ここは確かに、空だった。
終章
あの夏から、四年が経った。
「里田さん、先休憩入って! 午後一人入院来るからよろしく!」
「はい!」
あかりは、二十一歳になり、芳江と悟を見送った病院に看護師として入職していた。
教育係となった西山に急かされて休憩に入る。
この仕事は思っていたよりもずっと忙しなく、あの時は心地良いと感じた空調に体中が汗ばんだ。
あの頃の西山は、今の自分よりももっと落ち着いていたし、仕事も出来ていたように感じる。
「あっつい……」
無人の休憩室に入ると、冷蔵庫から冷えたペットボトルを取りだし一口飲んだ。あかりは持参した弁当を急いでかき込んでから時計を見る。
今日は確かにばたついているが、休憩から戻るにはまだ早いだろう。
「会いに、行こうかな」
独り言を呟き、あかりは腰を上げる。
そして久しぶりに、あの重く軋む鉄扉を開けた。
「眩しい……」
あの時は、思えばいつも夕焼けだった。
今はもうすぐ午後になるであろう時間。太陽は真上に上り、目を閉じると瞼が赤く透けていた。
暫しの後、あかりは塗装の剥げたベンチの左側に腰をかけた。まるで誰かが座るかのように、右側は場所を空けていた。
「おばあちゃん」
あかりはそっと、芳江を呼んだ。
「お母さん」
ずっと見守ってくれていた、母を呼んだ。
「悟」
そして、一時を共に過ごした彼を呼んだ。
「みんな、会いに来たよ」
あかりの言葉に答えるかのように、風が吹き抜けた。皆に会えたような気がして、あかりは一人笑みを浮かべたが、空席のままの隣に目を向け、思わずこみ上げるものがあった。
突然、後ろから鉄扉が開けられる音が聞こえた。
「じーじ! 早く!」
一人だった屋上が、突如賑やかに感じられる子どもの声。あかりが振り向くと、まだ小学校に上がるか上がらないかの年の少年に続いて、初老の男性が鉄扉の向こうから現れたところだった。
振り向いた少年とあかりの瞳がぶつかった。
「お姉ちゃん、泣いているの?」
あかりに近づいてきた少年は、大きな瞳にあかりを映して首をかしげた。
「え? あ、大丈夫だよ」
あかりは慌てて涙を拭うと、不安そうな少年を安心させるかのように笑みを浮かべた。
少年は何かを考えるように瞬きをしたあと、おもむろにポケットの中を漁りだした。
「すみません、孫がご迷惑を……」
いつの間にか男性が側に来ていて、少年の挙動を見守りながら謝罪をした。少年を見つめる瞳はとても優しい。
「いえ、迷惑だなんてそんな」
あかりと男性が他愛ない話をしていると、少年はやっとポケットの中から目当てのものを見つだし、満面の笑みであかりに差し出した。
「はい、お姉ちゃんにこれ、あげる!」
差し出された手に乗っているのは、何の変哲もない指輪。
あかりは思わず目を見開く。
少年はいつも大切に持っているのか、それは手垢で汚れていた。何の確証もないが、あの時にここから投げたものと似ているような気がした。
「まったく本当に……すみません。ほら、もう良いだろう」
「えー! 今来たばっかりだもん!」
男性が少年を咎め、指輪をポケットに戻させると、少年は不満そうに頬を膨らませた。
「そんな、良いですよ。私ももう仕事に戻りますし……何か用事があって、ここに来たのではないですか?」
あかりは笑みを浮かべ、二人を引き留めた。仕事に戻る時間であるのも本当だ。あかりにつられたのか、男性も笑みを浮かべながら、少年の頭に手を置いた。
「いいや、特別用事があったわけではないんですよ。ただ昔、ここの病院に悪友が入っておりましてね、よくこの場所で空を眺めていました。その話をこの子にしたら、どうしてもと言って聞かなかったものですから」
再び一陣の風が吹いて、何故かふと、悟がベンチに座っているのが目の端に映ったような気がした。
あかりはまだ真新しいネームに取り付けた時計で時刻を確認すると、男性に礼を、少年に手を振って、屋上を後にした。
「お姉ちゃん、ばいばーい!」
鉄扉を閉じる前、もう一度だけ、あかりは後ろを振り返った。塗装の剥げたベンチに並んで座り、男性と少年は真昼の空を見上げていた。
あかりは笑みを深くし、一つ深呼吸をして仕事へと戻っていった。
【終】
「里田さん、先休憩入って! 午後一人入院来るからよろしく!」
「はい!」
あかりは、二十一歳になり、芳江と悟を見送った病院に看護師として入職していた。
教育係となった西山に急かされて休憩に入る。
この仕事は思っていたよりもずっと忙しなく、あの時は心地良いと感じた空調に体中が汗ばんだ。
あの頃の西山は、今の自分よりももっと落ち着いていたし、仕事も出来ていたように感じる。
「あっつい……」
無人の休憩室に入ると、冷蔵庫から冷えたペットボトルを取りだし一口飲んだ。あかりは持参した弁当を急いでかき込んでから時計を見る。
今日は確かにばたついているが、休憩から戻るにはまだ早いだろう。
「会いに、行こうかな」
独り言を呟き、あかりは腰を上げる。
そして久しぶりに、あの重く軋む鉄扉を開けた。
「眩しい……」
あの時は、思えばいつも夕焼けだった。
今はもうすぐ午後になるであろう時間。太陽は真上に上り、目を閉じると瞼が赤く透けていた。
暫しの後、あかりは塗装の剥げたベンチの左側に腰をかけた。まるで誰かが座るかのように、右側は場所を空けていた。
「おばあちゃん」
あかりはそっと、芳江を呼んだ。
「お母さん」
ずっと見守ってくれていた、母を呼んだ。
「悟」
そして、一時を共に過ごした彼を呼んだ。
「みんな、会いに来たよ」
あかりの言葉に答えるかのように、風が吹き抜けた。皆に会えたような気がして、あかりは一人笑みを浮かべたが、空席のままの隣に目を向け、思わずこみ上げるものがあった。
突然、後ろから鉄扉が開けられる音が聞こえた。
「じーじ! 早く!」
一人だった屋上が、突如賑やかに感じられる子どもの声。あかりが振り向くと、まだ小学校に上がるか上がらないかの年の少年に続いて、初老の男性が鉄扉の向こうから現れたところだった。
振り向いた少年とあかりの瞳がぶつかった。
「お姉ちゃん、泣いているの?」
あかりに近づいてきた少年は、大きな瞳にあかりを映して首をかしげた。
「え? あ、大丈夫だよ」
あかりは慌てて涙を拭うと、不安そうな少年を安心させるかのように笑みを浮かべた。
少年は何かを考えるように瞬きをしたあと、おもむろにポケットの中を漁りだした。
「すみません、孫がご迷惑を……」
いつの間にか男性が側に来ていて、少年の挙動を見守りながら謝罪をした。少年を見つめる瞳はとても優しい。
「いえ、迷惑だなんてそんな」
あかりと男性が他愛ない話をしていると、少年はやっとポケットの中から目当てのものを見つだし、満面の笑みであかりに差し出した。
「はい、お姉ちゃんにこれ、あげる!」
差し出された手に乗っているのは、何の変哲もない指輪。
あかりは思わず目を見開く。
少年はいつも大切に持っているのか、それは手垢で汚れていた。何の確証もないが、あの時にここから投げたものと似ているような気がした。
「まったく本当に……すみません。ほら、もう良いだろう」
「えー! 今来たばっかりだもん!」
男性が少年を咎め、指輪をポケットに戻させると、少年は不満そうに頬を膨らませた。
「そんな、良いですよ。私ももう仕事に戻りますし……何か用事があって、ここに来たのではないですか?」
あかりは笑みを浮かべ、二人を引き留めた。仕事に戻る時間であるのも本当だ。あかりにつられたのか、男性も笑みを浮かべながら、少年の頭に手を置いた。
「いいや、特別用事があったわけではないんですよ。ただ昔、ここの病院に悪友が入っておりましてね、よくこの場所で空を眺めていました。その話をこの子にしたら、どうしてもと言って聞かなかったものですから」
再び一陣の風が吹いて、何故かふと、悟がベンチに座っているのが目の端に映ったような気がした。
あかりはまだ真新しいネームに取り付けた時計で時刻を確認すると、男性に礼を、少年に手を振って、屋上を後にした。
「お姉ちゃん、ばいばーい!」
鉄扉を閉じる前、もう一度だけ、あかりは後ろを振り返った。塗装の剥げたベンチに並んで座り、男性と少年は真昼の空を見上げていた。
あかりは笑みを深くし、一つ深呼吸をして仕事へと戻っていった。
【終】