ダメな自分を変えたくて、私がした『おいしいパスタの法則』
コテとアイロンは必須
就業時間が終わると私はイソイソと帰り支度をして千佳ちゃんと待ち合わせをしている駅前へと向かった。
駅前の方へと着くと先についていた千佳ちゃんが私に気付き手を振った。
『おーい! 美咲さーん!』
『千佳ちゃーん! おまたせっ!』
『早速、コテ見に行きましょうか!』
私たちは大型ショッピングモールの中に入っている家電などを取り扱っている店へと入っていった。
そしてヘアドライヤーなどが置いてある一角へと着くと彼女は商品のコテの下にあるパンフレットのようなものを手に取った。
一括りにコテと言っても選び切れないほどの種類がある。
私が学生の頃一度買おうとしたがどれを選んでいいのか分からず買わずじまいになってしまったのもこれが理由だ。
『コテって色々種類があって何を選んだらいいのかサッパリわからないんだよなー』私はそう言って目の前に並んでいるコテを一つ手に取った。
『まずは温度とパイプの太さですかねー。 ちなみに美咲さんが今手に持ってるのはパイプがすごく細いです。 髪が短い人だったり細かいカールをつけたい時に使ったりします』
『そうなんだね……』と小さい声で私は頷いて手に持ったコテを置いた。
『美咲さんくらい髪が長くて、今朝雑誌で見た緩く巻いた感じにしたいんならこれ位パイプ太くてもいいかなぁ……温度も高いし』
そう言って彼女は32mmと書かれたコテを手に取った。
そして値段をチラッと見て『——わわっ。でもこれ結構値段しますね』そう言ってコテを棚に戻した。
私は彼女が棚に戻したコテを手に取り
『これ使いやすい?』と尋ねた。
『多分めちゃ使いやすいです。 業務用でもいけるんじゃないですかね?』と彼女は少し苦笑いをした。
『じゃあ、これにする!』と私は少ししゃがんで下にある展示品と同じものが入った商品の箱を一つ手にとった。
『やっぱり社会人は違いますね。 高いもの即決だもんなぁ』
私は彼女を見て首を振った。
『うぅん、違うよ。 私は24年間し忘れていた自分への投資みたいなものだから、これじゃ全然足りないくらいだよ』
『でも、美咲さんは元がいいから大丈夫ですよ』
と彼女は笑った。
『千佳ちゃんってさ、なんていうか……持ち上げ上手だよね?』
『……んー、そうですかね? ただ思ったこと言っているだけですが』
『お礼に後でご飯いこっか!』
『えー、やったー』と彼女は小さくガッツポーズをした。
そして商品を持ってレジに行こうとする私を引き止めて近くにいる店員さんに手を上げてこっちへと呼んだ。
彼女は私の持っている物より少し値段の低い商品を手に取り店員さんに話しかけた。
『すみません、どっちにしようか悩んでいるんですが……』
彼女は両方の商品の説明を聞いて顎に手を当てて悩てんでみせた。
そして、私の持つ商品を指差し『こっちが良いんですけど、値段がなぁ……』と少し表情を曇らせた。
『お値段の方はお勉強させていただきます』と店員さんは笑顔で返答した。
そして店員はズボンのポケットから電卓を取り出し値引きの計算を始めた。
その瞬間に千佳ちゃんがニヤッとしたのに私は気付き吹き出しそうになるのを必死で耐えた。
彼女は若いのにすごい子だ。
とっさに手に取った欲しい物より少しだけ値段の低い物を比較対象に持ってくるあたり
少しでも高い物を売りたいと思う店員の心理をついた上手い交渉術だとも感じる。
自由に使えるお金が少ない学生なりの世渡りの術なのだろう。
『勉強になります』と私は彼女の耳元で囁いた。
『浮いたお金でスカーフも見に行きましょうか』と彼女は少し悪い顔をして笑った。
会計を済ませ家電量販店を出た後に私たちは違うフロアにある若い女性向けの洋服店へと入った。
入り口にはピックアップ↓と書かれた可愛いらしい手書きのポップが貼られていて彼女はその入り口のおすすめコーナーへと向かった。
『美咲さん、雑誌に載っていたのこの服じゃないですか?』
私はそこのコーナーへと向かうと可愛いポップの下には
雑誌に掲載されました!とデカデカと書かれた文字と一緒に私が見ていた雑誌の写真の切り抜きのような物も飾られていた。
『うん、これだ……』
そこには何度も何度も見返した雑誌のモデルさんが着ていたふんわりとしたキャメルのニットと薄いベージュの広がったスカートやその色違いの服が売られていた。
そしてその隣にはシルバーのラックにかけられた色とりどりのスカーフもあった。
私は少し興奮気味にその服を手に取った。
『ここのブランドの服だったんですね! 雑誌に載っていたの』の彼女は言ったが私は感動のあまり言葉を発することなくただただ頷く。
『私、これ全部ほしい……』
『えっ? 全部ですか?』と彼女は目を丸くして驚いた。
私は無心で色違いの服を手に取った。
『——美咲さん、試着はしっかりしましょうね! 着たらイメージと違うってこともありますから!』と慌てて言った。
最近私はこんなにも感動したことがあっただろうか……
大袈裟かもしれないけれど、でも何度も雑誌で見返したこの服は私にとっては有名人に会ったようなそんな感覚にも少し似ているような気もする。
そして、何枚か試着を済ませてMサイズの物を買うことにした。
ワンピースやカーディガン、雑誌に載っていた薄いニットのものからスカートなどかなりの量を選んだ。
例えていうならば今日から女性を始めました。
とでも言うほどの大量の服を服を千佳ちゃんにも持ってもらいながら二人でレジへと向かった。
『こちら合わせまして、20万6800円となります』
その店員さんの言葉に千佳は目を丸くして唖然とする。
私は財布からクレジットカードを取り出し『一回払いでお願いします』そう言って店員さんにクレジットカードを手渡した。
そして入り口の前で大きな紙袋三枚程に分けられた服を私は両手で受け取り店を後にした。
『——美咲さん、大人の女性って感じだなぁ』と言って千佳はグラスのミルクティーに口をつけた。
『そうかな?』と言いながら私はテーブルの上に並べられたスプーンを手に取りチョコレートパフェを頬張った。
そして、そのパフェの冷たく甘い味に『おいしっ!』と呟いて少し微笑んだ。
『私だとかが、どうしようかなーって悩んじゃう場面でもなんでも即決じゃないですか。 ここからここまで買う!みたいな感じで。 なんか見ていて気持ちよくなっちゃう位に』
『うーん、今日は即決だっただけで私意外と悩み症だよ? 基本優柔不断なんだー。 で、結局悩んだ末にやっぱり辞めちゃおうって楽な方に逃げちゃうんだ。 やっぱりこのままでいいか。っていっつも』
そう言ってパフェの上に乗ったウエハースを手で取り口の中へと運んだ。
『——それって恋愛の話ですか?』と千佳はグラスを持って少し前に身を乗り出した。
不意に確信をつかれた私は口の中で噛んでいたウエハースの粉が喉に張り付きそうになってゴホッゴホッとむせた。
『よくゼリー2つ買っていましたよね! 美咲さんの彼氏さんってイケメンなんですか!?』
『……うーん。 こんなこと言っちゃって良いのかな』
私のなんとも言えない表情を見て千佳は『どうしたんですか?』と心配そうに私を見つめた。
『……えっとね、実際のところ彼女でもないんだ私。 だって2番目だから……』
千佳はグラスのストローを回す手を止めて私を見つめた。
『それは彼女がいる人ってことですか?』
『……そういうこと。 最低だよね私』
千佳は少し、うーんと考えて話し始めた。
『私はどういう状況で二人がそういう関係になったのかは分かりませんけど、どちらか一人が悪いってこともないと思います。 彼女がいるその人が美咲さんとそういう関係になったのも悪いと思いますし、美咲さんも彼女がいるとわかっていながらっていうのも同じですよね……』
『わかってるんだ。頭ではちゃんとわかっているの。 ……でもね、好きなんだ』
そう言って私はバックから携帯を取り出して続けた。
『明日ね、私の誕生日祝ってくれるって彼からメッセージがきてね返信まだしていないんだけれど。 正直なところ今すぐ、行きたい!って返したい。 けど悩んでる変わりたいなって思ってるから……けど、きっと会ったらやっぱり離れたくないって思っちゃうから……』
『……もし、その彼が彼女を振ってやっぱり美咲さんと付き合いたい!って言ってきたら……美咲さんはどうしますか?』
『……うーん。 私、どうするんだろう……』
『美咲さんが後悔しない選択が一番です。 ですが、まぁ私はそんな浮気するような信用ならない男すぐ切り捨てますけどね! ズバッと!
だって、自分が彼女になった時もそういうことがなきにしもあらずじゃないですか!? 絶対嫌!』と千佳はストローを使わずにミルクティーをググッと飲み干した。
千佳ちゃんみたいに切り捨てる決断がしっかり出来れば
きっとすごく楽になる。
でもやっぱりそれを選べない、何処かで何かを期待してしまっている自分がどこかにいる。
私は亮太のメッセージを見つめて、テーブルの上のグラスを手に取り喉に流し込んだ。
『忘れられるならとっくに忘れてるんだよなぁ……』
次の日の朝、今日も私はいつものように早く目を覚ました。
けど今日は土曜日で仕事は休みだけれど早起きが日課になってしまっているせいか二度寝することも出来ずにベットから体を起こしてリビングの方へと向かった。
そして、ソファーの横には昨日千佳ちゃんと一緒に買いに行ったコテと大量の服が袋から出ずに置きっぱなしになったままだ。
私は洗面所から歯ブラシを取ってそれを咥えながらスマホを手に取り、昨日帰りに千佳ちゃんが教えてくれたヘアセットの動画を見ながらソファーへと腰掛けた。
しばらく動画を釘いるように見た後
私はスマホを持って思い立ったようにソファーから腰を上げ
洗面所でうがいを済ませて洗面台の棚からヘアゴムを何個か手に取りリビングへ向かった。
昨日買ったコテを箱から出して説明書を見ながら慣れない手つきで温度設定をした。
『んーと、あまり高い温度ですると髪が傷んでしまうのか……あと火傷に気をつけよ』と私は一人リビングで呟きながらソファーの前にあるテーブルの上にスマホとその隣に小さい鏡をセットして自分の後ろ髪を束に取ってコテで内側へと緩く巻いた。
そして、髪全体を巻き終わると、またヘアアレンジの動画をジーッと見ながら見様見真似で自分の髪を編み込んでいく。
『おっ、初めてにしては上出来じゃん……』と私は鏡の中の自分に話しかけた。
そして私は大きな袋の中からスカーフと雑誌のモデルさんがきていたものと同じ薄いニットのセーターとベージュのスカートを取り出して着替えた。
そして、そのまま寝室のクローゼットの前にある姿見の大きい鏡の方へ行き自分を眺めた。
『……なんか違う』
髪型も髪につけているスカーフも上から下まであのモデルさんと同じはずではあるのに何かが決定的に違う。
なんというか垢抜けていないというか私の堅いようなイメージがそれを邪魔しているような感じがした。
バックから雑誌を取り出してまたそのモデルの写真を眺めた。
『髪の色変えたいなぁ……あとメイクも』
スマホでいつも通っている美容室に予約の電話をかけた。
運がいいことに昼から予約が空いているとのことだったので『その時間でお願いします』といつも担当してくれる美容師さんにその時間に予約を入れてもらい早速、家を出る準備をし始めた。
まだ美容室の予約をいれた昼までは少し時間のある午前中に私は着慣れない新品の服を着て駅前の以前に愛沢と一緒に行った大型ショッピングモールへと足を運んだ。
そして入り口で店舗を確認してからエスカレーターに乗って目的のフロアへと向かった。
化粧品の専門店が何店舗か入っているフロアへ着くと
そのきらびやかさに少しだけ足がすくんだ。
いつもは百貨店で自分なりに選んでしていたが千佳ちゃんと話していて自分の知識のなさを痛感してしまったから割と意を決してここへきたつもりだ。
が、やっぱりどのブランドが自分の肌に合っているのかも分からず挙動不審に店の前をキョロキョロしてしまう自分がいた。
『——なにかお探しでしょうか?』
ある店舗の綺麗な一人の女性が私に話しかけた。
髪を後ろで綺麗にまとめて黒いスーツを身にまといパリッとしたメイクの笑顔が素敵な女性。
『……あの、私……どれが良いのかわからなくて……』
私は緊張のあまりカタコトでその女性の顔も見ずに小さな声でそう言った。
『わかります。たくさんあるので悩んでしまいますよね』
とその女性は私を包み込むような優しい笑顔でそう言った。
『——無料ですので、よければお肌のカウンセリングだけでもしていきませんか?』
『はい』と私は頷いてその一度も使ったことのない化粧品メーカーの専門店の中へと入っていった。
奥の席へと案内されて席へ着くとまず自分の肌のタイプを知る為に専用の機械で肌の水分量や油分とのバランス、肌のキメなの様々なことを知ることができた。
『お肌とてもお綺麗ですね』とその綺麗な店員さんはモニターを見ながら褒めてくれたりしたが私はなんて言って良いのか分からず『そうですね』と自意識過剰な発言をしてしまったがその店員は特に笑ったりもせずに優しく微笑んでいた。
そしてメイクは毎日のものであるから自分の肌にあったものが一番良いと言って大量の試供品をくれたり
ファンデーションの塗り方から、まゆの整え方、アイメイクやポイントメイクの仕方まで無知な私が納得するほど丁寧に色々と教えてくれた。
そして、私は店員さんがメイクを施し終えた後に鏡を見て愕然とした。
『すごい……自分じゃないみたい……』
メイクでこうも人は変わるものなのだろうか。
じゃあ、私が今までしていたメイクはなんだったのだろうって話になってしまうのだけれど、そんなことよりもプロの方の技術はとてもすごいと身をもって痛感した。
そしてその技術を出し惜しみすることなく無知な私でも明日から出来るくらい、分かりやすくとても丁寧に教えてくれた。
そしてもう一つ一番驚いたことが店に来てから一時間半ほどが経過しているがまだ料金が一円も発生していないということだ。
それどころか技術を丁寧に教えて、大量の試供品を私に渡してむしろマイナスじゃないか?と思ってしまう。
最後まで店員さんは押し売りなどもすることなく試供品試してみてくださいねと微笑んで店から出る私を見送った。
これもイメージと全然違った。
勝手なイメージでこういった専門店に入ってしまったら最後。
買うまで帰れないような、逆に気を使って買わなくてはいけないような空気になってしまったりするものとばかり思っていたのに全然違うじゃないか。
私が思っているより世界はもっと優しい。
けどこれは自社の商品に絶対的な自信があるから出来ることだろう。
一度使えばその良さが絶対わかる。
だから無理に買わせようとする必要もない。
分かる人にはその良さがわかるからだ。
おいしいパスタの法則か。
……その良さが分かれば離れられなくなってしまうのか。
恋愛にも似てる気がする。
無理に引き止めたりしなくても、また会いたくなってしまうような心理がとても。
おいしいパスタの法則は仕事だけじゃなくって恋愛でも重要だ。
私はショッピングモールを出た後に行きつけの美容室へと向かった。
そこは私が社会人になりたての頃から通っている私にとっては唯一と馴染みの店と呼べる場所でもあった。
まぁ、でもここに三ヶ月に一度程のペースで通っているのはこの店が良い。というよりも私をいつも担当してくれる山田さんという私と同じ歳の女性の美容師さんにしてほしいから通っている。
山田さんは可愛らしい丸い目が特徴的な気さくな人だ。
気さくではあるけれど、話過ぎてうるさい訳でもなく話し下手な私の話を親身になって聞いてくれるような落ち着いた女性だ。
カットをしてくれる時もこうしたい!という私の要望をしっかりと細かく聞いてくれる。
そして、その上でもっとこうしたら良くなるんじゃないかと提案してくれたりと繊細な仕事をする信頼できる人だ。
『いらっしゃいませー』
私が美容室の入り口のドアを開けるとそれに気付いた担当の山田さんが私に近寄ってそう言った。
『昼から予約していた鳴海ですが……』
山田さんは私の姿を見て口に手を当てて目を少し見開いて驚いた。
『鳴海さんですよね? いつもと雰囲気が全然違うのでびっくりしちゃいました!』
私はあははと笑って頷いた。
『髪のスカーフとってもお似合いですね! ではこちらへどうぞ』と山田さんは少し混雑している店内の奥の方の一つだけ空いている席に手を向けて私を案内した。
『——今日はカラーとカットと伺っていますが、どのような感じかイメージなどは決まっていますか?』
『いえ、あまり髪を染めたこともないので、どうしようか悩んでたんですが……仕事に支障をきたさない程度に少しだけ明るい感じにしたいなぁと思っていて』
『そうなんですね。 少々お待ちくださいね』と山田さんは私の座っている席の後ろの棚からカラーリングのサンプルを持ってくれた。
『……なんていうか、温かい雰囲気な感じにしたいんです』
と私はカラーのサンプルをジーッと見つめてそう言った。
『オレンジとベージュを合わせた色なんてどうでしょうか? そんなに赤味が強調される訳でもなく、ほんのりとした色で柔らかなイメージになります。 今日のような感じで緩い巻き髪にすれば優しい印象になると思いますよ』
『——それでお願いします!』私は悩みもせずに即答で決めた。
山田さんが丁寧に髪にカラー剤をつけ終わり待ち時間の間、私は何気なくスマホを開いた。
また亮太からメッセージが来ていたが私は開くことなく少し考えた。
ここで返信してしまったらきっとまたズルズルと
現状が変わることなく同じことをきっと繰り返してしまうだろう。
今すぐ返信してしまえば今だけはすごく気持ちが楽になるかもしれないけれど
長い目で見ればきっと後から楽になるのは後者の方だ。
今日誕生日を祝ってくれるとは言っていた。
それはとても嬉しい。
すごく嬉しい。
出来る事なら今すぐ飛んでいきたい。
きっと私がこうして自分磨きを頑張っていたのは。
いや、頑張れたのは。
きっと亮太に見せたかったっていう気持ちも少なからずあるから。
『——カユいところありませんか?』
山田さんはシャワーで私の髪にまとわりついたカラー剤を洗い流した。
私は洗髪中に山田さんが顔に水がかからないようにと顔に覆ってくれたタオルの下で涙が流れた。
目を瞑ったら亮太との思い出をたくさん思い出してしまって。
いつか言ってくれたなぁと思って。
私の黒い髪が好きだって。
私が今まで髪を染めなかったのも
そう言ってくれた言葉が頭の片隅には確かに残っていたからかもしれない。
すごくすごく好き。
2番目でもいいやって思ってしまう程好き。
だから終わらせよう。
山田さんは私の髪を乾かした後にヘアセットをしてくれた。
『とても良い色ですね。 お綺麗ですよ』
鏡に写る赤味がかった髪の私を見て山田さんは微笑んだ。
私は黒髪ではなくなった鏡の中の自分を見て涙が溢れて俯いた。
『……私、少しは変われたでしょうか?』私はそう呟いた。
『鳴海さん? 私、色んなお客様を見ていて思うんです。
これから何か大切な出来事がある方が髪を切りに来たり、
心機一転頑張ろうって思ってこの店に来る方。
様々な方がいます。
オシャレをしたり、その身だしなみを整えるって一見自分の為のようにも思えたりもするですが……
周りを思いやる気持ちだとも思うんです。
だってほら、自分の姿を見ている時間よりも相手に見てもらえる時間の方が多いじゃないですか。
きっと鳴海さんは前よりも少しだけ相手のことを思いやる気持ちが強くなったのではないでしょうか?』
山田さんは両手で優しく私の肩をさすった。
『——鳴海さんは変われると思います!』
私は一つだけ勘違いをしていたのかもしれない。
外見をキレイに取り繕ったから変わるんじゃない。
綺麗になる事が目的ではなくてそれは小さなきっかけにしか過ぎない事なんだ。
今より豊かに過ごしたい。
都合の良い女じゃなくて、ちゃんと愛されたい。
そして素直に好きと伝えたい。
私の為に何日も前から予定を空けてほしい。
私は掛け替えのないたった一人の女性になりたい。
朝、バス停でバスを待つ女の子に私は話しかけた。
『千佳ちゃん、おはよ!』
彼女は私の声に気付き振り返り私を見て目を丸くした。
『えっ!? 美咲さん!?』
『新しいスーツ買っちゃった!』そう言って私は照れながらいつもの堅いスーツではなくベージュのカジュアル目のスーツの袖を触った。
『スーツもそうですが……なんか全体的に違う! 髪の色もメイクも!』と彼女は私の周りを一周ながら見渡した。
『……私やり過ぎじゃないかな? 大丈夫?』
『大丈夫大丈夫! バリ綺麗です』と彼女は親指を立ててグッドサインをした。
『バリ……?』私はなんとも言えない表情をして首を傾げた。
それからバスの中で千佳ちゃんから、通っている学校の卒業生のデザイナーの人がドレスのモデルを探しているから、一度その人と会ってみてほしいと半ば強制的に勧められた。
詳しい話はわからないけれどドレスを着ていつも通り笑っているだけの簡単なもののようだったのでとりあえず私は了承して日程が決まり次第、千佳ちゃんがまた連絡してくれるとのことだった。
『全然緊張しなくて大丈夫ですよ! ただ前の日に食べ過ぎてお腹ぽっこりとかは気をつけて下さいね!』と彼女は笑いながら私のお腹をさすった。
『くすぐったいからやめて!』と私は体をくの字にして笑った。
……モデルなんて一度もしたことないけれど大丈夫かなぁ。
でもきっとそんなに大きいものでもないのかな……とその程度くらいにしか考えてはいなかった。
いつものようにバス停を降りて私は職場のあるビルの中へと入った。
いつもよりみんなに見られている感じがして私はやはりやり過ぎてしまったかなぁと少し後悔していた。
『——えっ……鳴海さん?』とオフィスへと向かう私の前を歩く愛沢が私に気付いて私に近づいてきた。
『あっ……愛沢さんおはようございます!』と私は微笑んだ。
『すごい雰囲気変わってるけどどうしちゃったの!?』と愛沢は驚いた表情をした。
私はうーん。と少し照れて笑った。
そして少し顔を上げると愛沢の髪が少し短くなっていることに気付いた。
『……愛沢さん、髪短くした?』
彼女は私から少し目線を外し一瞬表情が曇ったように見えた。
そしてなんというか今日の愛沢はいつもとは違い目が少し腫れぼったいというか少し疲れている様子だった。
『……うん、ちょっとね』と彼女は悲しい顔で笑った。
私は深掘りすることはせずに『そっか』と頷いた。
私と愛沢に少し無言の時間が流れた。
余計なことは言わない方がいいんだろうか。
まだ愛沢の彼氏が亮太という決定的な確信もない。
ただ亮太の部屋のカレンダーと同じ日に同じ三年記念日だっただけのことだ。
もしそうだったとしても
全て無かったことにした方が全員、楽になる。
きっと亮太も私も愛沢さんも。
けど、もし相手が愛沢さんだとしたら本当に知らない方が幸せなのだろうか。
もし仮に私が亮太の正式な恋人だとしたら知らない方が本当に楽なのだろうか。
『——愛沢さん?』私は愛沢を真っ直ぐに見つめた。
『……ん?』と愛沢は顔を上げて少し腫れた目で私を見つめた。
『今日仕事が終わったら少し私に時間をください』
『……どうしたの鳴海さん? 改まっちゃってさ』愛沢は苦笑いをした。
何が正解かは私にはわからない。
違うならそれに越した事はないし、それでいい。
でも全てなかったことになんて出来ないから
そんな軽い気持ちで私は一緒にいた訳でもない。
だから亮太の相手には偽りなく伝えたい。
『——どうしても、一つだけ確認したい事があるの』
もし自分が一番目だとしたら私ならきっと伝えてほしいから。
オフィスで自分のデスクに着いて仕事を始めるといつもは挨拶も返してくれないような男性社員からも話しかけられたりした。
いつもより愛想笑いをする事が多いせいか午前中で私の表情筋が悲鳴を上げた。
明日からはマスクを付けてこようかな。
マスクを付けていれば目元しか見えないから口角を上げずに済む。
『鳴海、大人気だなぁ』と岡田先輩は周りに愛想を振りまく私を見てケラケラと笑っていた。
『仕事に集中しようとしたら話しかけられたりするので、お陰で全然仕事が進まないです』と私は小さくため息をついた
『鳴海はそれくらいで良いんだよ。 いつもが仕事頑張り過ぎだからやっと普通のペースになったようなもんだよ』と先輩は笑った。
『——じゃあ俺、腹減ったから昼食べてくるかなぁ』と先輩は両手を広げて体を伸ばしながらそう言った。
『先輩、お弁当ですか?』と私は尋ねた。
『お弁当作ってくれる相手いないから寂しく外で食べてくるよ』と私に背を向けてオフィスの出入り口の方へと向かい始めた。
『ご一緒してもいいですか!?』と言って私は椅子から立ち上がった。
『全然良いけど、珍しいじゃん』と先輩は振り返って少し驚いた表情をした。
『……私もお弁当作る相手いないので』と私は笑った。
オフィスを出て先輩がよく行くという近くの定食屋さんへと入った。
店の中へ入るとそこには私たちと同じ昼休み時間のサラリーマンで溢れていて私たちはカウンターの席へ隣同士で座った。
そして若い女性の店員さんがお冷を持ってこちらへと来た。
『あ、いらっしゃいませ! 今日も暑いですね』とその若い店員さんは先輩に仲良さげな感じでそう話しかけた。
『暑いねー』と先輩は顔を手で仰ぎながらメニュー表を手に取り私の方を向いて『鳴海、何にする?』と私に尋ねた。
その時初めて、若い店員さんが隣の私が先輩の連れである事に気付いたのか一瞬だけ表情が曇ったように見えた。
そして、私がメニューを見ている間に先輩は若い店員さんと何やら世話話をしていた。
私はメニューを見ながら先輩と楽しそうに話す店員さんの顔をチラッと見た。
その女性の店員さんの表情を見て私は察した。
この女性は多分先輩に好意がある。
確証はないけれど、いわゆる私の女の感というヤツだ。
確かに先輩は世間一般でいうイケメンという部類に入ると思う。
そして人見知りという概念がないんじゃないかってくらい人当たりが良い人だ。 たまに自分に好意があるのではないかと錯覚してしまう程のその優しい微笑みはなんというか本能的な部分で惹きつけられるような感じもする。
まぁ、でもそれは表向きなものであって。
先輩の所々に見られる几帳面さを見逃してはいけない。
着ているワイシャツだけを見てもそれが伺える。
30歳手前の一人暮らしの独身男性が毎日シワ一つないワイシャツを着て出社しているんだから、これは同棲し始めたらきっと一般の女性はその先輩のストイックさに耐えられなくなり泣いて実家に帰る事になるだろう。
私は心の中でこの人だけは止めておけ。と呟いた。
『私、焼き魚定食でお願いします』と店員さんに伝えた。
『じゃあ、俺もそれで』と先輩は店員さんにそう言って私からメニュー表を受け取りメニュー立てにそれを戻した。
『——ここの定食屋さんよく来るんですか?』と私は尋ねた。
『うん、割と来るよ。 あの店員さんよくサービスしてくれるからね』
『へぇー』と私は頷いた。
『鳴海、最近は順調? 色々と』
『……うーん。 これから順調にしたいと思ってます』
『そっか』と先輩はおしぼりで手を拭きながら頷いた。
『最近ずっとモヤモヤしてる事があって今日確かめようと思ってるんです。 きっとこの事をうやむやにしていたらいつまで経っても前に進めないから……』
『そっか、気になるんならそのままにはしない方がいいね』と先輩は言った。
私は『はい』と頷いて水を飲み干した。
私は就業時間が終わると愛沢を連れて駅前の若いお客さんがあまりいないような昔ながらの喫茶店へと入った。
そして、店員さんに奥の二人掛けの席へと案内された。
愛沢は肩からバックを下ろし手に持ったスマートフォンをテーブルの上へと置いて席についた。
テーブルに置かれた愛沢のスマートフォンの画面を見て私は固まった。
間違いない。愛沢さんの恋人は亮太だ。
今までの私の疑念は確信へと変わった。
『鳴海さんどうしたの? 私に話があるって言ってたけど……』
私は頷きながら大きく深呼吸した。
いつもとは違う異様な私の様子に愛沢は少し不安そうな顔をした。
『——私に言いづらいこと?』
私は『うん、とても……』と言って頷いた。
『……なんだろう。 悪い事だったら嫌だな……』と愛沢は少し目線を落とした。
『愛沢さん、私ね——』
『——私鳴海さんに嘘ついてた』
『えっ……』
思いがけない愛沢の言葉に私は固まった。
『彼氏と付き合って三年記念日だ。って言ったのあれ嘘なんだ。 あの日ね彼に別れようって言われたんだ……』
『そうなんだ……』と私は呟いた。
『……こんな話急にしてごめんね。けれど、私どうしていいかわからなくって……』
愛沢はそう言って小さい肩を震わせながら大粒の涙を流した。
泣いている愛沢を見て、私は心臓を縄できつく縛られたように胸が締め付けられた。
どうにかしたいけれど、自分の力ではどうにもらない事。
誰かに助けてほしいけれど、言ったところでどうにもならない事も全部。
とても自分に似ていて、愛沢の涙をどうしても他人事とは思えなかった。
『愛沢さん?』
『……ん?』と、愛沢は目頭に涙を溜めながら私を見つめた。
『亮太くんには、自分の気持ちしっかり伝えた方がいいよ。 後悔しないように……』
本当のことは言えなかった。
弱りきっている彼女をもっと追い込んでしまいそうだったから。
そうしたのは今の彼女が自分にとても似ていたからなのか
それともそうした方が良いと心の中で思っていたのかは自分でもわからない。
けど、やはり私は愛沢を差し置いて亮太と一緒になったとしても本当に心の底から幸せだとはきっと感じられない。
『ありがとう……鳴海さんってホントに優しいね』
『……そんなんじゃないよ』
そんなのじゃないんだ。
優しくなんてない。
私は亮太と一緒に過ごした日々を全く後悔もしていないし
愛沢に悪いことをしたなって気持ちなんてこれっぽっちもない。
世間一般では浮気という言葉で片付けられるかもしれないけれど
それでも私はちゃんと恋をしていたし、無駄だとも思ってない。
だから大切に心の中にしまっておこう。
亮太と一緒にいた日々は誰にも知られることのない日々だけれど
でも誰かに知ってもらう事が重要なのではなくて
大切なのは一緒にいたっていう事実だけだから。
『——ごめんね、自分の話ばっかり。 何か頼もっか』
と愛沢は涙を拭きながらテーブルのメニュー立てからメニューを手に取った。
私は何も言わずに無言で頷いて愛沢の持つメニュー表を見つめた。
喫茶店を出て愛沢と別れてから私は家には向かわず亮太の家の合鍵を返す為に家へと向かった。
合鍵を借りたままにしておくわけにはいかないし
持っているだけで悲しい気持ちになってしまうから心変わりしないうちに出来るだけ早く返したかった。
亮太の住むアパートの前に着くと私はバックからキーケースを取り出してケースに付いている亮太の部屋の鍵を外して部屋のドアに付いているポストの中に合鍵を入れた。
そしてキーケースをバックにしまってスマホを取り出した。
ずっと確認していなかった亮太のメッセージをひらく。
亮太: 明後日空いてるかな? 美咲の誕生日遅れちゃったけれどお祝いしたくて。
——ほんとはね。 私、その日にしてくれるって言葉をずっと待ってたよ。
亮太: 仕事忙しいのかな? 明日、美咲に大切な話があるんだ。気付いたら連絡ほしい。
亮太: 連絡くれるまでずっと待ってるから。
——何も知らずにいられたら今とは全く違う結果になっていたかもしれない。
その時は嬉しくてきっと。
きっと私は一直線にあなたの元に飛んでいってたよ。
『今までありがとう……』
こんな形でさよならしてごめんね。
けど会ってしまったら私はきっと心変わりしてしまいそうだから。