3次元お断りな私の契約結婚




 食事会は穏やかに進められ、その日は解散した。奥様の質問攻めには頭を悩ませたが、全て上手く巧さんが答えてくれた。おかげさまで私は仕事に理解のある出来た彼女という立場を手に入れた。

 来た時同様、高級車に乗り込み揺られる。程よく飲んだお酒と、緊張がほぐれたためかうとうとと眠くなってしまう。

 気がつけば、目を覚ました時には自宅近くまでたどり着いていた。


「……あ、ごめんなさい、寝てた」

 はっと目を覚まして姿勢を正す。ハンドルを握っている巧さんは特に気分を害した様子もなく言った。

「緊張してたんだろ、母さんがどんどん飲ませるし」

「ああ、美味しいシャンパンだった……」

「酒好きなんだ?」

「かなり」

 普段家でも一人飲むことは多い。つまみは二次元のイケメン達で。

 巧さんはふ、と小さく笑った後、そのまま口角を上げて続けた。

「満点な妻の姿だったな。想像以上だった、杏奈に声をかけてよかった」

「はあどうも。仕事してるテンションで臨んだまでです」

「プライベートは違うってことか」

「プライベートであんなカチカチな女いないでしょ」

 また隣で巧さんが笑う。ついその横顔を見た。冷徹男だとか噂されてるわりに、この人意外とよく笑うなと思った。いつも見る営業スマイルとはまた違った笑みは人懐こさもあり好感が持てる。

 車はあっという間に私のアパート前にたどり着いた。ふうと息を吐き、ようやく帰宅だと安心したところに、停車させた彼がこちらを向き直った。

「ああ、そうだ、杏奈のアパート」

「え?」

「まだ退去の連絡してなかったろ」

「ああ、まあ……急ぐことじゃないし」

「しといたから」

 平然と言われた言葉に、私は隣を二度見した。

 え、なんつった、勝手にもう退去の手続きを??

 唖然としている私にさらに続ける。

「今日杏奈の会社の社長たちにも挨拶の電話を入れておいた」

「!?」

「それとこれ」

 彼は車の後部座席から何を取り出した。丁寧に折り畳まれた白い用紙を広げられた時、私はただ黙ってそれを眺めて目を丸くした。

 婚姻届だった。

 いやいや、確かに必要なものだ。そういう契約だったんだし、別に変なことじゃない。ただなんというか、強引さと用意周到さが引いてしまう。まだようやくあっちのご両親に会ったばかりなのだが。

 婚姻届はすでに記入済みだった。あとは私のみが書くだけ、という形。

「ず、随分と用意周到で……」

 やや引いた声で言うも、彼はふんと鼻で笑って得意げに言う。

「当然。こう言うのはさっさと終わらせてしまわないと。ほら」

 そう言って、私にボールペンを差し出した。

「え」

「あとは杏奈のところだけ。一応提出は、杏奈のご両親に会うまではやめとくけど、それが終わり次第すぐに提出する。あまり会う機会もないんだから時間があるうちに書いてほしい」

「あ、じゃあ次会う時までに記入しておきます、印鑑もいるし……」

「ほら印鑑。作っておいた」

 怖! なんでこんなに全てのことが早くて準備しまくってるのこの人??

 私はもはやドン引きした目で彼を見る。それでも巧さんは、余裕綽々な笑みで私を見ていた。

「杏奈、もう逃げられないよ」

「…………」

 なるほど。私がちょっと怖気付いてしまっていたのを感じとっていたのかこの男。

 もう引き下がれないように、外堀を固めているんだ。

 なんて男。

「別に。あなたのご両親に会ってまでして逃げようなんて思ってないから」

 私はそうつっけんどんに答えると、差し出されていたペンを手にする。目の前のダッシュボードの上というやや不安定なところで素早く書き込んだ。おかげさまで字はぐちゃぐちゃミミズ状。

 世界でも、婚姻届をこんな急いで、しかも車の中で記入する人もなかなかいないだろう。まるで宅配便のサインでもするように、私は適当な字を綴った。

「はい、どうぞ。印鑑は押しといて」

 私がペンと紙を手渡すと、彼は満足げに笑った。

「よし。あとは適当に俺が出しておく」

「よろしくお願いします」

「引っ越しの業者も手配しておく。杏奈の家族との挨拶が終わり次第これは出しておくから。両家の顔合わせはおいおいということで」

 私はもう返事をしなかった。全てこの人のペースに振り回されているけれど、仕方ない。期限付きのルームシェアなんだ。我慢我慢。

 私が車のドアを開けようとした時、思い出したように巧さんが言った。

「あ、あと」

「まだ何か?」

「杏奈のおばあさんの見舞いに行かないと。これこそ、早めにな」

 私は背後を振り返って見る。

 ……覚えてたんだ、あの話も。

 少し感心しそうになって思いとどまる。いや、そもそも私がこのバカみたいな話に乗った最大の理由なんだから、そりゃ忘れられてちゃ困る。

 今度こそ車のドアを開いて足を出そうとした時、自分の膝に見知らぬ上着がかかっていたことに初めて気がつく。あれっと思い、それがこの強引男のものだとすぐ思い出した。

 寝ている間に、掛けられていたようだった。

「あ……これ、ありがとう」

 私は上着を手に取って差し出す。彼はああ、と無愛想に返事をして受け取った。今度こそ少し感心する。意外と優しいことをしてくれるじゃない。

 緩んだ頬でその顔を見た瞬間、やつがにやっと笑った。

「やらねばならないことが盛り沢山だからな。風邪なんて引かれてる場合じゃないんだ。荷造りしておきなよ」

「…………エエソーデスネ」

 さっきの私の笑顔、返せ。
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