すべてが始まる夜に
振り返った部長は、心なしか顔を合わせづらそうに視線を泳がしている。

「わっ、悪い。巻き込んで悪かった。あの状態で店から出るのは見せ物もいいところだろ。白石(しらいし)の顔が見えたからつい利用させてもらったというか……。ほんとに申し訳ない。悪かった」

前髪を掻き上げてグシャリと掴みながら顔を歪めて申し訳なさそうに謝る松永部長。
顔を歪めているのは私に対して申し訳ないからなのか、それともあんな場面を部下に見られて恥ずかしいからなのか、どちらかは分からないけれど、やっぱりこれは恥ずかしさからだよね。

「あ、いえ……」

カフェのお客さんたちに向けられた好奇な視線は勘弁してほしかったけど、この表情を見たらなんだか少し可哀想に思えてきて、私はとりあえず部長が気にしないように顔を小さく横に振った。

それにしてもいつも会社でしか会わないのでスーツ姿の松永部長しか見たことなかったけれど、私服の部長はスーツ姿とはまた違ってかっこいい。
濃紺のジーンズにモノトーンの2枚襟のお洒落なデザインシャツを合わせ、髪はいつものようなアップバングではなく、前髪を下ろしていて会社の時よりも若く見える。さすがイケメンは何を着てもどんな髪型にしても似合うというものだ。

「もしかしてあの店にまだ用事があったのか? あっ、誰かと待ち合わせでもしてたか?」

窺うように私にチラリと視線を向ける。

「だ、大丈夫です」
「そうか、ほんとに巻き込んで悪かった」
「だ、大丈夫ですから。そ、それに今日のことは誰にも言いませんから安心してください」

別にあえて言う必要はないけれど、なんだか松永部長の顔が落ち込んでる気がして、つい口から出てしまった。だって、人前でセックスが下手って言われて、しかも会社の部下にそんな場面を見られて、会社でそんなこと言いふらされたら堪ったもんじゃないよね。
もし私が松永部長だったら、出社拒否案件でもう会社になんか行けないもん。

「そんなことは気にしちゃいねえよ。それに白石はそんなこと誰かれ言うタイプじゃないだろ。橋本(はしもと)宮川(みやがわ)なら分からんが」

確かに、後輩の若菜(わかな)ちゃんや同期の葉子(ようこ)なら「聞いて聞いてー!」と言ってきそうなものだけど。
どうして私は言わないってわかるのかな?

「どうしてかって?」
「えっ……?」

驚いて目を見開く私に、「どうしてそう思うんだ?って顔に書いてあるぞ。白石の毎日の仕事ぶりと性格を見てりゃ分かるよ」と、ふっと優しい表情を浮かべて笑った。
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