3次元お断りな私の契約結婚
異変
「高杉さん、この書類チェックして頂けますか、社長に頼まれたもので明日の午前中までなんです」
「はい。そこに置いといてもらえる」
パソコンに向かって凛とした姿勢で、私はそう答えた。仕事モードの高杉杏奈だ。今は決しておにぎりのTシャツなどではなく、しっかりしたスーツを身に纏っている。ちなみにマネキン買いしたやつだ。
家であぐらをかいてコントローラーを握っている不恰好な姿勢でもなく、背筋を伸ばしてキーボードを入力していた。努力して築き上げた自分の仕事中の姿だった。
この仕事を選んだ理由はドラマで見た秘書という役割がカッコ良かった、なんていうくだらない理由だ。それでも幸運にも向いていたらしく、そこそこ大きな会社で秘書として仕事を続けられている。社長たち上司の性格はクソやろうだけど、そのほかの人たちには恵まれて人間関係も悩んではいない。
私は一旦画面から目を離す。ふうと息をついて目頭を抑えた。
「高杉さんって新婚さんなのに、こう浮かれた感じしなくてビシッとしてますよねえ……」
隣から声が聞こえてくる。見れば、一つ年下の河野さんだった。ロングヘアーの髪を揺らしながら彼女はキラキラした目で私を見ている。
新婚、って、形だけだからね。なんて言えるわけもなく苦笑する。
「普通そんな浮かれるもの?」
「ですよ〜! 惚気とかも全然聞かないし、私高杉さんから聞きたいですよ!」
「はは、惚気ねえ」
「相手はあの藤ヶ谷副社長だっていうし……知らなかったから私ショックでしたよ。教えてくれてないんですもん」
恨みがましく言われた。デスクの上に置いてあるコーヒーを少し飲んで答える。
「ごめん、親にすら言ってなかったから」
「秘密主義〜! 藤ヶ谷副社長って家でどんな感じなんですか!? 愛してるよとか言うタイプ?」
「何を突然突っ込んでくるかなこの子は」
私は笑って言った。結構奔放で自由な性格の河野さんは、よく私に懐いてくれていた。私にはない女の子らしさがあって、こちらも憧れてしまうこともある。時々二人でご飯を食べに行ったりと、そこそこ仲良くしている後輩だ。
「ずっと聞きたかったんですよー! 今度ご飯一緒にいきません? 高杉さんから! 惚気が! ほしい!」
「私惚気とかいうの苦手なの」
「クール! クールすぎ!」
クールでも何でもなく、惚気るネタがないだけなのだが。オーウェンについての愛なら一晩中語れるんですがね。
河野さんは不満げに頬を膨らませた。
「なーんか、想像つかないんですよ。高杉さんと藤ヶ谷副社長の結婚生活。超お似合いですけどね? 並んでるとこ見たことないし、結婚式もまだ考えてないっていうし〜」
「別に普通の生活よ」
「行ってきますのチューとか?」
「それが河野さんにとっての普通ってことはよくわかった」
「えー普通じゃないですか! 高杉さんと藤ヶ谷副社長の朝のチューとか超絵になる!」
「勝手に想像しないでくれる?」
鼻息荒くしている彼女に呆れながらも笑う。キスなんて、するはずもない。抱きしめることだって、手を繋ぐことすら私たちはするはずがないんだから。
もし河野さんと飲みに行ったら色々ボロが出そうだな、と心の中で心配している時だった。デスク上の携帯が光っていることに気がつく。
手に取ってみると、着信は母からだった。
「……?」
「どうしました?」
「母からなの。ちょっとごめんね」
私はすぐに席を立ち廊下へ向かう。仕事中に家族から連絡など来たことはなかった。私は足早に歩を進めながら、すぐに電話に出た。
「もしもし、お母さん?」
『杏奈?』
普段陽気で笑った顔しか見ない母の声はいたって真剣だった。その声色を聞いただけで、自分の心臓がどきっとする。深刻な話題であることが証明されているからだ。
「どうしたの……」
廊下を急ぎながらも私は先を急かした。母の悲痛な声が響く。
『おばあちゃん、もう危ないって』
動かしていた足を止めた。
それは予測できたはずだった。祖母は末期の癌で、いつそうなってもおかしくない状態なのだから。
それでも、たった数日前巧と会いに行った時は大口開けて笑っていたのに、あまりに急すぎる展開で頭がパニックを起こす。
スマホを落としそうになってなんとか力を入れ直す。
「え、うそ、だってこの前……」
『母さんたちも今向かってるから。杏奈も行けそうならと思って……最期だし』
「…………」
言葉が出てこなかった。でも、今は一分一秒でも惜しいのだと脳が自分を急かす。冷静と混乱が私の中でぐるぐると回っていた。
「わ、かった、すぐに行く……!」
かろうじてそれだけ答え、すぐに電話は切られた。そう答えたのに、私はぐらりと体をよろめかせて壁に手をついてそれを支える。
行かなきゃ。ばあちゃんの最期。
ああでも、ここから電車を乗り継いで結構時間がかかってしまう。間に合えばいいけど、いやだからそんなこと考えるより早く動かないと……!
完全にパニックに陥っている私の背後から、河野さんの声が聞こえた。
「高杉さん? どうしました、大丈夫ですか?」
振り返ると、心配そうにこちらを見ている河野さんの顔が見える。私は唖然としたまま言葉を漏らす。
「祖母、が、危篤みたいで……」
「え! す、すぐ行かなきゃ!」
私の肩を支えながら河野さんが慌てたように言った。
「病院どこですか?」
「ちょっと離れてて……隣の市で……」
「すぐ行かないと! 荷物取りに行きましょ!」
あわあわと河野さんが言う。私も頷いてようやく足を踏み出した時、握っている携帯が再び鳴ったのに気がついた。どきり、と心臓が鳴る。
ばっと画面をみると、そこには巧の名前があった。
「? 巧?」
結婚後、メッセージは送られても電話など来たことはなかった。あまり時間がないので戸惑ったが、なんとなく出た方がいい気がして通話する。
「もしもし?」
『杏奈今どこだ』
開口一番それだった。やや面食らった私は、それでも答える。
「そ、りゃ会社だけど、ごめん今お母さんから」
『正面で待ってろ、車で向かってるから』
「え?」
『杏奈のお父さんから連絡貰ったから。あの場所なら公共交通機関より車の方が絶対早い。少ししたら着くから』
「え……」
それだけ言うと、私の返事も聞かずに電話は切れた。またさらに唖然としてしまう。
巧が、送ってくれるの? おばあちゃんのところまで?
「高杉さん、旦那さんからじゃないんですか?」
「あ、うん、今から迎えにくるって……」
「ほら、荷物取りに行きましょう! 少しの時間も惜しいですよ!」
強く腕を引っ張られてようやく私はそこから足を踏み出した。ただ頭の中に、ばあちゃんの笑った顔だけが浮かんでいた。