白衣とブラックチョコレート
運命の出会い
「お疲れ様です。遅出入ります」
雛子の挨拶に、リーダーをしていた先輩看護師がパソコンから顔を上げる。
「おー、お疲れ雨ちゃん。あ、桜井君と一緒に来たの?」
「えっ?」
雛子が振り返ると、後ろからはちょうど検査科から戻ってきた恭平がやってきたところだった。
相変わらず気配が薄い。
「なになにー? さては二人、できてるなぁ〜?」
「ちょっ、そんなんじゃないですって……!」
先輩のからかうような表情に、雛子は焦って否定する。
「別に。たまたまタイミングが一緒だっただけっすよ」
一方の恭平はというと、意に介さずといった調子でそう宣い、さっさと自分の持ち場に向かう。無表情の中に飽きれた様子も見て取れたことで、先輩にからかわれて少しだけ浮かれた心が急速に萎んだ。
(忙しいのは分かるけど……この温度差が悲しい……)
落ち込んでいても仕方がない。
今は仕事に集中しようと、雛子はシフトを掲示してあるホワイトボードに目を向ける。
自分のネームの横に、予定入院患者の対応が書き込まれていた。雛子は患者のカルテを立ち上げる。
(えっと……ああ、抜釘の人)
患者の名前は塔山優次郎、二十七歳。趣味のフットサル中に左腕を骨折し緊急手術を受け、本日は体内に残っている金属を抜く手術、いわゆる抜釘手術を受けるために入院する患者である。
「あ、そうだ雨ちゃん。その塔山って人なんだけどね。ついさっき師長から電話があって、急遽うちの病棟に入ることが決まったみたい。たぶん整形の病棟が満床なのね」
あそこは緊急入院が多いから、とリーダー。時計を見ると、そろそろ病棟に上がってくる頃だ。 入院準備の確認をするため、雛子は病室へと向かう。
そこはかつて雛子が担当していた、藤村翔太がずっと入院していた部屋だった。
「……」
新しい患者を迎え入れるにあたり、室内は綺麗に掃除されていた。ロッカーは消毒され開かれており、ベッドには綺麗にシーツが敷かれている。
雛子は空っぽになったロッカーを見つめた。
かつて勝手に開けようとして怒られたこと、テレビの周りやオーバーテーブルに所狭しと置かれたサッカーグッズ、ゲーム機。
今はそのどれもない。
まるで翔太の自室のようにカスタマイズされていたというのに、随分と殺風景になってしまった。
部屋に立ちこめるのは、ただの消毒の臭いだけだった。
『自分を信じろ』
「翔太くん……」
唐突に鼻の奥がつんとして、雛子は慌てて深呼吸をした。
「入院のお部屋はこちらになります」
その時、部屋の入口で声がした。雛子は一度目にぎゅっと力を入れると、気持ちを切り替えて笑顔を作る。
部屋のドアが開かれた。
「おはようございます。本日担当の────……」
「雨宮さんっ!」
「え? あ、先程の!」
名乗る前に名前を呼ばれ訝しんだものの、よく見ると彼は先程外来で迷子になっていた男性だった。彼、塔山優次郎は、爽やかな笑みで雛子へと歩み寄る。
「すごい、偶然ですね!」
まさか先程の彼とこのような形で再会するとは、世間は狭い。そう思いながらオーバーテーブルに用意されていたリストバンドに伸ばした手を、塔山が実にスムーズな所作で掴んだことで雛子の思考はフリーズする。
「いや! これはまさに運命!」
「ん? と、塔山さん?」
塔山の力強い言葉に、雛子は我に返った。彼の片手はいつの間にか腰に回され、ソーシャルダンスでも踊るかのようにがっちりホールドされていた。
「私服姿も素敵だったけれど、やはりナース服姿も素敵だね。とても可愛いよ」
「はぁ……」
まるで新しいおもちゃを与えられた少年のようにキラキラした瞳で言い切られ、思わず気の抜けた返事しか返せない。
そんな雛子に構わず、塔山の口からはスラスラと澱みなく甘い言葉が囁かれる。
「雨宮さん、下の名前は雛子さんって言うのかい? とっても素敵で可憐だね。それにクリクリとした大きな瞳、まるで吸い込まれてしまいそうだよ。ふふ、この華奢な手首も良いね……僕が守ってあげないと容易く折れてしまいそうだ」
「あ、あの……」
折れたのはあなたの左腕です。
などとこちらが言葉を挟む隙もないほどの勢いで、ひたすら雛子のことを褒めまくる塔山。何とか振りほどいてバイタル測定やら必要事項の説明を行うが、果たしてちゃんと聞いているのか定かではない。
「で、では私はこれで……」
「待って雛子さん。まだ僕は君といたい。君に触れていたいんだ。この透き通るように白い絹のような肌……堪らないね」
腰を抱かれたまま頬を撫でられ、雛子は思わず身を捩るもなかなか抜け出せない。どうしたものかと考えあぐねていると、チラリと病室の入口から覗く人影。
(あっ)
「失礼します」
平時よりやや大袈裟なノックをして、顔を覗かせたのは恭平だった。
「さ、桜井さんっ……」
「すみません、他の患者さんが彼女のことを呼んでいますので」
手招きされ、雛子は何とか塔山の腕から抜け出す。
「し、失礼しますっ」
小走りでドアへ向かい、頭を下げて退室する。
一瞬、恭平と塔山の視線が交錯した、気がした。
雛子の挨拶に、リーダーをしていた先輩看護師がパソコンから顔を上げる。
「おー、お疲れ雨ちゃん。あ、桜井君と一緒に来たの?」
「えっ?」
雛子が振り返ると、後ろからはちょうど検査科から戻ってきた恭平がやってきたところだった。
相変わらず気配が薄い。
「なになにー? さては二人、できてるなぁ〜?」
「ちょっ、そんなんじゃないですって……!」
先輩のからかうような表情に、雛子は焦って否定する。
「別に。たまたまタイミングが一緒だっただけっすよ」
一方の恭平はというと、意に介さずといった調子でそう宣い、さっさと自分の持ち場に向かう。無表情の中に飽きれた様子も見て取れたことで、先輩にからかわれて少しだけ浮かれた心が急速に萎んだ。
(忙しいのは分かるけど……この温度差が悲しい……)
落ち込んでいても仕方がない。
今は仕事に集中しようと、雛子はシフトを掲示してあるホワイトボードに目を向ける。
自分のネームの横に、予定入院患者の対応が書き込まれていた。雛子は患者のカルテを立ち上げる。
(えっと……ああ、抜釘の人)
患者の名前は塔山優次郎、二十七歳。趣味のフットサル中に左腕を骨折し緊急手術を受け、本日は体内に残っている金属を抜く手術、いわゆる抜釘手術を受けるために入院する患者である。
「あ、そうだ雨ちゃん。その塔山って人なんだけどね。ついさっき師長から電話があって、急遽うちの病棟に入ることが決まったみたい。たぶん整形の病棟が満床なのね」
あそこは緊急入院が多いから、とリーダー。時計を見ると、そろそろ病棟に上がってくる頃だ。 入院準備の確認をするため、雛子は病室へと向かう。
そこはかつて雛子が担当していた、藤村翔太がずっと入院していた部屋だった。
「……」
新しい患者を迎え入れるにあたり、室内は綺麗に掃除されていた。ロッカーは消毒され開かれており、ベッドには綺麗にシーツが敷かれている。
雛子は空っぽになったロッカーを見つめた。
かつて勝手に開けようとして怒られたこと、テレビの周りやオーバーテーブルに所狭しと置かれたサッカーグッズ、ゲーム機。
今はそのどれもない。
まるで翔太の自室のようにカスタマイズされていたというのに、随分と殺風景になってしまった。
部屋に立ちこめるのは、ただの消毒の臭いだけだった。
『自分を信じろ』
「翔太くん……」
唐突に鼻の奥がつんとして、雛子は慌てて深呼吸をした。
「入院のお部屋はこちらになります」
その時、部屋の入口で声がした。雛子は一度目にぎゅっと力を入れると、気持ちを切り替えて笑顔を作る。
部屋のドアが開かれた。
「おはようございます。本日担当の────……」
「雨宮さんっ!」
「え? あ、先程の!」
名乗る前に名前を呼ばれ訝しんだものの、よく見ると彼は先程外来で迷子になっていた男性だった。彼、塔山優次郎は、爽やかな笑みで雛子へと歩み寄る。
「すごい、偶然ですね!」
まさか先程の彼とこのような形で再会するとは、世間は狭い。そう思いながらオーバーテーブルに用意されていたリストバンドに伸ばした手を、塔山が実にスムーズな所作で掴んだことで雛子の思考はフリーズする。
「いや! これはまさに運命!」
「ん? と、塔山さん?」
塔山の力強い言葉に、雛子は我に返った。彼の片手はいつの間にか腰に回され、ソーシャルダンスでも踊るかのようにがっちりホールドされていた。
「私服姿も素敵だったけれど、やはりナース服姿も素敵だね。とても可愛いよ」
「はぁ……」
まるで新しいおもちゃを与えられた少年のようにキラキラした瞳で言い切られ、思わず気の抜けた返事しか返せない。
そんな雛子に構わず、塔山の口からはスラスラと澱みなく甘い言葉が囁かれる。
「雨宮さん、下の名前は雛子さんって言うのかい? とっても素敵で可憐だね。それにクリクリとした大きな瞳、まるで吸い込まれてしまいそうだよ。ふふ、この華奢な手首も良いね……僕が守ってあげないと容易く折れてしまいそうだ」
「あ、あの……」
折れたのはあなたの左腕です。
などとこちらが言葉を挟む隙もないほどの勢いで、ひたすら雛子のことを褒めまくる塔山。何とか振りほどいてバイタル測定やら必要事項の説明を行うが、果たしてちゃんと聞いているのか定かではない。
「で、では私はこれで……」
「待って雛子さん。まだ僕は君といたい。君に触れていたいんだ。この透き通るように白い絹のような肌……堪らないね」
腰を抱かれたまま頬を撫でられ、雛子は思わず身を捩るもなかなか抜け出せない。どうしたものかと考えあぐねていると、チラリと病室の入口から覗く人影。
(あっ)
「失礼します」
平時よりやや大袈裟なノックをして、顔を覗かせたのは恭平だった。
「さ、桜井さんっ……」
「すみません、他の患者さんが彼女のことを呼んでいますので」
手招きされ、雛子は何とか塔山の腕から抜け出す。
「し、失礼しますっ」
小走りでドアへ向かい、頭を下げて退室する。
一瞬、恭平と塔山の視線が交錯した、気がした。