ここは確かに、空だった。
第一章
夏とは言っても、晴天を眺めたところで清々しさなど微塵もなく、じんわりと体中が汗ばんでいる。

まとわりつく熱が鬱陶しい。

数歩先の空気は、すでに陽炎が揺らいで見えるような猛暑日である。ここまでの道のりでは、化粧崩れを気にしながら何度か鏡を覗き込んだ。

蝉の声が鬱陶しい。

見えるもの全てが眩しく目に痛くて、無意識にも眉間にしわを寄せながら歩みを進めた。こんなことならサングラスも持ってくればよかったと後悔しても後の祭りだ。

鬱陶しい、鬱陶しい、鬱陶しい。





里田あかりはイライラしながらも足を動かし続け、苦労した甲斐あってようやく目当ての建物へと入ることができた。

正面玄関と書かれた看板の下に自動ドア。毎回反応が悪くて二、三秒立ち止まらないと開いてくれない。




さすがに病院の中は快適な温度で保たれている。節電が叫ばれるこの世の中、病院スタッフはさぞかしのほほんと業務に勤しんでいることであろう。年中半袖のユニフォームで働いているのだから羨ましいことだ。

エントランスからすぐ外来の受付窓口があり、案内や会計を待つ人々がソファを埋めている。彼らはきっと何十分、何時間と待たされているはずであるのに、受付事務員の余裕をかました作り笑顔が小憎たらしい。

あかりはそれらを横目に通りすぎると、財布から小銭を出してペットボトルの緑茶を購入した。それから空き気味の、受付から遠いソファに腰をかけた。

ペットボトルは、今のあかりよりも汗をかいている。

数口の緑茶が喉を通って胃に落ちていくと、内側からもひんやりとした感覚が身体中に広がり火照った熱を冷ましていく。頭がやけに涼しく感じるのは、きっと汗が冷やされたからだ。

涼を得たところで辺りを見回す。

同じ空間だと言うのに、少し人混みを外れただけで心持ちもいくらか穏やかになる。

大きな硝子張りの窓は採光も良く、夏特優の眩しく白紫がかった日差しが十分すぎるほど差し込んでいる。屋外では強烈すぎるそれも、窓一つ介すだけで目に痛いことはなくむしろ心地良い。空調が効いているためいくらでも日向ぼっこ出来そうだが、ぼんやりしていると眠ってしまいそうだとあかりは思った。

「そろそろ大丈夫かな」

スマホで時間を確認すると、デジタルで11:55と表記されていた。

病棟の面会時間である十二時まであと五分、ここから病棟へ上がることを考えれば良い頃合いだ。

あかりはペットボトルのふたを閉め、ハンカチでボトルをくるんでからバッグの隅にそれを差し込んだ。ゆっくりと立ち上がり、歩きだす。

気を付けてはいても、やはりヒールが床を叩くカツカツという音が少々耳触りである。あかり自身でもそう思うのだから、周りからはおそらく顰蹙ものだろう。これでも一番静かに歩ける靴を選んできたつもりなのだから仕方がない。

おかげでいつもの速度よりずいぶんゆっくりとエレベーターホールまで歩くと、上ボタンを押してからたった二つしかないエレベーターの到着を待つ。

ほどなくして軽やかで古めかしいベルの音と共に一台のエレベーターが到着した。扉が開き、ベッドのままでも乗り込めるように作られた奥行きの広い箱へと入る。こんなに広いが、中にはあかり一人だ。

壁に取り付けられた鏡に目を向け、本日何度目かの化粧崩れの確認をし、まぶたの下にじんわりにじんだマスカラを、綺麗に装飾した爪の先で削り取るようにして直す。

自分は特別、華美なわけではないと思う。

髪は高校の校則に引っ掛からない程度の茶色だし、化粧だってどちらかと言えば薄い方だ。

かといって元の顔立ちが秀麗かと言われればそうでもなく、そこにはどこにでもいる普通の女子高生が、没個性化した服装とメイクに身を包んでつまらなそうな顔で佇んでいた。

高校生活最後の夏休みもすぐそこまで来ているというのに、冷めた目をしているな、と自分でも思う。

唯一、輝いて見えるものは胸元に下げたペンダントだった。鎖骨辺りに揺れるペンダントトップには、シンプルなシルバーリングが下げられている。おぼろげながら、この指輪を初めて手にした時の跳ねるような気持ちを今でも覚えているように思う。


『これは天使が落とした指輪だから、天使に返すまでは大切にしていなさい』


 生前の母に言われたのは、確かこのような内容であった気がする。

あかりにとって、まだ死という概念が良く分からないような幼い歳のころであったが、それでも母親がどこか遠くに行ってしまうような気がしたのは確かだ。


それは夏の暑い日のことだった─────。


また軽やかな音がして、エレベーターが扉を開く。

あかりは入院している祖母がいる病棟へと足を向けた。ステーションに向かって軽く会釈をしながら病室へ向かう。

数人の看護師がこちらに気づいて、ながら作業的に会釈を返してくる。昼分の患者の薬を確認している看護師達はこちらに振り向きもせずもくもくと作業し、パソコンに向かって何かを打ちこんでいる看護師も顔を上げない。

廊下に貼られたポスターには『ぬくもりのある看護』という標語が書かれている。

「……」

対して気にも留めず、あかりは割合にステーションに近い病室の扉を開けた。

 すん、と鼻を突く消毒の臭いが一際強まったように感じた。

四人部屋のそれぞれのベッドはぐるりとカーテンが敷かれ、中を垣間見ることはできない。物音もせず、カーテンの中の人物が寝ているのか起きているのかさえ分からない。

そして強い消毒の臭いをかいくぐって、何やら饐えたような臭いが時々鼻に届く。一瞬足を止めたが、いつものことだと思い直して歩みを進め、右奥にある窓際のカーテンをちらりとめくった。

「おばあちゃん、来たよ」

小声で声をかける。うとうとしていたのか、はっとしたように細い目を開けて笑った小柄な老婆。

あかりの祖母だ。

少なくともあの饐えた臭いの発信源はここではないと確認できたことにあかりは安堵する。

「んん……今日も来てくれたのかい」

祖母が身じろぎすると、元気な頃から使用していた柔軟剤の柔らかい匂いがふわりと香っていた。

唯一の肉親となったあかりが、今では祖母の代わりに洗濯物も洗っていた。この匂いを変えたくなくて、ずっと同じものを使い続けているの秘密だ。

「あかり、いつもありがとうねえ」

あかりと祖母、芳江の会話はいつもそこから始まる。

そして芳江はおもむろにやせ細った腕をあかりに伸ばすと、かさかさとした両掌であかりの頬をぎゅっと挟むのだ。

化粧をし出してからはこれをされるとファンデーションが落ちる気がして遠慮願いたいのだが、幼い頃からの習慣のせいで心地良くも感じ、そして改めて芳江のぬくもりに心がそわそわとするのだ。

自分はどんどん成長していって、高校に入学し化粧も覚え、大人へとなっていく。徐々に、社会の目は厳しくなり、自分はもう子どもではないのだと認識させられていく。逃げたくても逃げられない階段が目の前にあり、登り続けなければやがて足元から消えてなくなっていく。

そんな中、芳江はあかりにとって幼い頃から母親代わりであり、相変わらずあかりを子ども扱いしてくれる人物だ。子ども扱い、と言うと表現がいまいちであるが、それでもあかりにとって、いつまでも子どもでいさせてくれる唯一無二の居場所が芳江なのだ。

「おばあちゃん、今日、外すごく暑いよー」

梅雨の時期にはじとじとした空気が鬱陶しかったというのに、夏が到来してみれば今度は暑苦しさが鬱陶しい。

きしむパイプ椅子に腰かけると、日陰に置かれていたせいか金属部分がひんやりとして心地良かった。

夏らしいオフホワイトのスカートの端を直しながら、あかりは再びペットボトルをバッグから取り出し一口流し込む。

巻き付けてあったハンカチはすでにしっとりと濡れていた。

「否応なしに変わっていくものだよ、自然ってのは。動物も植物もみーんなそれに何の疑問も持たない。変わっていくものに適応していくっていうのにねぇ、人間はわがままなもんだよ」

芳江の小言じみた返答に、あかりは些かむっとした表情を返す。

「だって、暑いと汗かくんだもん。まあ寒いのもやだけど……あ、秋はなんか寂しいからやだし、春は花粉症だし……」

 そう言って考え出すあかりに、芳江は喉を鳴らして笑った。以前のように大きな声を上げて笑うことは出来なくなってしまった芳江に、変わっていくものに適応していくのは難しい、と小さく返す。

「それもまた、人間らしくって良いじゃないの。人間は変わっていくものに適応できないから、代わりに周りを自分達に合わせちまおうと色々発明したんだからねえ。まあ、便利な世の中になったもんだよ」

しわが寄って細くなった目をさらに細めて笑う芳江。「昔はね……」と話が始まるとしばらくの間続くのがお決まりだった。

ふーん、とあかりは受け流すふりをして、芳江の言葉を心に留めた。芳江の言葉は古臭かったが、それは何となくあかりの思考にしっくりくるものがあって、人知れず心に印象付けておくことはいつの間にか習慣化していた。








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