【完】鵠ノ夜[上]
その言葉の意味を分からないほど、わたしはもう子どもじゃなかった。
ませていると言われてしまえばそれまでだが、幼い頃から嫌という程見てきた、大人の腐ったどす黒い世界。
結婚が嫌で駆け落ちしようとした娘を、婚約者の男に強引に襲わせ、強制的に結婚に持ち込んだという嘘みたいな話だって、聞いたことがある。
……逆に、女性が仕掛けるハニートラップの話も、幾度となく聞いてきた。
だからって慣れるわけじゃない。
醜い話にも薄汚れた感情にも、嫌悪感がどうしようもなく増すだけ。
憩と付き合っているわたしにとっては、余計に、傷ついた女性の気持ちは心に痛かった。
好きでもない男に触れられる。──しかもそれが強引だったら、と。考えるだけで、気持ち悪い。
「襲われて……それで?」
「彼女様は相手が誰だったのかについては口を閉ざされていたようです。
天祥様は、それでも大切な彼女様のために、結婚して自分の子として面倒を見られるおつもりだったようですよ」
18歳になったら、と。
付け足した小豆が、散らばった書類を纏めてから、机の開いた部分にカップを置いてくれる。和室の中で透き通るオレンジ色の紅茶はどことなく異質だ。
「なら、どうして……彼女は、」
「天祥様の優しさが……
おそらく、彼女様には痛かったんでしょうね」
「、」
「彼女様は一般家庭に生まれた方だったようです。
自宅マンションの屋上から、身を投げたと」
真っ白な雪の降った日。
白を染める真っ赤な鮮血は、やがて時間とともに黒く変色していく。──積もっていた雪も薄かったため、クッションとして彼女を守ってくれることはなかった。
「愛し合っているお方が、どれだけそばにいても。……どれだけ、愛し合っていたとしても。
不可抗力の罪悪感には、勝てなかった」
彼女自身は、悪くない。
そして彼女をただ愛しただけのはとりも、何も悪くない。……なのにふたりの恋情はこんなにも悲しく引き裂かれて、後味の悪さだけが舌に残る。