ここは確かに、空だった。
第四章
それからの一週間程、あかりは自宅でただぼんやりと過ごしていた。毎日足繁く通っていたのが嘘のように、病院へ行かなくなった。

祖母と二人きりで暮らしていた家の、祖母といつも過ごしていた居間。

薄黄色く色褪せた畳の柔らかな匂いが好きだった。

(ああ……おばあちゃんの着替え、持っていかなきゃ……)

思いつきはするものの、どうしても身体が動かない。締め切った厚手のカーテンからは一筋に白い光が差し込んでいて、今が昼間なのだと分かった。

あかりはこたつに潜り込み、芋虫のように丸くなる。畳の匂いにまじって、祖母の優しい匂いがあかりを包む。

『大丈夫だよ』と、まるで励ましてくるようだった。その感覚に、あかりは瞳を閉じる。








まだ母が亡くなって間もなくの頃、あかりは家出をしたことがあった。

『おばあちゃんなんてやだ! 何でうちにはお母さんがいないの!?』

授業参観の日、朝から浮き足立って洋服を見繕う祖母に、あかりはそう言って怒った。周りは若くて綺麗な母親が来るのに、自分だけヨボヨボの祖母が来るのが恥ずかしいと思ったのだ。

『ごめんねあかりちゃん。ごめんよ』

祖母はそう言って何度も何度もあかりに謝っていた。怒られるでもなく謝られたことに、堪らなく罪悪感を刺激された。それでも『私が悪いわけじゃない』、そう思い込みたくて、あかりは家を飛び出した。

『あかり!!』

当時既に齢六十を超えていた祖母は、あかりの足に追いつくことができなかった。あかりは闇雲に走り、祖母が追ってこないところまで足を止めなかった。

もうこのまま家には帰らない。子どもながらに、そのくらい強い覚悟だった。

しかし半日も経たないうちに空腹感に耐えられなくなり、世の中で生きていくためには金がなければいけないのだと悟った。そこから数時間は耐えてみたものの、それ以上どうしようもなくなってあかりは家に帰った。

『え……』

家に帰ると、祖母の家の前にパトカーが一台停まっていた。何かあったのかと他人事のように思いながら自宅玄関の引き戸を開ける。

『あかり! どこに行っていたんだい!』

引き戸を開けるガラガラとした音で、祖母が飛び出してきた。後ろから警察官の男も二人出てくる。

ああ、自分がいなくなったから警察に通報したのか。そこでようやく合点がいった。

『心配したじゃないか……本当に……ああ、良かったよ、無事に帰ってきてくれて』

祖母は怒るでもなく、そう言ってあかりを抱き締めた。

祖母の着ていた服は、いつもの柔軟剤の良い匂いではなくて、年寄り独特の押入れ臭いような匂いだった。

その時は理由が分からなかったが、今思えば普段あまり見かけない服を着ていたから、きっと授業参観のために一張羅を出してきたのだろうと分かる。

『こら、おばあちゃん困らせたら駄目だろう』

警察官のうち一人が、そう言って少しだけ怖い声を出した。

『ごめん、なさい……』

警察官が怖かったのもあるが、それよりも祖母に悪いことをしたと思って素直に謝罪が口をついた。

『良いんだよ、無事ここに帰ってきてくれたんだから……。お願いだからもう、あの娘みたいにあたしのこと置いていかないでおくれよ……』











(ああ、そうか……おばあちゃんは、娘に先立たれちゃったのか……)

自分の子どもに先立たれるというのがどれほどのことなのか、高校生になった今のあかりにもまだ明確には分からない。

それでも子どもに先立たれた親が後を追うとか、親より先に行くのは親不孝だとかの一般論はよく聞くから、それくらい大変なことなのだろう。

祖母の人生に思いを馳せれば、祖母もずっと、誰かを見送る人生を送ってきたのだ。

両親を見送り、夫を見送り、そして娘も見送った。祖母の歳を考えれば友人や知人も何人か逝っただろう。

そのたびに祖母は、どんな思いでその喪失感に耐えたのだろうか。




『今度はやっと……あたしの番かねぇ……』



心の中の祖母がそう言って、ほっとしたように笑った気がした。




ピリリリリ────。


不意に、あかりのスマホがけたたましい着信音を鳴らした。時刻など関係なくまどろみかけていた脳が急速に覚醒し、あかりは目を数度瞬かせたあとスマホに視線を移した。

ディスプレイに表示されていたのは、見慣れた病院名。

胸がざわつく。

「もしもし……」

この一週間誰とも会話することなく、久しぶりに発した言葉は喉が痛んで枯れていた。

「里田さん、総合病院の西山ですが――――……」






 芳江が、死ぬ。







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