白衣とブラックチョコレート

閑話

〜閑話〜


東京都心のど真ん中にありながら、家賃は月々二万円、8畳1Kの風呂トイレ別、オートロックまで完備した火野崎大学医学部附属東京病院の寮は、病院の敷地内に併設されている。

寮は二十四時間管理人在中で十五階建て、一階はエントランスと管理人室、メールボックス。

二階から八階は男性スタッフフロア、九階より上は女性スタッフフロアとなっている。各部屋にはシングルベッド、エアコン、洗濯機、冷蔵庫、テレビが備え付け。よって独身の若いスタッフにはそれなりに人気がある。

今年入職した新米看護師の雨宮雛子(あまみやひなこ)市ヶ谷夏帆(いちがやかほ)入山悠貴(いりやまゆうき)は、夏帆の居室に集まって各々教科書と睨めっこしていた。雛子が十階、悠貴が八階に住んでおり、中間の九階にある夏帆宅がちょうど集まりやすいという単純な理由である。

「うーん……全っっ然分かんない……」

雛子は教科書から一変、天井を見上げて溜息を吐いた。先程から何度読もうとしても目が滑り、内容が全く頭に入ってこない。

「なんの勉強してるの?」

夏帆が雛子のノートを覗き込む。

「悪性リンパ腫。桜井さんのプライマリーなの。終末期(ターミナル)なんだけど、今度サブプライマリーとして担当に付けるから、勉強しとくようにって言われて……」

夏帆が少し意外そうな顔で、切れ長の目を丸くする。

「まだ入職して二ヶ月なのに、そんな難しい患者さん担当するの? 血液内科ならまだしも、8Aなら整形とか耳鼻科とかもっと軽症な症例の患者さんいるでしょ?」

プライマリーというのは、言わば患者一人一人に付く担当の看護師である。他のスタッフに情報を共有したり、患者や家族、他職種との連携を図る橋渡し的役割を担っている。

故に疾患の病態から治療内容はもちろん、患者の性格や病気の受け止め方、今後の方針まで、他のどのスタッフよりも詳しくなるのがプライマリーナースである。

「夏帆の言う通りなんだけど、軽症の人はパスや短期入院ばっかりだからあんまりプライマリーとして付く意味がなくて……」

夏帆はペンを置き、冷蔵庫から麦茶のボトルを出してきて雛子のグラスに継ぎ足す。雛子は礼を言い、一口こくりと冷たい麦茶を喉に流し込む。それを見届けたあと、夏帆も同じようにグラスに口をつけた。

「なるほどね〜。そう言えば桜井さんってさ、 最初にメロンパン買い占めてた話を聞いた時はやばい人なのかなって思ったけど、実物は結構イケメンだよね?」

この前見たよ、と夏帆。

「まぁ若干不思議な人なのは否めないけど……顔は格好良い、かなぁ〜」

雛子はにやける顔を隠すように、両手を頬に当てる。それまで参考書に集中しており一言も発さなかった悠貴が、そこで初めて深い溜息を吐いた。

「……ったく何にやけてんだ雨宮? あんなスカしたヤローのどこが良いんだよ? もしかして好きなの?」

「べ、別にそんなんじゃないよ! 確かにちょっと変わってるけど、仕事できるし褒めてくれるし良い先輩だよ!?」


『頑張ったじゃん』


頭に乗せられた手の重みを思い出し、雛子は再び釣り上がりそうになる口角を必死に抑える。

「だからにやけてるっつーの」

「あいたっ」

恭平のようなポーカーフェイスは難しいようだ。悠貴にペンで頭を小突かれ、雛子はむぅっと唇を尖らせる。

「そういう二人はどうなの? 仕事、もう慣れた?」

流れを変えようと、雛子は話題を振る。

「私は元々消化器希望してたし楽しいわよ。パスが多いから業務自体は慣れれば難しいことないし。……ただドレーン自己抜去されたら最悪だけど」

ゾッとしたような表情の夏帆に、「何かあったな」と察する二人。

「ゆ、悠貴は?」

話を振られた悠貴は、少し得意げな顔をする。

「おう。最近は急患がいない時は少しずつICUの機械類も触らせてもらってる。ERは忙しい時と暇な時で差があるからなぁ」

夏帆は消化器病棟、悠貴はER/ICUにそれぞれ配属されている。同じ新人でも、配属先によって業務内容も学ぶ疾患も全く異なる。

「はぁ……それにしても、毎日毎日立ち仕事で足がパンパン……ねぇ雛子ぉ、足マッサージしあいっこしよ」

記憶の淵から戻ってきた夏帆が、短いルームウェアから伸びた雛子の足に触れる。

「んん……きもちー」

雛子が終わると、次は雛子が夏帆の足を揉む。女子特有の甘ったるい雰囲気を尻目に、悠貴は再び参考書に視線を落とす。

「ほらほら入山ー。サービスショット」

そんな悠貴に、夏帆がマッサージを受けながら茶々を入れる。

「アホか。そんな大根みたいな足のどこがサービスだ。あ、タイムサービスか?」

「はぁ? 失礼なやつ! ばーか!」

「悠貴と夏帆、やっぱり付き合えばいいのに……」

何だかんだ、仲の良い三人である。結局勉強もそこそこに、貴重な休日は終わりを告げるのだった。








閑話【fin.】
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