3次元お断りな私の契約結婚
「一段落ついたあ」
伸びをしながらそう独り言を言ってリビングへ足を踏み入れた時、ソファに座って何やら書類を読んでいる巧さんが目に入り一瞬止まった。いないかと思ってた。
彼はぱっと顔を上げて私を見る。長い足を組んで高級ソファに座るその姿は悔しいほど絵になっている。
「終わったか?」
「あ、うん。とりあえず」
「冷蔵庫に飲み物あるから好きなの飲んでいい」
それだけ短くいうと、彼は書類たちを適当にテーブルに投げる。目が疲れたのか眉間に皺を寄せていた。
お言葉に甘え冷蔵庫を開ける。喉が渇いてこっちにやってきたのだ。
中身のラインナップは素晴らしかった。水やお茶はもちろん、お酒にジュースに牛乳。それと、ちゃんと食材も入っていた。
とりあえずお茶を取り出し、グラスを探す。近くの食器棚を開くと、これまた高級そうな食器がちゃんとそろえてあったので唸る。なんでもかんでも準備がよすぎる藤ヶ谷巧。
お茶を注いでダイニングテーブルに腰掛ける。なんとなく、彼の隣のソファに座るのは気が引けた。形式上夫婦だというのに。
冷えたお茶を喉に流し込むと、いろいろな質問が頭に思い浮かぶ。とりあえず、一つ目をぶつけた。
「あの、家賃ってどうすれば?」
私の声に反応して、彼がこちらを向く。やや呆れたように言われた。
「俺がそこいらの会社員から家賃をもらうと思うか?」
そこいらの会社員って。もっと他に言い方はないものか。
やっぱり性格に難ありのこの男。私は目を座らせて頭を下げた。
「はあ、どーも」
「あ、それと」
立ち上がり、一旦リビングを出たかと思うとすぐに戻ってきた。そして私の前に、黒いカードが一枚放られた。
……ん? これは。
目を丸くして見つめる。
「必要な買い物は全てそれですればいい」
「え。えええ……」
一般人の私はみたこともない代物、噂のブラックカードというやつですか! やや興奮して恐る恐るカードを手に取った。さすがは藤ヶ谷巧、そこいらの会社員の私とはわけが違う。
「で、でもこんなもの私に預けていいの?」
「形式上夫婦なんだ、むしろ杏奈が持ってなかったら俺の評判に関わる」
「は、はあ、そういうもん??」
そう言われれば使うしかない。私は苦い顔をしてカードを見つめた。落としたりしたらどうしよう。
いや待って、ということは、私がこれを使って食材やらティッシュやら買っておけってことか。つまりはやっぱり、家事は全て私に任せるっていうこと?
「ねえ、私……」
「それとこれ」
言いかけたとこに、今度は白い紙をポイッと置かれた。巧さんはそのまま私の前の椅子に座り込む。置かれた用紙を手に取って書かれている文字を読んだ。
『同居生活をするにあたってのルール』
太字で印字されたそれをみて、目を見開く。
「特殊な関係だからな、ルールは初めに決めておきたい」
「……それに関しては賛成だけど」
綴られた文字たちを読んで、私は首を傾げた。あらゆる細かい項目まで書かれているのがこの人の性格を表している。
・食事は各々で準備、片付け
・洗濯も各自。共用のものは気がついた方がやる
・自分が食べたいもの、飲みたいものは名前記入
・生活用品は2つ以上ストックを維持、残り一つになったら気がついた方が購入。その趣旨はメールで連絡
・ゴミ捨ては交代
さらには掃除の場所と当番も細かく決められていた。トイレ、キッチン、お風呂、リビング、ダイニング、廊下……それはちゃんと私と彼は平等な分担だった。
「気に入らないところは書き換えればいい」
ぽいっとボールペンを投げられた。私はただぽかんとして目の前の顔を見る。
「なんだ変な顔で見て」
「ねえ、家賃も生活用品も出してもらうのに家事もこんなに平等でいいの?」
「はあ? それが普通だろ」
「そもそも巧さん私より絶対仕事で忙しいのに家事する暇あるの?」
「別に毎日ほんの数十分費やせば掃除くらいできるだろ」
なんだこの男。ちょっと見直したじゃないか。私は素直に思う。
きっと家事なんて私任せで放置するのかと思った。ちゃんと当番制を提案してくるだなんて、予想外。
しかしこの人がお風呂掃除とかしてる光景全然想像つかないんですけど、まあいいか。
「納得したならこのままで行く」
「あー待って、少しだけ。トイレ掃除は私がしたい、交代制じゃなくて」
「何で」
「何でもよ、そこ深く追求する?」
「じゃあトイレは杏奈。洗面所は貰う」
「貰うって!」
つい笑ってしまう。手に持ったペンで書き直す。トイレと洗面所の交代制は廃止だ。
「あと、ゴミ捨ても私の方がいいんじゃない? 藤ヶ谷副社長が朝からゴミ捨てって……」
誰かに見られたらよくないんじゃないのかなあ。
そう思って提案したが、巧さんはわかってないな、というように首を振った。そしてニヤリと笑ってみせる。
「何言ってるんだ、この時代結婚後も家事をこなす男というのは中々好感度が高いだろ? ゴミ捨てなんて最高の場面だ。あとはティッシュとかネギを買ってる姿とか」
「…………」
私の感心、返せ。
つまりは好感度と世間体のために家事すらこなしてやるぜ、ってことですね。プライベートも藤ヶ谷グループのことを考えて行動してるなんて、責任者の数鑑といえばそうだけれども。
私ははあと分かりやすいため息をついて顔を歪めた。まあいい。家事やってくれるっていうならなんでもいい。
気持ちを切り替えて話の続きをする。
「じゃあとりあえずこれで行きましょう。やってみなきゃ分からないこともあるから、その都度変えることも必要だと思うし」
「まあそうだな。ああそれと一つ頼んでおきたいんだが」
「え? なに?」
彼は頬杖をついて言う。
「巧でいい。さんが付くと、仕事の雰囲気が出てきて嫌なんだ」
「……なるほど。分かった、そう呼ぶよう努力する」
今まで別世界のように思って頭を下げていた相手の名前を呼び捨てにするなんて、不思議な感覚だった。
思えばこんな一室の中で寛いでる彼をみるのもなんだか変な感じだよなあ、なんて。
「じゃあそういうことで。俺はちょっと仕事で出てくるから、あとは自由にしてな」
「え、今日仕事なの?」
「うん、はいこれ、家の鍵。失くすなよ」
テーブルの上に置かれた鍵たちを手に取り頷く。彼はそれを見届けると、颯爽と踵を返してリビングから出て行ってしまった。
パタンと扉が閉められ、あまりに広い部屋に一人残されたことに何だかむず痒い気持ちになる。
てゆうか仕事って。私服だったじゃん、日曜日じゃん。藤ヶ谷グループは大変だなあ。
そこまで考えて、もしや例の『好きなシングルマザー』にあいに行くのではと思い浮かんだ。そうかも、仕事って言ったけど実はデートかな。
「ま、いっか。明日は私も仕事だしゆっくりしよー。新しいゲームネットで購入しちゃおー」
私はお茶を飲みながら携帯を取り出し、気分よくくつろぎ始めた。むしろ一人の方が最高に開放的だもん、どうぞ夜中まで行ってらっしゃいませ。
私の心の声が叶ったように、その日巧は寝る時間になっても帰っては来なかった。