【完】鵠ノ夜[上]
「──失礼致します」
彼女が言ったように、食事は別々ではなく彼女も一緒に。
騒がしい空間の中、突然入ってきたのは、彼女の父親に仕えている専属使用人。胡粋と雪深の間で楽しげに会話をしていた雨麗が、途端に背筋をピンと伸ばした。
「……何の用件かしら」
「奥様から伝言です」
意外だったのか、彼女もわずかに目を見張る。
ここに来てから何度か、彼女が父親と会話している姿は見かけたものの、彼女の母親は最初に会った時以来、一度も見かけていない。
何なら、この本邸から離れて暮らしているんじゃないかと思っていたほどだ。
雨麗が行方不明になった時も誘拐されたと御陵に戦慄が走った時も、彼女は一度も顔を見せなかった。
それどころか、心配する声の一つすら。
「数ヶ月、こちらを離れる、と」
「……そう。
ずっと閉じこもっているよりもその方が有意義だわ。あまり遠くないなら、顔を出すけれど」
「おそらく御陵の範囲内からは出られませんので、関東圏内だと思われます。
詳細は、旦那様に聞いていただければ確実かと」
「わかった。……下がっていいわよ」
恭しく一礼して、部屋を出ていく彼。
「離れるっていうのは?」と遠慮のない胡粋の問いかけにも、雨麗は嫌な顔一つしない。そもそも、雨麗は否定的な意見を滅多に出さない。
「そのままの意味よ。
お母様は元から精神状態が良くないの。……跡継ぎ問題が深刻化してからは、余計にね」
……だから、あまり表に顔を出さないのか。
正確には、顔を出せるほど安定していない、ということだ。初対面の時はそういう雰囲気は感じなかったが、あれは安定していたんだろう。