【完】鵠ノ夜[上]
エレベーターの中で唐突に不安そうな顔をする雪深。
別に雪深が罪悪感を感じるようなことは何も無いんだから、もっと堂々としていたって構わないのに。相変わらず変なところで彼は律儀だ。
「旦那さん、ゴルフが趣味で土日は基本いないらしいわよ。
いたとしても普通に押しかけるけど」
「……お嬢が御陵のお嬢だってこと今すげえ実感したわ」
「褒め言葉として受け取るわね」
高級マンションの六階。
部屋の前で小さく息を吐いてから、チャイムを押す。雪深はなんとも言えない顔をしてたけれど、やっぱり、最近の彼は人間味が増した。
『はい』と、中からチャイムへの応答。
すぐには出てきてくれないかと思いつつ、急遽でっち上げの嘘をつく。「すみません、隣に越してきた者です」と言えば、どうやら相手は出てきてくれるようだった。
ちなみに隣が空き家だったことは確認済みである。
「お隣さん?
全然物音とかしなかったから気づかな、」
かった、と言いかけた彼女が。
彼の姿を視界に収めた瞬間、扉を閉めようとしたけれど。それももちろん想定済みで、失礼ながら足で閉まらないようにしておいたわたしは、にこりと微笑む。
彼女の腕にはまだ産まれてから間もないであろう赤ちゃんがいて、片手しか使えない。
扉を強引に閉めるのは、もはや無理に近い。
「ちょっと、」
「すみません、おそらく正直に名乗っても出てきていただけないだろうと思ったので。
……抵抗せずに聞いていただけるなら数分で帰ります」
騒がしくしていたらご近所さんに怪しまれますし、と。
付け加えれば、さすがに彼女も抵抗をやめた。高級マンション内で、旦那が不在の途中に元彼が来たなんて噂になったら洒落にならないものね。
すぐに理解してくれるあたり、やっぱり切れ者なんだろう。寿退社する前に働いていた企業も、有名な一流企業だった。
雪深、と名前を呼んで振り返れば、彼はわたしと繋いだ手に力を込める。それから、口を開いた。