すべてが始まる夜に
火曜日の午後、会議の資料を作成し終えた私は、それを印刷して部長の席へと向かった。

「部長、すみません。少しお時間よろしいですか?」

パソコンを打っていた部長がキーボードから手を離し、私に顔を向けた。部長と顔を合わせて話をするのは、あの土曜の夜以来だ。私は月曜日から部長とどうしても視線を合わせることができなかった。どういう顔を向けていいかわからなかったからだ。

部長も部長で会議や打ち合わせ、市場の分析や確認などで忙しそうで、それをいいことに私は敢えて目を合わさないようにして、資料作りに没頭していた。

「明日の会議資料を作成しました。データはメールで先ほど送らせていただいたのですが、印刷しましたので後で確認をお願いできますでしょうか」

印刷してきた資料を手渡すと、部長は「ありがとう」とそれを受け取った。

あんなことがあったからか、私に向けられている瞳が気のせいか少し微笑んでいるように感じてしまう。
それに資料を受け取った部長の手を見て、私はまたあの夜の出来事を思い出してしまった。

そう、あの土曜日の夜、部長の部屋から帰ってきた私は、自分に起こった出来事を理解するよりも、初めて感じた身体の感覚と、ものすごく体力を消耗した脱力感で、部屋の中でぼうっとしたまま、いつの間にか眠ってしまっていた。

翌朝起きて少し落ち着いてきたところで、昨晩の出来事をひとつひとつ思い出し、顔が真っ赤になってしまった。

後悔はしていないけれど、両親に隠れていかがわしいことをしてしまったようで、やっと経験できて嬉しいはずなのに、恥ずかしい気持ちでいっぱいで、まだ部長の手の感覚が身体中に残っているみたいだった。

「うん、なかなかよく出来てるな。詳しくは後でチェックして、修正があったらメールしておくよ」

部長が優しい笑顔で微笑む。

「どうした? 顔、赤いぞ。大丈夫か?」

顔を覗き込まれ、慌てて「大丈夫です」と返事をする。

「すみませんが部長、確認よろしくお願いします」

私はそう告げると急いでくるりと振り返り、自分の席に戻っていった。椅子に座ってふぅーと息を吐きながら両手で頬を動かしていると、隣から若菜ちゃんが声をかけてきた。

「茉里さん、どうしたんですか? 頬っぺたなんか動かして」

「あっ、うん、集中して会議資料作ってたらなんだか熱くなっちゃって。部長にも提出したし、冷たいお茶でも買ってくるね」

私はその場から逃げ去るように、自動販売機のあるリフレッシュルームへと向かった。
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