に何かを根に持っているようにも見えたが。

「ああ、あの二人、研修医時代からの同期みたいね」

夏帆がいつの間にか頼んだ焼酎の水割りに口をつけながら告げる。

「ええ、まじかよ。鷹峯先生が若いのか、火野崎先生が歳いってんのか……どっちにしろ年齢不詳な二人だな」

あの二人いくつだよ、と悠貴は首を傾げる。確かにどちらも態度を見ればベテランの雰囲気だが、見た目だけで言えば鷹峯は研修医と見まごうほど若く見え、火野崎は役職クラスに老けて見える。

「入山の言ったまんま。鷹峯先生が若くて、火野崎先生が歳いってんの」

ご名答とばかりに、夏帆はパチリと指を鳴らす。

「先輩から聞いた話なんだけど、鷹峯先生ね。二十四でうちのレジデントになる前から、アメリカで医師免許取って働いてたんだって。しかも十代の時から」

「え、すご」

「バケモンかよ……」

雛子と悠貴は揃って目を丸くする。

「確か元々外科のお医者さんだったらしいね。先生本人も言ってたから間違いない。私のおでこも鷹峯先生が縫ってくれたし」

手の故障については、鷹峯が隠している様子だったので念の為秘密にしておく。

「へぇ〜。じゃあ何で今は総合内科なんてやってんだ?」

「外科は極めたから、内科に転向したって言ってた」

「そうなんだ」

二人が特に言及してこないことに、雛子は内心ほっとする。少しドキドキした心臓を落ち着けようと、雛子は目の前に置かれたお冷を流し込む。

「鷹峯先生ってあんなキャラだし総合内科って地味だから気付いてない人も多いけど、実は診断の天才って有名よ。どんな隠れた疾患も即座に暴いちゃうらしいわ」

さらに、と夏帆は何故か得意げに指を立てる。

「どんな小さな変化も見逃さないから、鷹峯先生の患者は急変が圧倒的に少ないの。慎重で的確な指示出しをして、事前に急変を防いじゃうんですって。まさに我が病院切っての超名医」

「すげぇ〜。けどなんで市ヶ谷はそんな得意顔なんだよ」

雛子はその話を聞いて入職当時のことを思い出していた。

初めて受け持ちをする日の朝、鷹峯が前日に指示を入れたことで恭平が急遽受け持ちを変更したのだ。

(なるほど。だから桜井さん、私の受け持ちを交代してくれたんだ)

雛子はあの時の恭平の判断に、今更ながら合点がいく。

ということは、本来なら有り得ない急変という事か。

(鷹峯先生がいくら優秀でも、防ぎきれない急変もあるのか……)

何となく記憶の端に引っ掛かりを感じたが、その糸を手繰れず雛子はすぐに諦めた。

飲酒はしていないはずなのに、何故か頭がぼんやりとしてくる。

「高学歴、高収入、高身長の典型的な3K、文武両道でその上イケメンだなんてものすごくレア物件!」

「へぇ、知らなかった〜」

人を物件呼ばわりする夏帆の後ろから、ぬ、と顔を出したのは桜井恭平その人であった。

「ぶっ……!」

神出鬼没の彼に、悠貴は飲みかけていた酒を吹き出す。

「そういう話は気を付けろよー。ここ同僚多いから」

決して広くはない店内に目を配りながら、恭平は注意を促す。思わず声のトーンが高くなっていた夏帆は慌てて口をつむぐ。

「なになに、皆してたかみーのファンクラブ?」

どうやら今来たところらしい恭平は、テーブル席に座ると雛子達を手招きで呼んだ。三人は促されるままカウンターから移動する。

恭平から漂うアルコールの香りに、既に別の店で飲んできたらしいことが分かる。

「元外科医、か。にしてもあの潔癖症はどうかと思うがなぁ」

何か不満げな口調で宣いながら、恭平は駆けつけ一杯とばかりにビールを注文する。

「院内に設置されてるアルコール消毒の殆どはたかみーが消費してるって噂だぞ」

すぐに届いたビールを突き出しとともに一気に流し込みながら、恭平はごちる。

「先生って彼女いるんですかね? あれだけ潔癖だと付き合うの大変そう。前に誰彼構わず……とは言ってたけど」

夏帆の質問に、恭平は「あー」と気のない声を漏らす。

「今はいないらしいな。キスしてくれない彼氏とか嫌だろ」

「確かにー」

「そういうもんなのか……」

納得する夏帆に、訝しみながらも一人頷く悠貴。一方の雛子は、モヤモヤとした気持ちで突然湧いて出た恭平の横顔を見つめる。

(桜井さんとはこの前まで気まずくなってたし、無事元に戻るまで忘れてたけど……)

雛子はじっとりとした視線を恭平に送る。

(前に真理亜さんのところから朝帰りしてたのは何だったの……? やっぱり付き合ってるのかな?)

付き合っているとしたら、誰もが認める美男美女カップルであるのは間違いない。お似合いの二人のはずだ。

それでも、雛子からすると何となく面白くない。面白くない理由はうまく説明がつかない。

「……」

「……何?」

雛子の視線に気付いた恭平が、そのただならぬ気配に首を傾げる。

「……真理亜さんとは、付き合ってるんです?」

単刀直入な雛子の言葉に、恭平は「はぁ?」と疑問符を頭に浮かべた。

「んなわけないじゃん。見りゃ分かるだろ」

ないない、とまるで小バエでも追い払うかのような仕草の恭平に、雛子が軽蔑した目を向ける。

だいたい、見りゃ分かるというのなら、朝帰りしているのに付き合っていない方がおかしい。

「はぁ〜へぇ〜、そうですかぁ。不潔です桜井さん〜。女なら誰でも良いんですねぇ」

突然管を巻く雛子に、夏帆と悠貴が驚いて雛子の手にあったお冷を取り上げる。

「ってアンタこれ、私の水割りじゃない! 今日はノンアルだけって言ってたでしょ!」

「まぁロリと親より年上の熟女以外はいけるからあながち間違いでもない」

「恭平さんも何言ってるんすか……って、めっちゃ目据わってるし」

既に梯子酒の恭平も、実は相当酔いが回っていたようだ。酔っ払いの二人は額を合わせる勢いで睨み合う。

「なんだその反抗的な目は。飢えてんの? ご無沙汰なの?」

「はぁっ? 桜井さんと一緒にしないでくらさい! 私はまだ未経験ですぅ〜」

「ちょ、雛子止めなさい、公衆の面前で」

社会的に死ぬわよ、と窘めるも、酔っ払いの耳に届くはずもない。

「駄目だこれ……。市ヶ谷、とりあえず二人を連れて帰るぞ」

今年の雛子はさしずめ酒の受難とでも言うべきか。

さっさと会計を済ませると、悠貴は恭平を、夏帆は雛子を介抱しながら足早に帰路につく。

二人はまだギャーギャーと何か言い合っているが、己の足で歩いてくれることが救いだ。

「なぁ恭平さんの部屋ってどこだ?」

「さぁ、アンタ同じ階じゃなかった?」

何とか寮のエレベーターに乗り込みながらそんな会話をするも、夜に大声を出す二人をいち早く閉じ込めたい二人の見解は一致した。

「もう纏めて雛子の部屋にぶち込んどきましょ」

「おう。そうだな」

恭平の部屋を調べるよりその方が早い。夏帆は慣れた手つきで雛子のバッグから部屋の鍵を取り出すと、酔っ払いを中に押し込み手早くドアを閉めた。



「ゔぇ……きもちわるぅ……」

一方、雑に扱われたことで雛子はすっかり酔いが回ってしまったようだ。

「……大丈夫かよ」

玄関先で芋虫のように丸まって一歩も動けなくなった雛子に、恭平は飽きれた視線を向ける。

「桜井さんこそ……こんなに酔っ払うなんてらしくないじゃないですか……」

視線だけを何とか向けるも、先程までの威勢は失われていた。

「あ、お前それ。血ぃ滲んでんぞ」

「うぁ、何を、」

恭平は雛子の額に貼られた絆創膏を指差すと、動けない雛子の靴を脱がせてやりすんなりと抱き上げてベッドに運ぶ。多少覚束無い足取りながらも、雛子ほど酔っているわけではない。

「酒なんて飲むからだ、バカ」

しかし、人のことは言えない。

それ以上咎めることはせず、雛子に物の位置を聞き出すと手馴れた様子で絆創膏を交換する。


「……やっぱり、百合ちゃんのことですか……?」


雛子の言葉足らずな質問に、恭平は僅かに身動ぐ。それが先程の「らしくない」という発言に続くことはすぐに理解出来た。

「元カノさんと重ねてるんですか」

「元じゃない」

「……すみません」

そこから暫く無言の時間が続くも、それは恭平の小さな溜息によって終わる。

「ごめん、やっぱり元」

「どっちですか……」

まだ吐き気が治まらないらしい雛子は、ぐったりとベッドに寝転んだまま目線だけ恭平に送っていた。

「まぁ、重ねてないって言ったら嘘になるな」

淡々とした口調で、しかし僅かに俯きながら恭平は独り言のようにそう言った。



恭平の脳裏に、屈託のない唯の笑顔が、泣き顔が、怒った顔が、一瞬にして過ぎる。



(唯はいつも百面相だったな……そうだ、こいつみたいに)



今は子犬のようにしゅんとした表情を見せる雛子にも、唯の顔が重なって見えた。


(やべ。やっぱり酔ってんな)


重ねているのは、本当に東雲百合なのだろうか。酔っ払いの思考ではうまく考えられない。


「それなら酷いじゃないですか。元じゃないって言いながらお姉さんである真理亜さんと、その……」

雛子が抗議の声を上げ、恭平は懐古の旅から我に返る。しかし彼女が歯切れ悪く押し黙ったため、今度は訝しげに首を傾げた。

「真理亜さんと……」

「真理亜と、なんだよ」

「ね……」

「ね?」

「ね、ねねねね寝たんでしょうっ?」

「……は?」

みるみるうちに、雛子の肌が真っ赤に染まった。

「だっ、だって、真理亜さん言ってたもん! 桜井さんを泊めたって!」

「いや確かに泊まったが」

「お泊まりしたってことは、つ、つまり、そ、そういうことでしょっ!?」

盛大に吃りながら、雛子は半ば八つ当たり半分で恭平に怒鳴る。

一方の恭平は要領を得ない。

「寝てないし…。お前の中では泊まったらそういうコトする決まりでもあんのか」

「なんてこと言うんですか! 変態っ!」

「お前なぁっ……」

何を言っても責められる状況に、さすがに恭平も顔を顰める。

「あ」

そして次の瞬間、悪戯を思いつく。

「なぁ」

ベッドに横たわったままの雛子の上に、恭平は大きな身体で覆い被さる。

「今日はどうする? 泊まっていっても良い?」

「なっ……!」

思った通り、彼女は赤くなった顔を更に濃く染めた。

予想通りの反応に気を良くした恭平は、にやりと悪い笑みを浮かべながら覆いかぶさった状態のまま彼女の顔に手を添える。

「ねぇ、『泊まっても』良い?」

「っ……!」

ゆっくりと顔を近づけ、彼女の頬に親指を這わせる。艶やかな桃色の唇から漏れ出た吐息が恭平の鼻先にかかる。


ああ本当に、食べてしまいたくなるような──── 。


「うぶっ!?」

「はは、変な顔」

「なっ、ぁ、っ……!?!?」

恭平が雛子の両頬を片手で思い切り挟んだことで、思いがけずタコ顔を晒す羽目になった雛子は声にならない叫びを上げて何やら憤慨していた。

(やっぱり違うよな、手ぇ出すのは)

危うさなどなかった、と言えば嘘になる。酔った勢いを言い訳にこのまま唇を重ねることもできた。

しかしいくら彼女が唯と似ていようが、恋人ではなく妹のような存在なのだという理性が恭平を引き止めていた。

「……ごめん、やっぱり飲み過ぎたわ。帰る」

固まっている雛子の上からすんなりと退き、恭平は玄関に向かう。

「ちゃんと鍵閉めて寝ろよ。おやすみ」





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