【完】鵠ノ夜[上]

◆ 曖昧なまま、滴り落ちて








平和な日常が一変する時は、いつだって一瞬で。

そんな前兆なんてどこにもない平穏な日々という水の中に、カラーインクを滴らせるようなもの。



ぽつりと落ちたインクは、瞬く間に透明だった水を侵食していく。

そこに抵抗というふた文字が存在したかどうかを確認する間もないほど、あっという間に、呆気なく。



「っ、はとり……!」



その名前を呼んだのが自分だったのか他の誰かだったのかは、わからなかった。

いつだって冷静で誰よりも大人だったはとりが、まさか。……そんな行動に出るなんて、誰も、予想していなかったから。



「はとり、やめろって……!」



「柊季、下がってろ」



「下がってられっかよ……!

お前いま自分が何してるかちゃんとわかってんのか!?」




頼むからその手に込めた力を弱めろって……!

強引に引き剥がそうとしても、意地で力を入れてんだかまったく離れない。押しつぶされそうな焦燥感の中で、振り返って声を上げたのは無意識だった。



「雨麗……!」



この空間の中でも異質なほどに落ち着いた様子で。

唐突なはとりの行動に唖然とするほかのヤツらを差し置いて、ただ静かにその様子を見ていた──俺らの、飼い主。



「こいつ止めねーと本気で殺すぞ!?」



真っ黒なその瞳で。

純粋無垢に見えるその瞳で。一体、どれだけの薄汚れた真実を、見てきたっていうんだ。



「……はとり。手を離しなさい」



冷えた空間に、色もなく落とされた声。

白い肌に残った赤い痕から、無意識に、目を逸らした。──すべては消えることのない、残酷な真実の中。



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