3次元お断りな私の契約結婚
樹くんは私を試すように視線を送った。今にも額に汗をかいてしまうそうなのを堪える。彼を家に入れるべきじゃなかった。
それでも。私は密かに拳を握る。仲睦まじい夫婦を演じるのが契約の内容なのだ。私はこれを乗り越える義務がある。
「知らないの」
「え? 奥さんがなんで」
「そういう人がいたってことは勿論知ってる。でも細かいことは聞きたくなくて。私、好きな人の過去の恋愛とか聞きたくないタイプの女なの」
ニコリと余裕のある笑みを浮かべた。樹くんはそれを聞いて、感心するようにこちらを見る。うまいこと答えたな、という反応か。
「はあーなるほどね。いい返事だね」
「あは、どう言う意味」
「巧は今までもそれなりに女の人と付き合ってきたけど、心のどこかで例の人が気になって入れ込めないみたいだったから。俺からしたら巧がそんな昔の話を引きずるのが意外すぎるんだけど、もっと意外なのはそれほど拘ってたのにあっさり杏奈ちゃんと結婚したことだよね」
樹くんは笑いながら言う。そっと置いたコーヒーカップの音がやけに大きく響いた気がした。耳に光るピアスを意味もなく見つめ、私は何も答えずにいた。
彼はさらに続ける。
「んー例えばー。結婚しろしろうるさいうちの親に疲れた巧が、なんらかの理由で杏奈ちゃんに目をつけて形だけ結婚しませんかーって提案したとか」
(当たってるよバーロー)
「だから二人は戸籍上は夫婦でも、実際はただのルームシェアしてる男女であって付き合ってもないのかなって!」
(今までの流れ全部見てたんか?)
あまりに鋭くて全てを当ててくる樹くんに、もはやどう誤魔化せばいいのかわからなくなってきた。私は心の中でため息をつく。でもまさか素直に認めるわけにもいかない、巧とは仲があまりよろしくないみたいだし……言い振り回されてたりしたら。
樹くんは私の顔を下から覗き込む。少年のような表情が、どうもペースを乱される。
「面白い話だね。もしそうだとして、樹くんは何がしたいの? 巧の弱味でも握ったことになる?」
私がそう尋ねると、意外にも彼は目を丸くして首を振った。
「ううん! そんなこと全然考えてないよ」
「そうなの? てっきりそうなのかと思って」
「俺の目的は巧じゃなくて、杏奈ちゃんだから」
少しゆっくりさせた口調で樹くんがそう言ったのを耳で聞いた瞬間、突然ぐるりと視界が回る。あれっと思った時には、背中と後頭部に冷たい床の感触を感じていた。
唖然とする私の視界に見えるのは、重力で髪の毛を垂らしながら私を見下げる樹くんだった。
…………??
あれ、どうなってる?
ただひたすらぽかんとしている私の上から、彼はどこか色気の感じる声で囁いた。
「一目惚れしちゃったから」
「…………」
ただ無言で樹くんの顔を見上げながら、私の心は全く別のことを考えていた。
なんて言うんだっけ、これ。壁ドン、いや違う、壁じゃないからー……床ドン。少女漫画でよく見るやつ。3次元お断りな私は無論こんな体験初めてなんだけど、へえ下から見るとこういう感じなんだ。
オーウェンは確か壁ドンはあったんだよなあ。壁ドンの方がよかったなあ。そしたら脳内で樹くんをオーウェンの顔に差し替えて楽しめるのに。
「…………」
「…………」
「…………」
「あの、杏奈ちゃん? 無視?」
少し困ったように樹くんが言った。それを聞いてようやく私の精神が3次元に帰ってくる。しまった、完全に別世界に行ってた。
体制はそのままに、私は全く色気のない声で言う。
「ごめん、床ドンってこんな感じなんだーって感心してた」
「…………」
「えーとなんだっけ、私に一目惚れ? そんなわかりやすい嘘通用しないよ。巧に当てつけたいのかな?」
彼が本気で私に告白してきたなんて思うはずがない。そんな態度は微塵も感じたことはないし、恐らく仲のよくない巧にちょっとした嫌がらせという感じだろう。
樹くんは面食らったように目を見開き、ため息をついた。少し沈黙が流れてから声を漏らす。
「待って、女の子押し倒してそんな反応されたの初めてでちょっと落ち込んでる」
「あ、やっぱりよく使う手法なのね? 手慣れてるもん。残念だけど私、男に興味ないから」
「え? だって巧」
「あーーーー『巧以外の』男に興味ないからってこと!!」
慌ててそう言葉を付け足すと、その途端樹くんが勢いよく吹き出して笑い始めた。大声で目を線にしてゲラゲラ笑う。どうでもいいけど、どいてくれないかな、それとも私がすり抜ければいいのこれ?
ひとしきり笑った後、樹くんは目尻に涙を浮かべながら私に言った。
「おっもしろいね杏奈ちゃん」
「あの、そろそろどい」
「なるほどね、巧がルームシェアを持ちかける理由がわかった気がした」
「だからルームシェアじゃなくてちゃんと結」
「一目惚れは確かにちょっとからかうつもりだったんだけど。
今ほんとに、杏奈ちゃんに興味シンシンになった」
彼はどこか目を輝かせてそう言った。それはまるで、子供が素敵なおもちゃを手に入れた時のような表情。
私はそんな樹くんをただ何とも思わず見上げていたけれど、次の瞬間彼の顔が落ちてきたのに気がつく。さすがにこの心臓がドキリと飛び跳ねた。
慌てて腕を動かそうとするも、両腕はしっかり樹くんに掴まれていることに今更ながら気づく。あれ、ちょっと待ってこれどういう状況!?
「え、ちょ、ま、た、オ」
さすがの私も今どういう状況になっているのか理解して慌てる。ぱくぱくと金魚のように口を開けている私にお構いなしに、毛穴ひとつない白い肌が降りてくる。頭の中でこれまでの人生が蘇った。普通走馬灯って死ぬ瞬間見るはずなのに、なぜキスされそうな今見てるんだ私は。
それでも。私は密かに拳を握る。仲睦まじい夫婦を演じるのが契約の内容なのだ。私はこれを乗り越える義務がある。
「知らないの」
「え? 奥さんがなんで」
「そういう人がいたってことは勿論知ってる。でも細かいことは聞きたくなくて。私、好きな人の過去の恋愛とか聞きたくないタイプの女なの」
ニコリと余裕のある笑みを浮かべた。樹くんはそれを聞いて、感心するようにこちらを見る。うまいこと答えたな、という反応か。
「はあーなるほどね。いい返事だね」
「あは、どう言う意味」
「巧は今までもそれなりに女の人と付き合ってきたけど、心のどこかで例の人が気になって入れ込めないみたいだったから。俺からしたら巧がそんな昔の話を引きずるのが意外すぎるんだけど、もっと意外なのはそれほど拘ってたのにあっさり杏奈ちゃんと結婚したことだよね」
樹くんは笑いながら言う。そっと置いたコーヒーカップの音がやけに大きく響いた気がした。耳に光るピアスを意味もなく見つめ、私は何も答えずにいた。
彼はさらに続ける。
「んー例えばー。結婚しろしろうるさいうちの親に疲れた巧が、なんらかの理由で杏奈ちゃんに目をつけて形だけ結婚しませんかーって提案したとか」
(当たってるよバーロー)
「だから二人は戸籍上は夫婦でも、実際はただのルームシェアしてる男女であって付き合ってもないのかなって!」
(今までの流れ全部見てたんか?)
あまりに鋭くて全てを当ててくる樹くんに、もはやどう誤魔化せばいいのかわからなくなってきた。私は心の中でため息をつく。でもまさか素直に認めるわけにもいかない、巧とは仲があまりよろしくないみたいだし……言い振り回されてたりしたら。
樹くんは私の顔を下から覗き込む。少年のような表情が、どうもペースを乱される。
「面白い話だね。もしそうだとして、樹くんは何がしたいの? 巧の弱味でも握ったことになる?」
私がそう尋ねると、意外にも彼は目を丸くして首を振った。
「ううん! そんなこと全然考えてないよ」
「そうなの? てっきりそうなのかと思って」
「俺の目的は巧じゃなくて、杏奈ちゃんだから」
少しゆっくりさせた口調で樹くんがそう言ったのを耳で聞いた瞬間、突然ぐるりと視界が回る。あれっと思った時には、背中と後頭部に冷たい床の感触を感じていた。
唖然とする私の視界に見えるのは、重力で髪の毛を垂らしながら私を見下げる樹くんだった。
…………??
あれ、どうなってる?
ただひたすらぽかんとしている私の上から、彼はどこか色気の感じる声で囁いた。
「一目惚れしちゃったから」
「…………」
ただ無言で樹くんの顔を見上げながら、私の心は全く別のことを考えていた。
なんて言うんだっけ、これ。壁ドン、いや違う、壁じゃないからー……床ドン。少女漫画でよく見るやつ。3次元お断りな私は無論こんな体験初めてなんだけど、へえ下から見るとこういう感じなんだ。
オーウェンは確か壁ドンはあったんだよなあ。壁ドンの方がよかったなあ。そしたら脳内で樹くんをオーウェンの顔に差し替えて楽しめるのに。
「…………」
「…………」
「…………」
「あの、杏奈ちゃん? 無視?」
少し困ったように樹くんが言った。それを聞いてようやく私の精神が3次元に帰ってくる。しまった、完全に別世界に行ってた。
体制はそのままに、私は全く色気のない声で言う。
「ごめん、床ドンってこんな感じなんだーって感心してた」
「…………」
「えーとなんだっけ、私に一目惚れ? そんなわかりやすい嘘通用しないよ。巧に当てつけたいのかな?」
彼が本気で私に告白してきたなんて思うはずがない。そんな態度は微塵も感じたことはないし、恐らく仲のよくない巧にちょっとした嫌がらせという感じだろう。
樹くんは面食らったように目を見開き、ため息をついた。少し沈黙が流れてから声を漏らす。
「待って、女の子押し倒してそんな反応されたの初めてでちょっと落ち込んでる」
「あ、やっぱりよく使う手法なのね? 手慣れてるもん。残念だけど私、男に興味ないから」
「え? だって巧」
「あーーーー『巧以外の』男に興味ないからってこと!!」
慌ててそう言葉を付け足すと、その途端樹くんが勢いよく吹き出して笑い始めた。大声で目を線にしてゲラゲラ笑う。どうでもいいけど、どいてくれないかな、それとも私がすり抜ければいいのこれ?
ひとしきり笑った後、樹くんは目尻に涙を浮かべながら私に言った。
「おっもしろいね杏奈ちゃん」
「あの、そろそろどい」
「なるほどね、巧がルームシェアを持ちかける理由がわかった気がした」
「だからルームシェアじゃなくてちゃんと結」
「一目惚れは確かにちょっとからかうつもりだったんだけど。
今ほんとに、杏奈ちゃんに興味シンシンになった」
彼はどこか目を輝かせてそう言った。それはまるで、子供が素敵なおもちゃを手に入れた時のような表情。
私はそんな樹くんをただ何とも思わず見上げていたけれど、次の瞬間彼の顔が落ちてきたのに気がつく。さすがにこの心臓がドキリと飛び跳ねた。
慌てて腕を動かそうとするも、両腕はしっかり樹くんに掴まれていることに今更ながら気づく。あれ、ちょっと待ってこれどういう状況!?
「え、ちょ、ま、た、オ」
さすがの私も今どういう状況になっているのか理解して慌てる。ぱくぱくと金魚のように口を開けている私にお構いなしに、毛穴ひとつない白い肌が降りてくる。頭の中でこれまでの人生が蘇った。普通走馬灯って死ぬ瞬間見るはずなのに、なぜキスされそうな今見てるんだ私は。