ここは確かに、空だった。
そしてあかりは、久々に屋上へと足を向ける。
エレベーターの先から続く階段。その先に鉄扉があり、埋め込まれた窓から差し込む白い光が、階段に埃の靄を照らしている。
見慣れていたはずの光景。しかしそこに、今までにはなかった影。
「……」
誰か、階段から降りてくる。しかし逆光で顔はよく見えない。シルエットから、ショートヘアの女性だと認識できた。
一歩一歩階段を下りるヒールの音。あと数歩のところまで近づいて、以前屋上で会話を交わした女性だと気付くことができた。
女性は前回と違い、真っ黒な喪服に身を包んでいた。女性はあかりに気が付き、にこりと微笑んだ。
「あかりちゃん」
お久しぶりね、と続けた女性は、あかりの横まで来て、下に戻ってしまったエレベーターを呼び戻すためボタンを押した。
「母親が亡くなってね、それで今日はここへ来たの」
女性はあかりの横に立ったまま、ぽつりとそう告げた。そして一瞬、ふわりとあかりを抱き締めた。
その腕の中は、泣きたくなるほど暖かかった。そして不思議と、懐かしい匂いがした。
「ちゃんと前見て歩きなさいよ」
女性はそれだけ言うと、到着したエレベーターに乗り込んで行ってしまった。
「……」
女性がいなくなった後、しばらく深呼吸をしてからあかりは階段を上った。そしていつもより重く感じる鉄扉を開けると、そこには懐かしくさえある橙と、塗装の剥げたベンチに座り、空を見上げる悟。
彼は人の気配に気付いて振り返り、それがあかりだと分かると片手を上げた。
「久しぶり」
「久しぶり」
お互いに短く会話を交わす。沈黙の後、あかりはおもむろに指輪を首から外し、悟の手に握らせた。
「なんで私が持ってるって、知ってたの」
体温を感じる悟の手を離さぬまま、あかりは尋ねた。悟は一瞬目を見開いたが、すぐに声を上げて笑った。
「芳江さんやお前のお袋さんが言ってたよ。お袋さんが最初に拾ったんだって話も」
その言葉に、今度はあかりが目を見開く番だった。
「二人とも、よくここに遊びに来てたからな。もっとも、お前のお袋さんは俺のお仲間だったがな」
そう言うと、悟はにやっと笑ってあかりの頬の、ちょうどえくぼの部分に指を突く。
「お前、特にこのえくぼが母親そっくりだからな、初めて会った時すぐにお前がそうだって分かった」
そして悟の手に指輪を握らせるあかりの手を、彼は逆に強く握った。
「最初はすぐに返してもらおうかと思ったけど、話しているうちに楽しくなってきたんだよな。明日にしよう、また今度にしよう、そうやって時間が過ぎていって、俺はもう少しだけ、あかりとの時間を楽しんでみようと思った。俺にとってあかりは、どんどん気になる存在になっていった」
悟の真剣な瞳に、あかりは耐えられなくなって目をそらした。
「止めてよ……」
そんな言葉をかけられたら、勘違いしてしまいたくなる。
「本当だ、あかり。時間の止まった俺は、ずっと愛子ちゃんのことを想っていることしかできないと思っていたんだ。でもな、死んでから出会った人間のことをこんなにも想うことができた」
勘違い、してしまいたくなるじゃないか。
「あかりには本当に感謝している。指輪はもう意味なんてないし、俺も……身体がないしな、だからお前が持っていれば良い……と、言いたいところだが」
悟は一度、言葉を切った。
『天使に返しなさい』
あかりは母の声を聞いた気がした。
「そんなことをして、お前まで縛り付けられる必要は、ないよな」
本来出会うことなどなかったはずの二人を引き合わせた、不思議な運命を運んでくれた指輪。
「この指輪はまたどこかで、不思議な縁を結んでくれるのかも知れないな」
悟の笑みにつられ、あかりも笑みが浮かんだ。
「……投げようか、ここから」
「おう」
あかりはチェーンの部分を外して手に指輪を握ると、その上から悟の大きな手が包む。そして二人はフェンスの手前まで並んで歩く。
「なんだか、結婚式のケーキ入刀みたい」
「またはブーケトスだな」
そして二人の手は、大きく後ろに振りかざされ、指輪は橙色の空に舞う。そして、気だるい喧騒の中に落ちて行った。
「はぁ……四十年って、案外長かったなあ……」
悟の声に、あかりは振り向いた。
彼は今、天に還っていく。
「でも、あかりに出会えて良かった」
そういうと、悟はそっとあかりを抱きしめた。
そこには悟の白いTシャツがあるはずなのに、あかりの瞳には向こう側のベンチがうっすらと見えていた。
消える─────。
「悟……私……悟のこと、っ……あのね、悟のことがっ……」
止まっていたはずの涙と一緒に、閉じ込めていた恋慕の情まで溢れ返りそうになった。『好き』と口にしかけたところで、悟の腕に力が入りあかりの言葉は途切れた。
「それ以上、言うなよ。俺とお前の時間はこれからずっと離れていく。でも、忘れるな」
その言葉を口にさせない、悟の優しさだった。あかりはそれを受け止めた上で、わざと拗ねた声を出した。
「告白もさせてくれないなんて、意地悪だね」
「しても、返事なんてしてやらない。お前が困るだけだからな」
あかりの視界には、相変わらず見慣れたベンチ。
「最期まで、本当に意地悪すぎる……ばいばい、さようなら、悟」
「じゃあな、またどこかで、あかり」
そして悟は消えた。
「またって……何よ……」
あかりは、眩しい夕焼け空を見上げ、両手を広げた。そして瞳を閉じ、空気をおもい切り吸い込む。
「……大好きだよ」
悟に聞こえないよう、小さい声にしておいた。
ここは確かに、空だった。
エレベーターの先から続く階段。その先に鉄扉があり、埋め込まれた窓から差し込む白い光が、階段に埃の靄を照らしている。
見慣れていたはずの光景。しかしそこに、今までにはなかった影。
「……」
誰か、階段から降りてくる。しかし逆光で顔はよく見えない。シルエットから、ショートヘアの女性だと認識できた。
一歩一歩階段を下りるヒールの音。あと数歩のところまで近づいて、以前屋上で会話を交わした女性だと気付くことができた。
女性は前回と違い、真っ黒な喪服に身を包んでいた。女性はあかりに気が付き、にこりと微笑んだ。
「あかりちゃん」
お久しぶりね、と続けた女性は、あかりの横まで来て、下に戻ってしまったエレベーターを呼び戻すためボタンを押した。
「母親が亡くなってね、それで今日はここへ来たの」
女性はあかりの横に立ったまま、ぽつりとそう告げた。そして一瞬、ふわりとあかりを抱き締めた。
その腕の中は、泣きたくなるほど暖かかった。そして不思議と、懐かしい匂いがした。
「ちゃんと前見て歩きなさいよ」
女性はそれだけ言うと、到着したエレベーターに乗り込んで行ってしまった。
「……」
女性がいなくなった後、しばらく深呼吸をしてからあかりは階段を上った。そしていつもより重く感じる鉄扉を開けると、そこには懐かしくさえある橙と、塗装の剥げたベンチに座り、空を見上げる悟。
彼は人の気配に気付いて振り返り、それがあかりだと分かると片手を上げた。
「久しぶり」
「久しぶり」
お互いに短く会話を交わす。沈黙の後、あかりはおもむろに指輪を首から外し、悟の手に握らせた。
「なんで私が持ってるって、知ってたの」
体温を感じる悟の手を離さぬまま、あかりは尋ねた。悟は一瞬目を見開いたが、すぐに声を上げて笑った。
「芳江さんやお前のお袋さんが言ってたよ。お袋さんが最初に拾ったんだって話も」
その言葉に、今度はあかりが目を見開く番だった。
「二人とも、よくここに遊びに来てたからな。もっとも、お前のお袋さんは俺のお仲間だったがな」
そう言うと、悟はにやっと笑ってあかりの頬の、ちょうどえくぼの部分に指を突く。
「お前、特にこのえくぼが母親そっくりだからな、初めて会った時すぐにお前がそうだって分かった」
そして悟の手に指輪を握らせるあかりの手を、彼は逆に強く握った。
「最初はすぐに返してもらおうかと思ったけど、話しているうちに楽しくなってきたんだよな。明日にしよう、また今度にしよう、そうやって時間が過ぎていって、俺はもう少しだけ、あかりとの時間を楽しんでみようと思った。俺にとってあかりは、どんどん気になる存在になっていった」
悟の真剣な瞳に、あかりは耐えられなくなって目をそらした。
「止めてよ……」
そんな言葉をかけられたら、勘違いしてしまいたくなる。
「本当だ、あかり。時間の止まった俺は、ずっと愛子ちゃんのことを想っていることしかできないと思っていたんだ。でもな、死んでから出会った人間のことをこんなにも想うことができた」
勘違い、してしまいたくなるじゃないか。
「あかりには本当に感謝している。指輪はもう意味なんてないし、俺も……身体がないしな、だからお前が持っていれば良い……と、言いたいところだが」
悟は一度、言葉を切った。
『天使に返しなさい』
あかりは母の声を聞いた気がした。
「そんなことをして、お前まで縛り付けられる必要は、ないよな」
本来出会うことなどなかったはずの二人を引き合わせた、不思議な運命を運んでくれた指輪。
「この指輪はまたどこかで、不思議な縁を結んでくれるのかも知れないな」
悟の笑みにつられ、あかりも笑みが浮かんだ。
「……投げようか、ここから」
「おう」
あかりはチェーンの部分を外して手に指輪を握ると、その上から悟の大きな手が包む。そして二人はフェンスの手前まで並んで歩く。
「なんだか、結婚式のケーキ入刀みたい」
「またはブーケトスだな」
そして二人の手は、大きく後ろに振りかざされ、指輪は橙色の空に舞う。そして、気だるい喧騒の中に落ちて行った。
「はぁ……四十年って、案外長かったなあ……」
悟の声に、あかりは振り向いた。
彼は今、天に還っていく。
「でも、あかりに出会えて良かった」
そういうと、悟はそっとあかりを抱きしめた。
そこには悟の白いTシャツがあるはずなのに、あかりの瞳には向こう側のベンチがうっすらと見えていた。
消える─────。
「悟……私……悟のこと、っ……あのね、悟のことがっ……」
止まっていたはずの涙と一緒に、閉じ込めていた恋慕の情まで溢れ返りそうになった。『好き』と口にしかけたところで、悟の腕に力が入りあかりの言葉は途切れた。
「それ以上、言うなよ。俺とお前の時間はこれからずっと離れていく。でも、忘れるな」
その言葉を口にさせない、悟の優しさだった。あかりはそれを受け止めた上で、わざと拗ねた声を出した。
「告白もさせてくれないなんて、意地悪だね」
「しても、返事なんてしてやらない。お前が困るだけだからな」
あかりの視界には、相変わらず見慣れたベンチ。
「最期まで、本当に意地悪すぎる……ばいばい、さようなら、悟」
「じゃあな、またどこかで、あかり」
そして悟は消えた。
「またって……何よ……」
あかりは、眩しい夕焼け空を見上げ、両手を広げた。そして瞳を閉じ、空気をおもい切り吸い込む。
「……大好きだよ」
悟に聞こえないよう、小さい声にしておいた。
ここは確かに、空だった。