ダメな自分を変えたくて、私がした『おいしいパスタの法則』
いつかもらった試供品
私の好きな人には彼女がいる。
ただそれだけと言ってしまえばそれだけのことだ。
自分がされて嫌なことは人にしてはいけない。
他の人の恋人に手を出してはいけない。
そうはいうけれど恋人なんて所詮口約束でしかない。
まぁそれが結婚となると話は別になるんだろうけど、口約束だけの恋人関係なんて信頼関係の上にしかないものだから、私の好きな人は信頼するに値しないってこと。
ただそれだけ。
所詮それだけのことなんだ。
『——美咲《みさき》が好きだよ』
薄暗い部屋のベッドの上で男が私の名前を呼ぶ。
私は口角を上げ少し目を細めた。
男は私の顔を見て満足そうにフフッと笑った。
この言葉にだって多分深い意味はない。
今この瞬間だけはそう思うような気がするってだけだ。
『明日の美咲の誕生日なんだけど予定あるから祝うの来週とかにズラしてもいい?』
男はシャツを着ながら、あたかも申し訳なさそうに言った。
『いいよ、無理して祝わなくても別に。学生じゃないんだし今年でうちら24歳だよ? もう喜べないよ年取るの』
誕生日を祝ってもらうのが無理そうなのは知ってた。
この男の部屋のカレンダーには赤いペンで彼女の字で私の誕生日の日に三年記念日と書かれているのを先月の終わりにカレンダーをめくった時から気付いていたから。
これ以上歳は取りたくないなっていうのも本音ではあるけれど
自分の誕生日を選んでくれないところが私はニ番目なんだなって思い知らされる。
『亮太《りょうた》? 私明日も仕事早いからそろそろ帰るね』
男は私に背を向けながらスマホを操作して『うん』と返事をした。
テーブルの上に私のヘアゴムが置きっぱなしになっていることに気づき私はそれをバックにしまって部屋を出た。
深夜0時を過ぎた人気のない夜道を私は一人歩く。
こんな真夜中の時間なのに外はまだジメジメと蒸し暑く足取りも重くなる。
『そういえば今日何も食べていないや……』私は一人呟く。
朝は会社に行く準備で食べそびれて昼近くに少しお腹が空いた感じがしたのだけれど
いざ昼になるとその空腹感も感じなくなっていて会社の自販機でお茶のペットボトルを買ったっきり。
今も今でそんなにお腹も空いてはいないけれど
何かお腹に入れないと多分眠る時に気持ちが悪くなるから仕方なしに私は帰る前にコンビニへと立ち寄った。
入り口の自動ドアが私に反応してチャイムと同時に開く。
なぜか私はいつも自動ドアが自分に反応することで自分が今ちゃんと生きているんだなぁって実感したりする。
まぁ当たり前のことではあるんだけど、時々自分は他の人から見えていないんじゃないか。って変な感覚になってしまう事があるから今日も自分の体でしっかりと生きているんだなって感じたりする。
私は店の中へ入るといつものように店員さんがいるレジの横は通らず雑誌の置いてある窓側に沿って遠回りをして目的のお弁当の置いてあるところへ向かう。
代わり映えのしない店の商品を眺める私。
社会人になり一人暮らしを始めたばかりの頃よくしていた自炊も今ではしなくなった。
今ではコンビニの弁当を見ているだけでその味が簡単に想像できてしまうほど食べ慣れてしまったりしている。
悩んでいるのは何を食べたいかを選んでいるわけではなくて
いわゆる消去方で。何なら食べられるか除外しながら選んでゆく。
私は心の中でうーん。と悩みながら弁当の置いてある場所から離れて隣の棚にあるゼリーを2つ手に取った。
2つは食べる気はないけれどこんな時間に会社帰りのスーツ姿で一人分のゼリーを買っていたらいかにも寂しそうな奴に見えてしまうから私なりの精一杯の抵抗だ。
まぁ店員さんに寂しそうって思われたところで何もないのだけれど会計の時のその一瞬だけでもすこし私なりによく取り繕いたくてついしてしまう。
『これ美味しいですよね』
レジにゼリーを出して財布をバックから出そうとしていた時に思いがけず若い女の店員さんに話しかけられて私は目を丸くした。
『私も好きですこのゼリー』
大学生のようなその若い女の店員さんはバーコードを読み取りながら私を見て笑顔でそう言った。
私は目を細め顔を緩ませて軽く会釈した。
私はこのゼリーを好きで買っているわけじゃない。
食欲がなくこれくらいしか喉を通る気がしないからだ。
けれどそんなことよりも私は若い女の店員さんを見て
なんて清々しい笑顔だろう。 そう思った。
まだ少し幼さが残るその笑った顔は周りを明るく灯すような
そんな眩しさを感じさせた。
世間ではきっとこういう女性を愛嬌がある女性というのだろう。
そしてきっと私にはそれが欠けてる。
もっと可愛く生きる事ができれば今私はこんな時間に一人で食べたくもない夕食を買っている事もないだろう。
私は真顔に戻りレジ袋に入ったゼリーを彼女から受け取って店を出た。
家に着くといつものようにバックのサイドポケットの中から鍵を取り出し、それを鍵穴へ差し込み軽く時計回りに回した。
ドアを開けると玄関に荷物を置いて、ソファーにスーツの上着を置いた。
そのまま真っ暗な部屋の中を電気もつけずに奥のベッドに向かった。
そして紐が切れた人形のようにベッドに倒れ込んだ。
私の部屋にはテレビがない。
見終わった後に……で?って思うものばかりだからだ。
そして他の人の笑い声がとても不快に感じるから。
自分は少し変わり者。いや、少数派の人間かもしれないけれど赤の他人に変わってるねって言われるのもとても嫌だ。
私からしてみればその多数派が変わり者のように見えているから他人の思考や思想でその当たり前を作られるのも嫌だ。
同じような理由でSNSの類なども全くと言っていいほど見たりしない。
他の人の充実したある日を切り取ったそれを見ても
だから何なんだろう。
それを見た他の人にこの人はなんて言って欲しいんだろうが先にきてしまう。
くだる。くだらないが理由ではないんだ。
問題はそれよりも先にあるそれが一体なんなのだろうになってしまう。
これを同僚に話した時に
『鳴海《なるみ》さんって冷めてますね?』と言われた。
……これは冷めているんだろうか。
私から言わせてみればその自分を見てほしい行為、それに群がる人たちの方がよっぽど冷めているように感じる。
私はベッドの横にある棚の上のライターでガラスに入ったアロマキャンドルの先の芯に火を灯した。
揺れる火が真っ暗い部屋の中を灯す。
この瞬間が一番落ち着く。
なにやらわからない他人の日記を見てるよりも断然こっちの方がいい。
火を見ていると無心になれる。
何も考えずにいられる。
キャンドルに灯る優しい火の揺れを見ながら私は眠りについた。
このまま朝なんて来なければいい。
二度と目を覚さなければ楽なのに。
朝になると私はいつものように会社に行く準備をする。
会社へは自宅の近くのバス停でバスに乗って向かう。
バスの中でいつも私は真ん中より少し後ろの窓側の席へ座る。
あまり後ろの席に座ると降りる時に大変だし、だからといって前の方へ座ると運転席のバックミラー越しに運転手と目が合うような感じがして落ち着かないからだ。
私は反対側の席に座る何やら参考書を見ている学生の方に目をやる。
勉強か……今では懐かしい。
小さい頃から数学は得意だった。
計算すればしっかり答えが出るから。
暗記だけの問題をただひたすらにインプットとアウトプットを繰り返して頭に入れていく作業。
ただ国語だけは苦手だった。
作者の思いとは、この時の登場人物の気持ちとは。
作者の思いなんて本人にしかわからない事で私がこう感じると思ってもそれは私自身の想像でしかなくて真相はわからない。
感動的な話を誰かを思いながら書いたのかもしれないし、あるいは誰かを憎みながら書いたのかもしれない。
実際のところ本人にしかわからないんだ。
公式を当てはめて計算しようとしても人の心の中は解けない。
複雑に見えて本当はものすごく単純なものなのかもしれないし、けれど昨日とはまるで違うことを言っていたりする空模様のようなものだから面倒だ。
機械的な音声で車内に駅前へと到着を告げるアナウンスが流れ私は立ち上がりバスを降りた。
私の働く職場は駅前から徒歩5分程度先にある高いビルの中にある。
ここでの私の業務はネットバンクのシステム開発。
顧客の預金や融資などのシステムの設計や品質の改善。
言葉だけ聞けば今時の華やかそうに感じる職場だが
実際のところはミスは許されない長時間労働のストレス社会の根源のような会社だ。
オフィスの入り口には火災防止の大きいポスターが貼られている。
そのポスターに満面の笑みで写る一人の女性が毎朝目に入る。
まぁ大きいポスターだからっていうのもあるけれど
それだけではなくなんというかこのポスターの女性の純粋無垢な笑顔に見惚れてしまう。
このポスターの女性は私の住んでいる地域のプロの女子バスケットチームに所属する、ある女性らしい。
バスケットが好きな同僚によるとこの女性は高校2年の終わり頃に突如として全国大会に頭角を表し初出場で数々の賞やタイトルを総ナメにしたらしい。
彼女の愛らしい笑顔とは裏腹に鋭いプレイスタイルは多くの人を魅了した。
その華奢に見える小柄な体で海外の長身の選手を素早いドリブルで置き去りにするその姿はまるで自分より大きい獲物を狙う小動物のようにも見えた。
この女性は多分悩みなんて何もないんだろう。
きっと小さい頃から幸せな家庭に育ち何も不自由なく生活しまるで物語のお姫様のような人生を歩んでいる事だろう。
自分の好きな事を仕事にできる人なんて一体全人口の何%いるだろう。
百人に一人? もっと少ないだろうか。
私は残りの九十九人側の人間だろう。
だから私はこのポスターの女性を見ていると毎朝自分がとても惨めに見えてしまう。
けれど毎朝日課になったこの女性の笑顔を見られなくなってしまったらそれもそれで寂しさを感じてしまいそうだ。
『鳴海さん、おはよう』
そう私に話しかけてくる女性は愛沢《あいざわ》 さなえ。私と入社が同期で仲がいいわけではないが会社ではよく話す。
愛沢さんは赤みがかった髪が特徴的な私とは正反対の愛嬌のある明るい女性だ。
その人懐っこい性格からかうちの会社の男の上司達にも人気があり、廊下でよく綺麗な髪をしているね。だとかネイルが綺麗だね。だとか取ってつけたような褒め言葉に
満更でもない顔で髪をかき上げながら『そうですか?』と笑ってエクボを男に見せつけるようなその仕草も性格も私はとても嫌いだ。
つけ過ぎている香水もみんなは良い香りがすると言っているが私はその強烈な人工的な匂いに吐き気を覚えるほどだ。
『愛沢さん、おはようございます』
そう言って私は通り過ぎようとする。
『明日の会議の資料作るの良ければ手伝って欲しくって……』愛沢は甘えるような猫撫で声で私にそう言った。
まだ明日の会議の資料が出来ていない……
この女にまず、有り得ないと言いたい。
何週間も前から会議の事は決まっていてお偉いさん方が出席する明日の大切な会議の資料がまだ出来ていないなんて考えられない。
もう出来上がっていて人数分印刷まで終えているのが普通だが?
一体何をしに会社に来ているんだろうか。
そしてそれを許す上司も上司だ。 若い女性に弱いおじさま共に伝えたい。 私の代わりにこの女を怒鳴り散らしてくれ。頼む。
私は顔が引きつるのに耐えて精一杯に顔を緩ませながら愛沢に聞き返す。
『愛沢さん、資料ってどこまで終わってるのかな?』
愛沢は少し目線を上げて何やら考えるような素振りをしながら何も悪びれる様子もなく
『まだ手をつけ始めたばかりで……』と言った。
『……はぁ?』
さすがの私も眉間にシワが寄った。
ポンッ!
後ろから何やら軽い紙を丸めたようなもので軽く叩かれた感触がして振り返る私。
『鳴海と愛沢さん、おっはよう!』
朝から無駄に爽やかなスーツ姿のこの男性は岡田 圭《おかだ けい》私と愛沢が所属するシステム開発部の何歳か上の私たちの上司。
私だけ呼び捨てなのはこの岡田さんは私が入社した時の教育係だった。
軽そうな容姿とは裏腹に仕事は出来る、うちの会社で三本の指に入るほど優秀な先輩だ。
上の役員からの信頼は厚く社内でも次期係長は岡田先輩ではないかと噂されている。
そしてとにかくスパルタだ。 大きい声を出したり怒ったりだとかそういう事はないが落ち着いた口調でズバズバとミスを指摘してくる違う意味で怖い先輩だ。
多分、愛沢が岡田先輩の下に付いていたら三日でこの会社を辞めるだろう。
けれどなんというかこの人は入社した頃から観察眼が鋭い感じがしていた。
その人が出来る範囲のことをさせる、その人の能力以上の事は求めない人だ。
何かを察すると途端に身を引き仕事の話をしなくなる。
私はこの人から仕事の話をされなくなってしまったら終わりだなと思っていた。
『愛沢さん、髪の色変えた?』岡田先輩は笑ってそういった。
『よく気付きましたね。気付いてくれたの圭さんが初めてですー』愛沢は自分の両頬を押さえながらそう言った。
そして、先輩は私の表情を見て『なんかあった?』と首を傾げた。
私は『いえ』と首を振ってその場を去る。
突如として私に最大の悩みが出来た。
明日の会議の資料どうしよう。
今日うちに帰れるかな……
はぁ……最悪の誕生日だ。
就業時間が終わると愛沢は会議の資料を私のデスクまで持ってきて私は呆れた顔をしながらそれを受け取る。
『私、明日の会議までに仕上げておくから愛沢さんは帰って良いよ』私は皮肉たっぷりにそう言った。
だが愛沢さんはその皮肉にも気づかず両手を顔の前で合わせて
『鳴海さん助かる。お願いします』と可愛らしくそう言った。
そして何も悪びれる様子もなく他の人たちに『お疲れ様です』と言いながらオフィスを出て行った。
私はその後ろ姿を見ながら大きなため息をついた。
『さて、やりますかー』私は両手を大きく広げて伸びをしながら呟いた。
私は資料の紙を開いて愕然とする。
何これ……半分もできてない。 所々日本語も間違っているし。
あいつ……
私はため息をつきながらパソコンでファイルを開いて早速資料作りに取り掛かる。
ふと窓の外を見るともう空は真っ暗になっていた。
オフィスの時計を見ると21時を回っていることに気付く。
集中していてオフィスがもう私一人になっていることにも気づかなかった。
『少し休憩しよう』そう言って私は椅子から立ち上がりオフィスを出て休憩室の近くの自動販売機に向かった。
変わり映えのしない自動販売機の飲み物を見てまた悩み始める私。
喉は乾いているのに何も飲みたいものがないってどういう心理なのだろう。
私は小銭を入れてランプのつく自販機の前に立ち尽くす。
私はきっと脱水症状を起こして命の危機を感じるその瞬間にも私は悩む事だろう。
そして自分は一体何を欲しているのかもわからずそのまま倒れてしまうかもしれない。
まぁそれも良いのかもしれない。
そんな事を思ってしまう私はきっとどうかしている。
生きる気力がないから食欲が湧かないのか、それとも食欲がないから気力すらもなくなってしまうのか。
『——栄養ドリンク一択でしょ』
そう言って私の背後から長い腕が伸びてきて栄養ドリンクのボタンが押されて
ガランッ!と音を立てて飲み物が取り出し口に出てくる音がする。
聴き慣れたその声に私は振り返りもせずにため息をついた。
『こんな時間に栄養ドリンクなんて仕事終わらなそうなの?』
『先輩が押したんじゃないですか……』と私は取り出し口に手を伸ばし栄養ドリンクを取ってそう言った。
『こんな時間まで鳴海が残業してるなんて珍しいじゃん。休み時間も取らないで就業時間ギリギリまで働いてるようなヤツがさ』
『明日の会議の資料作ってるんです』私は栄養ドリンクを飲みながら答える。
先輩は『明日の会議の資料って……』と目を丸くして驚いた。
『じゃあ、お疲れ様です』と私は栄養ドリンクを飲み干し先輩に頭を軽く下げオフィスの方へと向かった。
オフィスに戻り自分のデスクへ着くと私は誰もいない静かなオフィスで『ヨシッ』と自分に気合いを入れて先程の続きに取り掛かる。
『どこまで終わってるの明日の資料?』
急に真横から声が聞こえて私驚き声を出しそうになる。
『七、八割は終わってると思いますが……まだ文字打ち込んでいるだけなので確認終わってないです……印刷もしようと思ってます』
先輩は『そっか』と言ってデスクのマウスを握って画面をスクロールしながら内容を確認しているようだった。
『さっき可愛い後輩に栄養ドリンク奢ってくれたお礼に手伝うよ』と先輩は笑って私の顔を見つめた。
あまりの顔の近さに私は少し緊張しながら下を向いて会釈した。
先輩は慣れた手つきでキーボードで文字を打ち込みながら
『全体的にグラフが少ない感じがするなぁ……これじゃ伝わりづらい』と言いながらうーん。とデスクに肘を乗せて頬杖をついた。
そして思いついたように他のファイルのデータを見ながら数字を打ち込んでササっとグラフを作っていく。
こうして隣で先輩の仕事を見ているとなんというかこの人の凄さがひしひしと伝わってくる。
頭の回転が早い。まぁ単純にそれもあるが物事を一方向からだけではなく客観的に色々な角度から見ることの出来る人だ。
この会社で働き始めてまだそんなに経っていない私でも分かる。
役員が先輩を頼りにする気持ちがわかる。
この人は口も達者だがそれに引けを劣らない行動力がある。
『すごいなぁ……』と私は画面を見つめながら呟く。
画面を見ながら先輩は『うん?』と首を傾げる。
『私が何時間もかかるようなこと先輩は息をするようにパパっと短時間で仕上げてしまうので……』
『んー、まぁ人それぞれ得手不得手《えてふえて》があるからなぁ。俺は単純作業が得意ってだけで』と画面を見つめながらそう言った。
『単純作業だなんてそんな……いつも尊敬しています。
私の得意な事かぁ……』
『鳴海は頑張り過ぎるところじゃないか? まぁ良い意味でも悪い意味でもさ。 無理はしないで欲しいけど先輩の俺としては鼻が高いよ。デキる後輩がいてくれるのはさ』
それから少し経つと先輩は『コピー機の印刷紙の予備あるか確認してきて。かなりの枚数使うだろうから』と言った。
私は『はい』と頷きオフィスを出て物品庫へ向かった。
物品庫《ぶっぴんこ》とは会社でよく使う備品を保管している場所でコピー機の用紙からホワイトボードで使う水性のマジックからボールペンまで置いてある。
ちなみに物品庫から物を持って行くときは必ず入り口のバインダーに付いている用紙に必ず記入する決まりがある。
一人で無駄に何個も持って行ったりだとかそういった無駄や盗難を防ぐ為だ。
そしてここには監視カメラがばっちりついていて24時間体制で記録されている。
入るだけで少し私はいつも緊張してしまう。
悪いことをするつもりはないが私は安全ですよと言わんとばかりにカメラにしっかりA 4用紙を1束取った事が映るように取り、そしてしっかりとバインダーにコピー機の紙を1束持っていったことを記入した。
少し小走りでオフィスに戻ると先輩は資料を作り終えデスクとは反対方向にあるコピー機の前で印刷される用紙を眺めていた。
『物品庫から用紙持ってきました』そう言って私はハサミで用紙の入った少し厚い包装紙の端を切って中身を取り出し
それをコピー機の用紙入れの中に供給した。
『ありがと』先輩は一言そう言って左手を少し伸ばし時計を見る。
『もう十時過ぎてるのか……印刷終わったらすぐ帰ろ』と先輩私の方を見て頷いて見せた。
『でも先輩が手伝ってくれていなかったら多分まだ終わっていなかったので助かりました』
『……てか、今回の資料作るの鳴海担当だったっけ?』
『いえ、私ではないんですが……愛沢さんから今朝資料がまだ出来上がっていないと聞いて』
『だから今朝、愛沢さんと話してる時浮かない顔してたのか。 協力するからさ、一人で抱え込まないで相談してよ。その時に』
『……誕生日が終わる前に帰れて良かったです』
先輩は『えっ!?』とオフィスに響く程の声を出して驚いた。
『鳴海、今日誕生日なの?』
私は少し苦笑いをして頷いた。
『ケーキは!?』
『ケーキは帰りにコンビニで小さいの買おうかと思ってました』と私は照れながら答えた。
『いや、ダメだろ誕生日なんだから……』そう言って先輩はスーツの上着のポケットからスマホを取り出し何処かに電話をかけながらオフィスの外へ出た。
口が滑ってしまったけれど今日誕生日って事言わなければ良かったかな。
変な気を使わせてしまうことになったし悪いことをしたなとコピー機を眺めながら私は自分の軽く言ってしまった言動に少し後悔した。
そして先輩はオフィスに戻ってきて
『今日が終わる前にご飯行こう、ご飯』と私の肩をトントンと叩いてそう言った。
コピー機の印刷する音が鳴り止み先輩は印刷された用紙の束を自分のデスクの上にあげ、オフィスの窓から何かを確認して
『よしっ、じゃあ行こう』と少し急ぎながらオフィスの電気を消して二人で会社を出た。
ビルを出ると外ではタクシーが待っていて先輩がタクシーへ近づいていくと車の後部座席のドアが開いた。
『どうぞ』と先輩は私を先にタクシーへ乗せて私が車内へ乗り込み奥の方へ移動してから先輩もその車に乗り込んだ。
そして先輩が聞いたことのない住所を運転手に伝えると運転手は料金メーターのボタンらしきものをカチッと押して車が走り出した。
『少し距離あるんだけど知り合いが店出してるとこでご飯食べよう』と薄暗い車内で先輩が言った。
もう十一時を過ぎてしまいそうなのに開いているお店なんてあるのだろうか。
まぁ居酒屋とかならラストオーダーギリギリ間に合うのかもしれないけど…… なんて考えながら私は先輩と特に話すこともなく車の窓から外を眺めた。
賑わっている駅前を通り過ぎてタクシーは灯りの少ない住宅街のような場所へと向かった。
そして静かな住宅街の中にあるアンティーク調のお洒落な店の前に着くと先輩は『ここです』と運転手に伝えてタクシーを止めた。
私は店の外観を見て驚く。
『うわぁ……オシャレなところ……』
そんな驚く私を見て『でしょ?』と先輩はニコッと微笑んだ。
『でもすごく高そうなお店ですね……』と私は先輩の知り合いの店でもあるのに空気も読まずに言った。
『どうだろうね。 高いなって思う人もいるかもしれないし、満足して妥当な値段だなって思ってまた来る人もいるだろうしね。 俺はこの店が高いなぁとは一度も思ったことはないよ。とっても美味しいから』
そう言いながら店のドアを開けると綺麗な女性の店員さんがこちらへと近づいてきた。
『あっ圭くん、お待ちしてましたよ。 こちらへどうぞ』
そう言って人のいない店内の奥の席へと案内された。
奥の厨房から先輩と同じくらいの歳のような容姿の男性が顔を出した。
『圭! お前もっと早く連絡しろよな!』
先輩は頭を掻いた素振りを見せながら、その店長らしき男性に『悪い悪い』と笑いながら謝った。
その二人を見て店員の女性もクスッと笑った。
奥の席へ座ると先輩は慣れた手つきで少し厚めのメニューを開いて女性の店員さんに
『誕生日におすすめのコース料理をお願いします』と言った。
『おめでとうございます。精一杯作らせていただきます』と女性は私たちを交互に見て笑顔で言った。
『鳴海ってお酒大丈夫な人?』
私は人生で初めて来るお洒落なレストランの中を少し挙動不審にキョロキョロしながら『は、はい』と頷く。
『オススメのワインありますか?』と先輩は目線を少しあげ店員に尋ねた。
『そうですね。 お祝いなので……こちらのスパークリングワインなんてどうでしょうか?』と女性の店員さんはメニュー表に綺麗な白い手を向けて話した。
『はい。 ではそれを2つお願いします』と言って先輩はメニュー表を閉じた。
女性の店員さんが奥の厨房に向かうと先輩は私を見て
『なんか緊張してる?』と尋ねた。
『……はい、してます。 こういう所来たことないので落ち着かないです。 店長さんと知り合いなんですか?』
『そうなんだ、ここの店長と学生時代知り合いでオープンした時からよく来ているよ一人で。 ディナーの時間は予約待ちで全く入れないから仕事帰りの遅い時間にたまにきたりするんだ。自分にご褒美的な感じで』
先輩はスーツの上着を脱いで隣の席にかけながらそう言った。
少しすると女性の店員さんはワイングラスを二つテーブルの上へと並べ、その透き通った綺麗なグラスに白い炭酸の入ったワインを注ぎ入れた。
私は息を飲みながらそのグラスの中の下から上へと上がる気体の粒を見つめる。
『……鳴海?』
その先輩の一言でハッと我に帰ったように目線を上げた。
『じゃあ、乾杯しよっか』と先輩は右手でワイングラスの下の方を持ち私の方にグラスを近づけた。
私は照れて少し俯きながら先輩の方にグラスを近づけた。
『まだ0時回っていないから誕生日ギリギリセーフだね。 誕生日おめでとう』
先輩はそう言ってカラン。とグラスを合わせてワインに口をつける。
誕生日おめでとう。なんてこんな風に面と向かって言われたのは何年ぶりだろう。
多分まだ私が一人暮らしを始める前、まだ実家に住んでいる時に家族に言われたっきりだと思う。
ただこんなオシャレな店で高そうなワインを飲んでいる自分が現実離れしすぎて、なんというか夢の中のようで私はテーブルの下の方で自分の手の甲を爪でつねってみたりしていた。
そして前菜のサラダや冷製パスタがテーブルに並んだ時に
あまりのいい香りに自分のお腹が鳴った事に驚く。
そして先輩にその音がバレていないかチラッと顔を見るが
先輩は小皿にそのバジルのパスタを移し替えながら綺麗に盛られた小皿のパスタを『どうぞ』と言って手渡した。
私は今まで生きてきた中で男性に料理を取り分けられたことがあっただろうか。
……いや、一度もない。
なんというか自分が何処かのお姫さまにでもなったような気分だった。
『……おいしい!』と私はそのあまりの美味しさに思わず声が出る。
先輩は皿の上にトリュフのようなものが散りばめられたチーズリゾットを取り分けながら私の顔を見てニコッと微笑んだ。
『きっとたくさん手間がかかっているからだろうね。 この料理には』
私はパスタを頬張りながら『んっ?』と先輩の方に顔を向けた。
『俺たちが毎日淡々とこなしている仕事もこの料理に似てると思うんだ。 毎日のように当たり前のようにしている仕事でも手間をかけて仕上げたら分かる人にはちゃんと伝わるし、それなりの仕事であればそれなりの結果しか出ない。 けれどそれを手間をかけたんだって主張し過ぎるのは違うと思うしさ』
私はグラスのワインを飲みながら先輩の話に頷いた。
『鳴海が頑張っているのはちゃんとみんな見ているよ』
アルコールが入っているせいか先輩の言葉で胸が熱くなった。
私は趣味もなければ分かり合える友達もそんなにいない。
時々自分の存在意義が一体何なのかわからなくなってしまうから自分が今できる仕事だけは精一杯頑張っていたつもりだったから先輩のその一言が私にとってとても嬉しかった。
それから美味しい食事をしながら楽しい時間が流れ
急に店内の電気が切れた。
私は急に暗くなった店内に驚いて声を出した。
店内にハッピーバースデーのBGMが流れ始める。
そして厨房から綺麗な花火が刺さったケーキを店長らしき男性と綺麗な女性の店員さんが手を叩いて運んできた。
そしてそのhappy birthday MISAKIとチョコレートで描かれたケーキが私の前に置かれると先輩も笑顔で曲に合わせて手を叩いた。
そしてBGMが終わる頃店内の電気がつけられて
先輩達は拍手をしながら『美咲ちゃん、誕生日おめでとうー!』と言った。 私は嬉しさのあまり涙が流れた。
『——えっ、どうしたの?』と先輩は泣いている私を見て慌てた。
『……初めてなんです。 こんな風に家族以外の誰かに誕生日を祝ってもらうの……』
少し静まり返る店内の中で私は俯きながら止まらない涙を何度も何度も拭った。
『……私今まで何かで一番になった事とかもそんなになくって。 恋愛でだっていつも一番にはなれなくて。
でも、二番目でも良いじゃないか!って自分に言い聞かせて生きてきたんです。 今までこんな風にオシャレなお店に連れて行ってもらったりとか普通の恋人みたいに祝ってもらったりとかはなくて、いつも家でだけでデートだったり、たまに二人で外へ出ても人の目を気にしたりして楽しめなかったり…… だから嬉しくて……その、ごめんなさい』
『うーん……二番が良いか悪いかは私にはわからないけれど、美咲ちゃんはそれで幸せ?』と女性の店員さんはそう言った。
『今まではそれが当たり前だったんですけど、今日みたいにこんなに楽しかったり嬉しいなって思ったりしたことはなかったです……』
『私はね、本当に美咲ちゃんの事を思ってくれる人ならどれだけ離れていたとしても辛いおもいさせないと思うな』
そう言って女性の店員さんは私の頭を優しく撫でた。
『——鳴海、ほらロウソク吹き消して。 あと24歳になった今年の目標は?』先輩はそう言ってケーキが乗った皿を私の方へと近づけた。
『一番目になりたいです……』
私は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔でロウソクを吹き消した。
『よく言った!』と女性の店員さんは私の肩をポンポンと叩いて笑った。
店長さんと女性の店員さんが厨房の方へ戻り
私は先輩になだめられ落ち着きを取り戻した。
そして私は目を腫らしながら皿の上に乗ったケーキをフォークで大きく切って大きい口を開けて両頬をリスのように膨らませながら食べた。
『可愛い顔出来るんじゃん』先輩はワインを飲みながらジーっと私の顔を見つめてそう言った。
私は口一杯にケーキを入れながら『んっ?』と聞き返した。
『鳴海が営業スマイルじゃなくて普通に笑っている所初めて見たからさ』先輩はそう言ってワインのグラスを飲み干した。
『今日残業頑張って良かったなぁって思いまして…… だって今日二人で食事に来ることができたから。 頑張ったご褒美ですね!きっと』
先輩は少し赤くなった顔を手で仰いだ。
『普通そう言う事面と向かって言う?』と照れて笑った。
私はまたフォークでケーキを口の中へと運びながら
フフフッと笑って頷いた。
それから帰る前に店の真ん中で女性の店員にポラロイドカメラで誕生日の記念撮影をしようと勧められて先輩と二人で並んで撮った写真を赤い封筒に入れて手渡された。
店を出ると先程店の人が呼んでくれたタクシーに私たちは乗り込んだ。
そしてタクシーが私の家に向かう途中で先輩は会社で少しまだやることがあるからと言って運転手にお金を渡し途中で降りた。
『じゃあ、また明日会社で』と先輩はタクシーを降りながらそう言った。
『はい、今日は本当にご馳走様でした』
私を一人乗せたタクシーが家の前に着くと先程先輩が渡したお金のお釣りを運転手さんから手渡される。
このお釣りは明日先輩に返そう。
私はタクシーから降りて家の前へと向かいいつものようにバックから鍵を出してドアを開けた。
そして暗い部屋の中ベットには向かわずお風呂場の方へと向かい服を脱いでシャワーを浴びる。
いつものようにシャンプーを出そうとしたが途中で手を止めてお風呂のドアを開けて洗面台の下の戸棚からいつかもらった試供品のシャンプーとトリートメントを取り出した。
試供品のシャンプーの袋を開けてそれを鼻に近づけた。
『……少し香りがキツイかな』と呟きながらそのシャンプーを髪に揉み込んだ。
今日の出来事を思い出しながら一人でニヤついてしまう。
愛沢さんに腹が立ってしょうがなかったけれど今では残業させてくれてありがとうなんて感じてしまう。
人間って単純なものだ。 本当に。
『——可愛い顔出来るんじゃん』
その先輩の言葉が頭の中をグルグルと周りその度に私はニヤケて緩む表情を必死で抑えようとするがそれを我慢すればするほどに鼻の穴が広がって鼻の下も伸びてしまう。
そのなんとも言えない表情が浴室の鏡に写り自分の見て私は
『……ほ、本当に可愛いか?』と浴室で1人呟いた。
ただそれだけと言ってしまえばそれだけのことだ。
自分がされて嫌なことは人にしてはいけない。
他の人の恋人に手を出してはいけない。
そうはいうけれど恋人なんて所詮口約束でしかない。
まぁそれが結婚となると話は別になるんだろうけど、口約束だけの恋人関係なんて信頼関係の上にしかないものだから、私の好きな人は信頼するに値しないってこと。
ただそれだけ。
所詮それだけのことなんだ。
『——美咲《みさき》が好きだよ』
薄暗い部屋のベッドの上で男が私の名前を呼ぶ。
私は口角を上げ少し目を細めた。
男は私の顔を見て満足そうにフフッと笑った。
この言葉にだって多分深い意味はない。
今この瞬間だけはそう思うような気がするってだけだ。
『明日の美咲の誕生日なんだけど予定あるから祝うの来週とかにズラしてもいい?』
男はシャツを着ながら、あたかも申し訳なさそうに言った。
『いいよ、無理して祝わなくても別に。学生じゃないんだし今年でうちら24歳だよ? もう喜べないよ年取るの』
誕生日を祝ってもらうのが無理そうなのは知ってた。
この男の部屋のカレンダーには赤いペンで彼女の字で私の誕生日の日に三年記念日と書かれているのを先月の終わりにカレンダーをめくった時から気付いていたから。
これ以上歳は取りたくないなっていうのも本音ではあるけれど
自分の誕生日を選んでくれないところが私はニ番目なんだなって思い知らされる。
『亮太《りょうた》? 私明日も仕事早いからそろそろ帰るね』
男は私に背を向けながらスマホを操作して『うん』と返事をした。
テーブルの上に私のヘアゴムが置きっぱなしになっていることに気づき私はそれをバックにしまって部屋を出た。
深夜0時を過ぎた人気のない夜道を私は一人歩く。
こんな真夜中の時間なのに外はまだジメジメと蒸し暑く足取りも重くなる。
『そういえば今日何も食べていないや……』私は一人呟く。
朝は会社に行く準備で食べそびれて昼近くに少しお腹が空いた感じがしたのだけれど
いざ昼になるとその空腹感も感じなくなっていて会社の自販機でお茶のペットボトルを買ったっきり。
今も今でそんなにお腹も空いてはいないけれど
何かお腹に入れないと多分眠る時に気持ちが悪くなるから仕方なしに私は帰る前にコンビニへと立ち寄った。
入り口の自動ドアが私に反応してチャイムと同時に開く。
なぜか私はいつも自動ドアが自分に反応することで自分が今ちゃんと生きているんだなぁって実感したりする。
まぁ当たり前のことではあるんだけど、時々自分は他の人から見えていないんじゃないか。って変な感覚になってしまう事があるから今日も自分の体でしっかりと生きているんだなって感じたりする。
私は店の中へ入るといつものように店員さんがいるレジの横は通らず雑誌の置いてある窓側に沿って遠回りをして目的のお弁当の置いてあるところへ向かう。
代わり映えのしない店の商品を眺める私。
社会人になり一人暮らしを始めたばかりの頃よくしていた自炊も今ではしなくなった。
今ではコンビニの弁当を見ているだけでその味が簡単に想像できてしまうほど食べ慣れてしまったりしている。
悩んでいるのは何を食べたいかを選んでいるわけではなくて
いわゆる消去方で。何なら食べられるか除外しながら選んでゆく。
私は心の中でうーん。と悩みながら弁当の置いてある場所から離れて隣の棚にあるゼリーを2つ手に取った。
2つは食べる気はないけれどこんな時間に会社帰りのスーツ姿で一人分のゼリーを買っていたらいかにも寂しそうな奴に見えてしまうから私なりの精一杯の抵抗だ。
まぁ店員さんに寂しそうって思われたところで何もないのだけれど会計の時のその一瞬だけでもすこし私なりによく取り繕いたくてついしてしまう。
『これ美味しいですよね』
レジにゼリーを出して財布をバックから出そうとしていた時に思いがけず若い女の店員さんに話しかけられて私は目を丸くした。
『私も好きですこのゼリー』
大学生のようなその若い女の店員さんはバーコードを読み取りながら私を見て笑顔でそう言った。
私は目を細め顔を緩ませて軽く会釈した。
私はこのゼリーを好きで買っているわけじゃない。
食欲がなくこれくらいしか喉を通る気がしないからだ。
けれどそんなことよりも私は若い女の店員さんを見て
なんて清々しい笑顔だろう。 そう思った。
まだ少し幼さが残るその笑った顔は周りを明るく灯すような
そんな眩しさを感じさせた。
世間ではきっとこういう女性を愛嬌がある女性というのだろう。
そしてきっと私にはそれが欠けてる。
もっと可愛く生きる事ができれば今私はこんな時間に一人で食べたくもない夕食を買っている事もないだろう。
私は真顔に戻りレジ袋に入ったゼリーを彼女から受け取って店を出た。
家に着くといつものようにバックのサイドポケットの中から鍵を取り出し、それを鍵穴へ差し込み軽く時計回りに回した。
ドアを開けると玄関に荷物を置いて、ソファーにスーツの上着を置いた。
そのまま真っ暗な部屋の中を電気もつけずに奥のベッドに向かった。
そして紐が切れた人形のようにベッドに倒れ込んだ。
私の部屋にはテレビがない。
見終わった後に……で?って思うものばかりだからだ。
そして他の人の笑い声がとても不快に感じるから。
自分は少し変わり者。いや、少数派の人間かもしれないけれど赤の他人に変わってるねって言われるのもとても嫌だ。
私からしてみればその多数派が変わり者のように見えているから他人の思考や思想でその当たり前を作られるのも嫌だ。
同じような理由でSNSの類なども全くと言っていいほど見たりしない。
他の人の充実したある日を切り取ったそれを見ても
だから何なんだろう。
それを見た他の人にこの人はなんて言って欲しいんだろうが先にきてしまう。
くだる。くだらないが理由ではないんだ。
問題はそれよりも先にあるそれが一体なんなのだろうになってしまう。
これを同僚に話した時に
『鳴海《なるみ》さんって冷めてますね?』と言われた。
……これは冷めているんだろうか。
私から言わせてみればその自分を見てほしい行為、それに群がる人たちの方がよっぽど冷めているように感じる。
私はベッドの横にある棚の上のライターでガラスに入ったアロマキャンドルの先の芯に火を灯した。
揺れる火が真っ暗い部屋の中を灯す。
この瞬間が一番落ち着く。
なにやらわからない他人の日記を見てるよりも断然こっちの方がいい。
火を見ていると無心になれる。
何も考えずにいられる。
キャンドルに灯る優しい火の揺れを見ながら私は眠りについた。
このまま朝なんて来なければいい。
二度と目を覚さなければ楽なのに。
朝になると私はいつものように会社に行く準備をする。
会社へは自宅の近くのバス停でバスに乗って向かう。
バスの中でいつも私は真ん中より少し後ろの窓側の席へ座る。
あまり後ろの席に座ると降りる時に大変だし、だからといって前の方へ座ると運転席のバックミラー越しに運転手と目が合うような感じがして落ち着かないからだ。
私は反対側の席に座る何やら参考書を見ている学生の方に目をやる。
勉強か……今では懐かしい。
小さい頃から数学は得意だった。
計算すればしっかり答えが出るから。
暗記だけの問題をただひたすらにインプットとアウトプットを繰り返して頭に入れていく作業。
ただ国語だけは苦手だった。
作者の思いとは、この時の登場人物の気持ちとは。
作者の思いなんて本人にしかわからない事で私がこう感じると思ってもそれは私自身の想像でしかなくて真相はわからない。
感動的な話を誰かを思いながら書いたのかもしれないし、あるいは誰かを憎みながら書いたのかもしれない。
実際のところ本人にしかわからないんだ。
公式を当てはめて計算しようとしても人の心の中は解けない。
複雑に見えて本当はものすごく単純なものなのかもしれないし、けれど昨日とはまるで違うことを言っていたりする空模様のようなものだから面倒だ。
機械的な音声で車内に駅前へと到着を告げるアナウンスが流れ私は立ち上がりバスを降りた。
私の働く職場は駅前から徒歩5分程度先にある高いビルの中にある。
ここでの私の業務はネットバンクのシステム開発。
顧客の預金や融資などのシステムの設計や品質の改善。
言葉だけ聞けば今時の華やかそうに感じる職場だが
実際のところはミスは許されない長時間労働のストレス社会の根源のような会社だ。
オフィスの入り口には火災防止の大きいポスターが貼られている。
そのポスターに満面の笑みで写る一人の女性が毎朝目に入る。
まぁ大きいポスターだからっていうのもあるけれど
それだけではなくなんというかこのポスターの女性の純粋無垢な笑顔に見惚れてしまう。
このポスターの女性は私の住んでいる地域のプロの女子バスケットチームに所属する、ある女性らしい。
バスケットが好きな同僚によるとこの女性は高校2年の終わり頃に突如として全国大会に頭角を表し初出場で数々の賞やタイトルを総ナメにしたらしい。
彼女の愛らしい笑顔とは裏腹に鋭いプレイスタイルは多くの人を魅了した。
その華奢に見える小柄な体で海外の長身の選手を素早いドリブルで置き去りにするその姿はまるで自分より大きい獲物を狙う小動物のようにも見えた。
この女性は多分悩みなんて何もないんだろう。
きっと小さい頃から幸せな家庭に育ち何も不自由なく生活しまるで物語のお姫様のような人生を歩んでいる事だろう。
自分の好きな事を仕事にできる人なんて一体全人口の何%いるだろう。
百人に一人? もっと少ないだろうか。
私は残りの九十九人側の人間だろう。
だから私はこのポスターの女性を見ていると毎朝自分がとても惨めに見えてしまう。
けれど毎朝日課になったこの女性の笑顔を見られなくなってしまったらそれもそれで寂しさを感じてしまいそうだ。
『鳴海さん、おはよう』
そう私に話しかけてくる女性は愛沢《あいざわ》 さなえ。私と入社が同期で仲がいいわけではないが会社ではよく話す。
愛沢さんは赤みがかった髪が特徴的な私とは正反対の愛嬌のある明るい女性だ。
その人懐っこい性格からかうちの会社の男の上司達にも人気があり、廊下でよく綺麗な髪をしているね。だとかネイルが綺麗だね。だとか取ってつけたような褒め言葉に
満更でもない顔で髪をかき上げながら『そうですか?』と笑ってエクボを男に見せつけるようなその仕草も性格も私はとても嫌いだ。
つけ過ぎている香水もみんなは良い香りがすると言っているが私はその強烈な人工的な匂いに吐き気を覚えるほどだ。
『愛沢さん、おはようございます』
そう言って私は通り過ぎようとする。
『明日の会議の資料作るの良ければ手伝って欲しくって……』愛沢は甘えるような猫撫で声で私にそう言った。
まだ明日の会議の資料が出来ていない……
この女にまず、有り得ないと言いたい。
何週間も前から会議の事は決まっていてお偉いさん方が出席する明日の大切な会議の資料がまだ出来ていないなんて考えられない。
もう出来上がっていて人数分印刷まで終えているのが普通だが?
一体何をしに会社に来ているんだろうか。
そしてそれを許す上司も上司だ。 若い女性に弱いおじさま共に伝えたい。 私の代わりにこの女を怒鳴り散らしてくれ。頼む。
私は顔が引きつるのに耐えて精一杯に顔を緩ませながら愛沢に聞き返す。
『愛沢さん、資料ってどこまで終わってるのかな?』
愛沢は少し目線を上げて何やら考えるような素振りをしながら何も悪びれる様子もなく
『まだ手をつけ始めたばかりで……』と言った。
『……はぁ?』
さすがの私も眉間にシワが寄った。
ポンッ!
後ろから何やら軽い紙を丸めたようなもので軽く叩かれた感触がして振り返る私。
『鳴海と愛沢さん、おっはよう!』
朝から無駄に爽やかなスーツ姿のこの男性は岡田 圭《おかだ けい》私と愛沢が所属するシステム開発部の何歳か上の私たちの上司。
私だけ呼び捨てなのはこの岡田さんは私が入社した時の教育係だった。
軽そうな容姿とは裏腹に仕事は出来る、うちの会社で三本の指に入るほど優秀な先輩だ。
上の役員からの信頼は厚く社内でも次期係長は岡田先輩ではないかと噂されている。
そしてとにかくスパルタだ。 大きい声を出したり怒ったりだとかそういう事はないが落ち着いた口調でズバズバとミスを指摘してくる違う意味で怖い先輩だ。
多分、愛沢が岡田先輩の下に付いていたら三日でこの会社を辞めるだろう。
けれどなんというかこの人は入社した頃から観察眼が鋭い感じがしていた。
その人が出来る範囲のことをさせる、その人の能力以上の事は求めない人だ。
何かを察すると途端に身を引き仕事の話をしなくなる。
私はこの人から仕事の話をされなくなってしまったら終わりだなと思っていた。
『愛沢さん、髪の色変えた?』岡田先輩は笑ってそういった。
『よく気付きましたね。気付いてくれたの圭さんが初めてですー』愛沢は自分の両頬を押さえながらそう言った。
そして、先輩は私の表情を見て『なんかあった?』と首を傾げた。
私は『いえ』と首を振ってその場を去る。
突如として私に最大の悩みが出来た。
明日の会議の資料どうしよう。
今日うちに帰れるかな……
はぁ……最悪の誕生日だ。
就業時間が終わると愛沢は会議の資料を私のデスクまで持ってきて私は呆れた顔をしながらそれを受け取る。
『私、明日の会議までに仕上げておくから愛沢さんは帰って良いよ』私は皮肉たっぷりにそう言った。
だが愛沢さんはその皮肉にも気づかず両手を顔の前で合わせて
『鳴海さん助かる。お願いします』と可愛らしくそう言った。
そして何も悪びれる様子もなく他の人たちに『お疲れ様です』と言いながらオフィスを出て行った。
私はその後ろ姿を見ながら大きなため息をついた。
『さて、やりますかー』私は両手を大きく広げて伸びをしながら呟いた。
私は資料の紙を開いて愕然とする。
何これ……半分もできてない。 所々日本語も間違っているし。
あいつ……
私はため息をつきながらパソコンでファイルを開いて早速資料作りに取り掛かる。
ふと窓の外を見るともう空は真っ暗になっていた。
オフィスの時計を見ると21時を回っていることに気付く。
集中していてオフィスがもう私一人になっていることにも気づかなかった。
『少し休憩しよう』そう言って私は椅子から立ち上がりオフィスを出て休憩室の近くの自動販売機に向かった。
変わり映えのしない自動販売機の飲み物を見てまた悩み始める私。
喉は乾いているのに何も飲みたいものがないってどういう心理なのだろう。
私は小銭を入れてランプのつく自販機の前に立ち尽くす。
私はきっと脱水症状を起こして命の危機を感じるその瞬間にも私は悩む事だろう。
そして自分は一体何を欲しているのかもわからずそのまま倒れてしまうかもしれない。
まぁそれも良いのかもしれない。
そんな事を思ってしまう私はきっとどうかしている。
生きる気力がないから食欲が湧かないのか、それとも食欲がないから気力すらもなくなってしまうのか。
『——栄養ドリンク一択でしょ』
そう言って私の背後から長い腕が伸びてきて栄養ドリンクのボタンが押されて
ガランッ!と音を立てて飲み物が取り出し口に出てくる音がする。
聴き慣れたその声に私は振り返りもせずにため息をついた。
『こんな時間に栄養ドリンクなんて仕事終わらなそうなの?』
『先輩が押したんじゃないですか……』と私は取り出し口に手を伸ばし栄養ドリンクを取ってそう言った。
『こんな時間まで鳴海が残業してるなんて珍しいじゃん。休み時間も取らないで就業時間ギリギリまで働いてるようなヤツがさ』
『明日の会議の資料作ってるんです』私は栄養ドリンクを飲みながら答える。
先輩は『明日の会議の資料って……』と目を丸くして驚いた。
『じゃあ、お疲れ様です』と私は栄養ドリンクを飲み干し先輩に頭を軽く下げオフィスの方へと向かった。
オフィスに戻り自分のデスクへ着くと私は誰もいない静かなオフィスで『ヨシッ』と自分に気合いを入れて先程の続きに取り掛かる。
『どこまで終わってるの明日の資料?』
急に真横から声が聞こえて私驚き声を出しそうになる。
『七、八割は終わってると思いますが……まだ文字打ち込んでいるだけなので確認終わってないです……印刷もしようと思ってます』
先輩は『そっか』と言ってデスクのマウスを握って画面をスクロールしながら内容を確認しているようだった。
『さっき可愛い後輩に栄養ドリンク奢ってくれたお礼に手伝うよ』と先輩は笑って私の顔を見つめた。
あまりの顔の近さに私は少し緊張しながら下を向いて会釈した。
先輩は慣れた手つきでキーボードで文字を打ち込みながら
『全体的にグラフが少ない感じがするなぁ……これじゃ伝わりづらい』と言いながらうーん。とデスクに肘を乗せて頬杖をついた。
そして思いついたように他のファイルのデータを見ながら数字を打ち込んでササっとグラフを作っていく。
こうして隣で先輩の仕事を見ているとなんというかこの人の凄さがひしひしと伝わってくる。
頭の回転が早い。まぁ単純にそれもあるが物事を一方向からだけではなく客観的に色々な角度から見ることの出来る人だ。
この会社で働き始めてまだそんなに経っていない私でも分かる。
役員が先輩を頼りにする気持ちがわかる。
この人は口も達者だがそれに引けを劣らない行動力がある。
『すごいなぁ……』と私は画面を見つめながら呟く。
画面を見ながら先輩は『うん?』と首を傾げる。
『私が何時間もかかるようなこと先輩は息をするようにパパっと短時間で仕上げてしまうので……』
『んー、まぁ人それぞれ得手不得手《えてふえて》があるからなぁ。俺は単純作業が得意ってだけで』と画面を見つめながらそう言った。
『単純作業だなんてそんな……いつも尊敬しています。
私の得意な事かぁ……』
『鳴海は頑張り過ぎるところじゃないか? まぁ良い意味でも悪い意味でもさ。 無理はしないで欲しいけど先輩の俺としては鼻が高いよ。デキる後輩がいてくれるのはさ』
それから少し経つと先輩は『コピー機の印刷紙の予備あるか確認してきて。かなりの枚数使うだろうから』と言った。
私は『はい』と頷きオフィスを出て物品庫へ向かった。
物品庫《ぶっぴんこ》とは会社でよく使う備品を保管している場所でコピー機の用紙からホワイトボードで使う水性のマジックからボールペンまで置いてある。
ちなみに物品庫から物を持って行くときは必ず入り口のバインダーに付いている用紙に必ず記入する決まりがある。
一人で無駄に何個も持って行ったりだとかそういった無駄や盗難を防ぐ為だ。
そしてここには監視カメラがばっちりついていて24時間体制で記録されている。
入るだけで少し私はいつも緊張してしまう。
悪いことをするつもりはないが私は安全ですよと言わんとばかりにカメラにしっかりA 4用紙を1束取った事が映るように取り、そしてしっかりとバインダーにコピー機の紙を1束持っていったことを記入した。
少し小走りでオフィスに戻ると先輩は資料を作り終えデスクとは反対方向にあるコピー機の前で印刷される用紙を眺めていた。
『物品庫から用紙持ってきました』そう言って私はハサミで用紙の入った少し厚い包装紙の端を切って中身を取り出し
それをコピー機の用紙入れの中に供給した。
『ありがと』先輩は一言そう言って左手を少し伸ばし時計を見る。
『もう十時過ぎてるのか……印刷終わったらすぐ帰ろ』と先輩私の方を見て頷いて見せた。
『でも先輩が手伝ってくれていなかったら多分まだ終わっていなかったので助かりました』
『……てか、今回の資料作るの鳴海担当だったっけ?』
『いえ、私ではないんですが……愛沢さんから今朝資料がまだ出来上がっていないと聞いて』
『だから今朝、愛沢さんと話してる時浮かない顔してたのか。 協力するからさ、一人で抱え込まないで相談してよ。その時に』
『……誕生日が終わる前に帰れて良かったです』
先輩は『えっ!?』とオフィスに響く程の声を出して驚いた。
『鳴海、今日誕生日なの?』
私は少し苦笑いをして頷いた。
『ケーキは!?』
『ケーキは帰りにコンビニで小さいの買おうかと思ってました』と私は照れながら答えた。
『いや、ダメだろ誕生日なんだから……』そう言って先輩はスーツの上着のポケットからスマホを取り出し何処かに電話をかけながらオフィスの外へ出た。
口が滑ってしまったけれど今日誕生日って事言わなければ良かったかな。
変な気を使わせてしまうことになったし悪いことをしたなとコピー機を眺めながら私は自分の軽く言ってしまった言動に少し後悔した。
そして先輩はオフィスに戻ってきて
『今日が終わる前にご飯行こう、ご飯』と私の肩をトントンと叩いてそう言った。
コピー機の印刷する音が鳴り止み先輩は印刷された用紙の束を自分のデスクの上にあげ、オフィスの窓から何かを確認して
『よしっ、じゃあ行こう』と少し急ぎながらオフィスの電気を消して二人で会社を出た。
ビルを出ると外ではタクシーが待っていて先輩がタクシーへ近づいていくと車の後部座席のドアが開いた。
『どうぞ』と先輩は私を先にタクシーへ乗せて私が車内へ乗り込み奥の方へ移動してから先輩もその車に乗り込んだ。
そして先輩が聞いたことのない住所を運転手に伝えると運転手は料金メーターのボタンらしきものをカチッと押して車が走り出した。
『少し距離あるんだけど知り合いが店出してるとこでご飯食べよう』と薄暗い車内で先輩が言った。
もう十一時を過ぎてしまいそうなのに開いているお店なんてあるのだろうか。
まぁ居酒屋とかならラストオーダーギリギリ間に合うのかもしれないけど…… なんて考えながら私は先輩と特に話すこともなく車の窓から外を眺めた。
賑わっている駅前を通り過ぎてタクシーは灯りの少ない住宅街のような場所へと向かった。
そして静かな住宅街の中にあるアンティーク調のお洒落な店の前に着くと先輩は『ここです』と運転手に伝えてタクシーを止めた。
私は店の外観を見て驚く。
『うわぁ……オシャレなところ……』
そんな驚く私を見て『でしょ?』と先輩はニコッと微笑んだ。
『でもすごく高そうなお店ですね……』と私は先輩の知り合いの店でもあるのに空気も読まずに言った。
『どうだろうね。 高いなって思う人もいるかもしれないし、満足して妥当な値段だなって思ってまた来る人もいるだろうしね。 俺はこの店が高いなぁとは一度も思ったことはないよ。とっても美味しいから』
そう言いながら店のドアを開けると綺麗な女性の店員さんがこちらへと近づいてきた。
『あっ圭くん、お待ちしてましたよ。 こちらへどうぞ』
そう言って人のいない店内の奥の席へと案内された。
奥の厨房から先輩と同じくらいの歳のような容姿の男性が顔を出した。
『圭! お前もっと早く連絡しろよな!』
先輩は頭を掻いた素振りを見せながら、その店長らしき男性に『悪い悪い』と笑いながら謝った。
その二人を見て店員の女性もクスッと笑った。
奥の席へ座ると先輩は慣れた手つきで少し厚めのメニューを開いて女性の店員さんに
『誕生日におすすめのコース料理をお願いします』と言った。
『おめでとうございます。精一杯作らせていただきます』と女性は私たちを交互に見て笑顔で言った。
『鳴海ってお酒大丈夫な人?』
私は人生で初めて来るお洒落なレストランの中を少し挙動不審にキョロキョロしながら『は、はい』と頷く。
『オススメのワインありますか?』と先輩は目線を少しあげ店員に尋ねた。
『そうですね。 お祝いなので……こちらのスパークリングワインなんてどうでしょうか?』と女性の店員さんはメニュー表に綺麗な白い手を向けて話した。
『はい。 ではそれを2つお願いします』と言って先輩はメニュー表を閉じた。
女性の店員さんが奥の厨房に向かうと先輩は私を見て
『なんか緊張してる?』と尋ねた。
『……はい、してます。 こういう所来たことないので落ち着かないです。 店長さんと知り合いなんですか?』
『そうなんだ、ここの店長と学生時代知り合いでオープンした時からよく来ているよ一人で。 ディナーの時間は予約待ちで全く入れないから仕事帰りの遅い時間にたまにきたりするんだ。自分にご褒美的な感じで』
先輩はスーツの上着を脱いで隣の席にかけながらそう言った。
少しすると女性の店員さんはワイングラスを二つテーブルの上へと並べ、その透き通った綺麗なグラスに白い炭酸の入ったワインを注ぎ入れた。
私は息を飲みながらそのグラスの中の下から上へと上がる気体の粒を見つめる。
『……鳴海?』
その先輩の一言でハッと我に帰ったように目線を上げた。
『じゃあ、乾杯しよっか』と先輩は右手でワイングラスの下の方を持ち私の方にグラスを近づけた。
私は照れて少し俯きながら先輩の方にグラスを近づけた。
『まだ0時回っていないから誕生日ギリギリセーフだね。 誕生日おめでとう』
先輩はそう言ってカラン。とグラスを合わせてワインに口をつける。
誕生日おめでとう。なんてこんな風に面と向かって言われたのは何年ぶりだろう。
多分まだ私が一人暮らしを始める前、まだ実家に住んでいる時に家族に言われたっきりだと思う。
ただこんなオシャレな店で高そうなワインを飲んでいる自分が現実離れしすぎて、なんというか夢の中のようで私はテーブルの下の方で自分の手の甲を爪でつねってみたりしていた。
そして前菜のサラダや冷製パスタがテーブルに並んだ時に
あまりのいい香りに自分のお腹が鳴った事に驚く。
そして先輩にその音がバレていないかチラッと顔を見るが
先輩は小皿にそのバジルのパスタを移し替えながら綺麗に盛られた小皿のパスタを『どうぞ』と言って手渡した。
私は今まで生きてきた中で男性に料理を取り分けられたことがあっただろうか。
……いや、一度もない。
なんというか自分が何処かのお姫さまにでもなったような気分だった。
『……おいしい!』と私はそのあまりの美味しさに思わず声が出る。
先輩は皿の上にトリュフのようなものが散りばめられたチーズリゾットを取り分けながら私の顔を見てニコッと微笑んだ。
『きっとたくさん手間がかかっているからだろうね。 この料理には』
私はパスタを頬張りながら『んっ?』と先輩の方に顔を向けた。
『俺たちが毎日淡々とこなしている仕事もこの料理に似てると思うんだ。 毎日のように当たり前のようにしている仕事でも手間をかけて仕上げたら分かる人にはちゃんと伝わるし、それなりの仕事であればそれなりの結果しか出ない。 けれどそれを手間をかけたんだって主張し過ぎるのは違うと思うしさ』
私はグラスのワインを飲みながら先輩の話に頷いた。
『鳴海が頑張っているのはちゃんとみんな見ているよ』
アルコールが入っているせいか先輩の言葉で胸が熱くなった。
私は趣味もなければ分かり合える友達もそんなにいない。
時々自分の存在意義が一体何なのかわからなくなってしまうから自分が今できる仕事だけは精一杯頑張っていたつもりだったから先輩のその一言が私にとってとても嬉しかった。
それから美味しい食事をしながら楽しい時間が流れ
急に店内の電気が切れた。
私は急に暗くなった店内に驚いて声を出した。
店内にハッピーバースデーのBGMが流れ始める。
そして厨房から綺麗な花火が刺さったケーキを店長らしき男性と綺麗な女性の店員さんが手を叩いて運んできた。
そしてそのhappy birthday MISAKIとチョコレートで描かれたケーキが私の前に置かれると先輩も笑顔で曲に合わせて手を叩いた。
そしてBGMが終わる頃店内の電気がつけられて
先輩達は拍手をしながら『美咲ちゃん、誕生日おめでとうー!』と言った。 私は嬉しさのあまり涙が流れた。
『——えっ、どうしたの?』と先輩は泣いている私を見て慌てた。
『……初めてなんです。 こんな風に家族以外の誰かに誕生日を祝ってもらうの……』
少し静まり返る店内の中で私は俯きながら止まらない涙を何度も何度も拭った。
『……私今まで何かで一番になった事とかもそんなになくって。 恋愛でだっていつも一番にはなれなくて。
でも、二番目でも良いじゃないか!って自分に言い聞かせて生きてきたんです。 今までこんな風にオシャレなお店に連れて行ってもらったりとか普通の恋人みたいに祝ってもらったりとかはなくて、いつも家でだけでデートだったり、たまに二人で外へ出ても人の目を気にしたりして楽しめなかったり…… だから嬉しくて……その、ごめんなさい』
『うーん……二番が良いか悪いかは私にはわからないけれど、美咲ちゃんはそれで幸せ?』と女性の店員さんはそう言った。
『今まではそれが当たり前だったんですけど、今日みたいにこんなに楽しかったり嬉しいなって思ったりしたことはなかったです……』
『私はね、本当に美咲ちゃんの事を思ってくれる人ならどれだけ離れていたとしても辛いおもいさせないと思うな』
そう言って女性の店員さんは私の頭を優しく撫でた。
『——鳴海、ほらロウソク吹き消して。 あと24歳になった今年の目標は?』先輩はそう言ってケーキが乗った皿を私の方へと近づけた。
『一番目になりたいです……』
私は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔でロウソクを吹き消した。
『よく言った!』と女性の店員さんは私の肩をポンポンと叩いて笑った。
店長さんと女性の店員さんが厨房の方へ戻り
私は先輩になだめられ落ち着きを取り戻した。
そして私は目を腫らしながら皿の上に乗ったケーキをフォークで大きく切って大きい口を開けて両頬をリスのように膨らませながら食べた。
『可愛い顔出来るんじゃん』先輩はワインを飲みながらジーっと私の顔を見つめてそう言った。
私は口一杯にケーキを入れながら『んっ?』と聞き返した。
『鳴海が営業スマイルじゃなくて普通に笑っている所初めて見たからさ』先輩はそう言ってワインのグラスを飲み干した。
『今日残業頑張って良かったなぁって思いまして…… だって今日二人で食事に来ることができたから。 頑張ったご褒美ですね!きっと』
先輩は少し赤くなった顔を手で仰いだ。
『普通そう言う事面と向かって言う?』と照れて笑った。
私はまたフォークでケーキを口の中へと運びながら
フフフッと笑って頷いた。
それから帰る前に店の真ん中で女性の店員にポラロイドカメラで誕生日の記念撮影をしようと勧められて先輩と二人で並んで撮った写真を赤い封筒に入れて手渡された。
店を出ると先程店の人が呼んでくれたタクシーに私たちは乗り込んだ。
そしてタクシーが私の家に向かう途中で先輩は会社で少しまだやることがあるからと言って運転手にお金を渡し途中で降りた。
『じゃあ、また明日会社で』と先輩はタクシーを降りながらそう言った。
『はい、今日は本当にご馳走様でした』
私を一人乗せたタクシーが家の前に着くと先程先輩が渡したお金のお釣りを運転手さんから手渡される。
このお釣りは明日先輩に返そう。
私はタクシーから降りて家の前へと向かいいつものようにバックから鍵を出してドアを開けた。
そして暗い部屋の中ベットには向かわずお風呂場の方へと向かい服を脱いでシャワーを浴びる。
いつものようにシャンプーを出そうとしたが途中で手を止めてお風呂のドアを開けて洗面台の下の戸棚からいつかもらった試供品のシャンプーとトリートメントを取り出した。
試供品のシャンプーの袋を開けてそれを鼻に近づけた。
『……少し香りがキツイかな』と呟きながらそのシャンプーを髪に揉み込んだ。
今日の出来事を思い出しながら一人でニヤついてしまう。
愛沢さんに腹が立ってしょうがなかったけれど今では残業させてくれてありがとうなんて感じてしまう。
人間って単純なものだ。 本当に。
『——可愛い顔出来るんじゃん』
その先輩の言葉が頭の中をグルグルと周りその度に私はニヤケて緩む表情を必死で抑えようとするがそれを我慢すればするほどに鼻の穴が広がって鼻の下も伸びてしまう。
そのなんとも言えない表情が浴室の鏡に写り自分の見て私は
『……ほ、本当に可愛いか?』と浴室で1人呟いた。
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