3次元お断りな私の契約結婚
「……あの、大丈夫?」

「馬鹿、俺のセリフだ」

「そうでしたね、私は大丈夫です」

 私が上から声をかけると、彼が顔を持ち上げる。少し眉を顰めたその表情を見て、何だか胸が苦しくなった。額に張り付いた髪の毛が酷く尊い。

「何された」

「え、何も。危ないってところで巧が来てくれたから。ありがとう」

「押し倒されてたろ」

「ああ……でも、『床ドンってこんな感じなんだ』って感心してたら呆れてたよ樹くん」

「ぷはっ、笑わせんなこんな時に」

 巧が笑ったのを見てほっと息をつく。自分の頬も緩むのを自覚した。思えば本当に巧が帰ってきてくれなきゃどうなってたのか。また私をからかってただけかもしれないけど……。

 巧はゆっくり立ち上がって頭をかく。私は心にあった疑問をぶつけた。

「私の連絡見て心配で帰ってきてくれたの?」

「ああ……樹って、前から俺の付き合ってる女にちょっかい出す傾向があって。流石に結婚してたらもうないと思ってたんだけど、言っておけばよかった。今度から絶対家にあげるな」

「そうなの、やっぱり巧に反抗的なのね樹くん……」

「……何もなくてよかった」

 随分真摯な表情でそう言うもんだから、なんだか恥ずかしくなって俯いた。ただ正面で向き合っているだけなのに、押し倒された時よりずっと恥ずかしいのは何でだ、意味がわからない。

「てゆうかそのTシャツどうしたんだよ」

「あ、この前おばあちゃんのお見舞いにいった日、お礼のつもりで買っといたの忘れててさ。はいあげる!」

「ほんとお前は面白い女だよ」

 巧は笑いながらそれを受け取った。まさかおにぎりTシャツがこんな形で役に立つとは思わなかった、グッジョブ私。

「あの、樹くんああやって疑っててね。結構途中までそこそこ上手くかわせてたと思うんだけど」

「ああ、今後は二度と相手にしなくていいから。悪かった」

「それでもね。やっぱり、巧について知らないことが多すぎるなって思ったの。そりゃ形だけの婚姻関係でも、夫婦を演じていくなら色々知りたいと思って。教えてくれない?」

 私が提案すると、彼は一瞬驚いたように停止したが、すぐに顔を綻ばせた。何だか嬉しそうに笑ったその顔は、ちょっと樹くんに似ていると思った。

「まあ、その通りだな」

「巧の恋人のシングルマザーってどんな人なの?」

 ストレートにぶつけた。私が一番知りたいと思っていたことだった。

 別に会ってみたいとかそんな事思わないから、どんな人なのかぐらい分かっておきたいと思った。樹くんに聞かれる前から、少し気になっていたから。

 しかしそれを聞いた途端、柔らかかった巧の顔は強張った。その豹変ぶりに、私もつい釣られて口籠る。

「、い、いや、さっき樹くんにも聞かれたから、それで」

「別に話すことは特にない」

「待って、別にその人に会いに行こうとか思ってるわけじゃないよ? でも樹くんが散々言ってた巧にとって忘れられない人って、その人のことでしょ? さすがにどんな人かくらい」

「杏奈が知る必要ない」

 冷たく言い放たれたその言葉に、ひんやりと心が冷えたような感覚に陥った。

 必要ないって。どうしてそんなに頑なに口を閉ざすの? 
 
 なぜだかイライラと苦しさが湧き出てきた。拳をぎゅっと握りしめ、目の前の男を見上げる。

「私が相手の人に嫌がらせでもすると思ってる?」

「別にそういうわけじゃ」

「じゃあ何でそんなに頑ななの。ルームシェアしてる友達に恋の話くらいしてもいいでしょう? 私たちは特に、特殊な関係なんだし」

「過去の女ってことになってるんだ、そこを杏奈が知らなくてもおかしくないだろ」

「細かく教えてなんて言わないよ、それでも簡単なことだけは知っておきたいの、顔合わせの時だって知ってるってご家族の前で言っちゃったじゃない!」

 息を荒くして巧に詰め寄った。だが自分自身、何をそんなに意固地になっているのだろうと冷静にも疑問に思っていた。巧が頑なに口を閉ざす姿がやけに苛立ち、不愉快に陥る。

 何で、こんなに私は怒っているんだろう。

 私の剣幕に、巧も困ったように目線を逸らして頭を掻いた。いつだって自信家なこの男が困っている姿は珍しい。だから、何をそんなに困る必要があるというのか。

 気まずい沈黙が流れる。しばらく二人して黙った後、巧が観念したように言った。

「分かった、話す、から」

「う、うん……」

「でも、今度時間ある時に。会社に戻らないと」

 言われて思い出す。そういえば、祖母の葬儀のため休んでいた仕事の埋め合わせに休日出勤していたのだった。それを樹くんのことがあってトンボ帰りしてきたところ。

 慌てて自分の行動を詫びる。

「そ、そうだよねごめん、わざわざ帰ってきてもらったのに引き止めて……」

「いや、樹のことは俺が悪いから。今度あったら無視しろ、外で会ってもだ。タクシー乗って逃げろ」

「流石に大袈裟……」

「ごめん。行ってくるから」 

 巧はそう短く言うと、どこか気まずそうな表情をしながら私から顔を背けた。その時、あ、これは巧のその場しのぎなんだって気がつく。

 彼は足早にリビングから出て会社へ向かった。いつも堂々としている背中とどこか違って見えた。私はただそれを無言で見送ることしかできず、もやもやとした黒い渦が心の中に残った。

 そして、巧が言った『今度時間ある時』はやっては来なかった。それまでも仕事が忙しいためゆっくり顔を合わせる機会は少なかったが、それからは全くなくなった。朝も夜も、ただ忙しそうに私の隣をすり抜けて行くようになった。
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