あなたの隣を独り占めしたい(続編まで完結)
それから1週間後のランチタイム。
失恋の傷が少しは癒えたかというと、そう簡単でもなく。女としてのプライドを粉々にされた辛さはジワジワ私を蝕んでいて、最近では欲という欲が失われているのを感じる。
私は雅美と坂田さんにうまく言い訳をして非常用に使われる階段の踊り場で過ごしていた。
仕事中は普通通りの自分でいるよう振る舞っているけれど、心と体がバラバラになったみたいになっていて効率的な仕事ができない。
(こんなこと今までなかったんだけど)
痩せ細ってしまった腕を抱きしめ、苦笑いしてしまう。
「はは、これならジムなんか契約しなくてもよかったなぁ」
ウェディングドレスを綺麗に着るなら体型を整えた方が良いだろうと、1ヶ月前からパーソナルジムに通い始めていた。2ヶ月で絶対10キロ痩せるという説得にあい、一生に一度のことだから後悔したくなくて契約してしまったのだ。
(そういえばジム、もう全然行ってないな……行く気力も体力もないけど)
「レンタル彼氏、本気で契約するかな」
(圭吾の記憶を少しでも忘れさせてもらえたら、今よりマシになるかもしれないし)
「ふー……ゲホッ」
試しに購入した電子タバコをふかしてみるけれど、気管支に広がってくる煙の刺激でむせてしまった。
「ゲホ、ゲホ……」
咳と一緒に涙を滲ませていると、不意に頭上から声が降ってきた。
「格好つけたいだけなら、駄菓子のシガレット買ってやろうか?」
「っ、佐伯さん! いつからそこに?」
驚いて上を見上げると、片膝を立てて座る佐伯さんがアンニュイな目で私を見下ろしていた。
「時計は見てないから正確にはわかんないけど。10分前くらい?」
(てことは……)
少なくとも、私がここで独り言を呟いていたのを彼は聞いていた、ということになる。
恥ずかしさに言葉を失っていると、佐伯さんは面白いものでも見るように身を乗り出す。
「ここを使うの俺だけかと思ってたんだけど。槙野も利用者だったか」
「誰もいない場所だと思ったので」
「俺は昼寝に使ってるんだけど、槙野は愚痴吐き場所に使ってんの?」
からかうような声色に、カチンとなる。
「聞いてたんですね……」
「寝てたら聞こえちゃったんだよ」
佐伯さんはだるそうに立ち上がると私の一つ上の段まで降りてきて座り直した。
「昼飯は食わないの」
「ええ、まあ」
「ダイエット……って雰囲気でもないね」
「……」
流石に直属の上司の彼に、最近の弱りっぷりを完全に隠せているとは思えない。
(でもこんなプライベートな事情、仕事の上では関係のないことだし)
どう答えたらいいのかと思案していると、佐伯さんは仕事中と同じ真面目な口調で言う。
「槙野、ここしばらく弱ってるよね?」
「……そう見えますか」
「一応これでも課長だし、課員のことは健康面含めて観察はしてる。食事ができない、睡眠が取れない。これって命に関わることだ。調子悪いなら、相談してもらわないと俺も困る」
(そんなところまで見ててわかるものなんだ)
感情の見えない静かな視線を向けられ、頭から血の気が引いていく。
「……仕事ではご迷惑かけてないつもりですけど」
私のわずかな抵抗に、佐伯さんはふっと鼻を鳴らす。
「確かに遅刻もしてないし、仕事の遅れもないね。でもそれは仕事の量を君の調子に合わせてたからだよ」
「そう……だったんですか」
(言われてみたら、最近仕事の量は多くなかった。だからなんとか定時内に終われるよう、集中できてた……全部、佐伯さんが見ててくれたおかげだったの?)
知らないところで心配をかけ、迷惑までかかっていたというのは素直に申し訳ないと思う。でも、だからと言ってプライベートのことを佐伯さんに相談するなんてやっぱりできない。
「ご心配をおかけして、すみません。私は大丈夫なので、これからは仕事の量を戻してください」
「それはできない」
「えっ」
「こなせないと分かっている人間に、仕事を振ることはできないよ」
じゃあどうしろと、という言葉を飲み込んで私は思わず佐伯さんを睨んでしまった。
(このズタボロの状態を、どう乗り越えればいいの)
悔しさに下唇を噛んでいると、佐伯さんは緊迫した空気をかき混ぜるように小さく息を吐いた。
「金払ってまで彼氏レンタルするくらいなら、俺が仮の彼氏やってやろうか?」
「え?」
話の流れによっては、休職も考えた方がいいのかとすら思っていた私に、彼は全く予想していなかったことを口にした。
「仕事を離れた関係だったらプライベートな悩みも聞いてやれるだろうし」
「……冗談ですよね」
「どうかな」
ゆるく微笑むその表情からは、やっぱり本音を読み取れない。ただ、こちらが重く捉えないようあえて軽めに言ってくれているのだけは分かった。
(やっぱり捉えどころない人だな。きっと、部下が悩んでるのを放っておけないんだろうな)
仕事面では甘い顔をしない人だけれど、癖のある課の人たちをうまく束ねている人だ。だからこそきつい仕事でも充実感をもってこなせている。
(いい上司なんだよね。私はPC相手の事務作業が多いけど、外を一緒に回る人はかなりフォローしてもらってるって聞くし)
皆、仕事面でもメンタル面でも佐伯さんのことを頼って、慕っている。
(そんな人と仮だとしても恋人になるなんて……恐れ多いよ)
私は心の中で一つうんと頷き、改めて佐伯さんに視線を向けた。
「色々考えてくださって……本当にありがとうございます。でも、体調は自分でなんとかしますので」
「なんとか?」
「はい。仕事に支障が出ないよう、心身を戻す努力をします」
感謝の気持ちと一緒に仕事も頑張る姿勢を見せると、佐伯さんは笑って立ち上がった。
「分かった、じゃあ一つだけ忠告聞いて。ちゃんと食事をするまでタバコは禁止ね」
「……はい」
小さく答えて頷いた私の頭をくしゃりと撫で、佐伯さんはビルの中へ戻っていく。残された私は、乱された髪に触れながらしばらくぼんやりと風景を眺めていた。
失恋の傷が少しは癒えたかというと、そう簡単でもなく。女としてのプライドを粉々にされた辛さはジワジワ私を蝕んでいて、最近では欲という欲が失われているのを感じる。
私は雅美と坂田さんにうまく言い訳をして非常用に使われる階段の踊り場で過ごしていた。
仕事中は普通通りの自分でいるよう振る舞っているけれど、心と体がバラバラになったみたいになっていて効率的な仕事ができない。
(こんなこと今までなかったんだけど)
痩せ細ってしまった腕を抱きしめ、苦笑いしてしまう。
「はは、これならジムなんか契約しなくてもよかったなぁ」
ウェディングドレスを綺麗に着るなら体型を整えた方が良いだろうと、1ヶ月前からパーソナルジムに通い始めていた。2ヶ月で絶対10キロ痩せるという説得にあい、一生に一度のことだから後悔したくなくて契約してしまったのだ。
(そういえばジム、もう全然行ってないな……行く気力も体力もないけど)
「レンタル彼氏、本気で契約するかな」
(圭吾の記憶を少しでも忘れさせてもらえたら、今よりマシになるかもしれないし)
「ふー……ゲホッ」
試しに購入した電子タバコをふかしてみるけれど、気管支に広がってくる煙の刺激でむせてしまった。
「ゲホ、ゲホ……」
咳と一緒に涙を滲ませていると、不意に頭上から声が降ってきた。
「格好つけたいだけなら、駄菓子のシガレット買ってやろうか?」
「っ、佐伯さん! いつからそこに?」
驚いて上を見上げると、片膝を立てて座る佐伯さんがアンニュイな目で私を見下ろしていた。
「時計は見てないから正確にはわかんないけど。10分前くらい?」
(てことは……)
少なくとも、私がここで独り言を呟いていたのを彼は聞いていた、ということになる。
恥ずかしさに言葉を失っていると、佐伯さんは面白いものでも見るように身を乗り出す。
「ここを使うの俺だけかと思ってたんだけど。槙野も利用者だったか」
「誰もいない場所だと思ったので」
「俺は昼寝に使ってるんだけど、槙野は愚痴吐き場所に使ってんの?」
からかうような声色に、カチンとなる。
「聞いてたんですね……」
「寝てたら聞こえちゃったんだよ」
佐伯さんはだるそうに立ち上がると私の一つ上の段まで降りてきて座り直した。
「昼飯は食わないの」
「ええ、まあ」
「ダイエット……って雰囲気でもないね」
「……」
流石に直属の上司の彼に、最近の弱りっぷりを完全に隠せているとは思えない。
(でもこんなプライベートな事情、仕事の上では関係のないことだし)
どう答えたらいいのかと思案していると、佐伯さんは仕事中と同じ真面目な口調で言う。
「槙野、ここしばらく弱ってるよね?」
「……そう見えますか」
「一応これでも課長だし、課員のことは健康面含めて観察はしてる。食事ができない、睡眠が取れない。これって命に関わることだ。調子悪いなら、相談してもらわないと俺も困る」
(そんなところまで見ててわかるものなんだ)
感情の見えない静かな視線を向けられ、頭から血の気が引いていく。
「……仕事ではご迷惑かけてないつもりですけど」
私のわずかな抵抗に、佐伯さんはふっと鼻を鳴らす。
「確かに遅刻もしてないし、仕事の遅れもないね。でもそれは仕事の量を君の調子に合わせてたからだよ」
「そう……だったんですか」
(言われてみたら、最近仕事の量は多くなかった。だからなんとか定時内に終われるよう、集中できてた……全部、佐伯さんが見ててくれたおかげだったの?)
知らないところで心配をかけ、迷惑までかかっていたというのは素直に申し訳ないと思う。でも、だからと言ってプライベートのことを佐伯さんに相談するなんてやっぱりできない。
「ご心配をおかけして、すみません。私は大丈夫なので、これからは仕事の量を戻してください」
「それはできない」
「えっ」
「こなせないと分かっている人間に、仕事を振ることはできないよ」
じゃあどうしろと、という言葉を飲み込んで私は思わず佐伯さんを睨んでしまった。
(このズタボロの状態を、どう乗り越えればいいの)
悔しさに下唇を噛んでいると、佐伯さんは緊迫した空気をかき混ぜるように小さく息を吐いた。
「金払ってまで彼氏レンタルするくらいなら、俺が仮の彼氏やってやろうか?」
「え?」
話の流れによっては、休職も考えた方がいいのかとすら思っていた私に、彼は全く予想していなかったことを口にした。
「仕事を離れた関係だったらプライベートな悩みも聞いてやれるだろうし」
「……冗談ですよね」
「どうかな」
ゆるく微笑むその表情からは、やっぱり本音を読み取れない。ただ、こちらが重く捉えないようあえて軽めに言ってくれているのだけは分かった。
(やっぱり捉えどころない人だな。きっと、部下が悩んでるのを放っておけないんだろうな)
仕事面では甘い顔をしない人だけれど、癖のある課の人たちをうまく束ねている人だ。だからこそきつい仕事でも充実感をもってこなせている。
(いい上司なんだよね。私はPC相手の事務作業が多いけど、外を一緒に回る人はかなりフォローしてもらってるって聞くし)
皆、仕事面でもメンタル面でも佐伯さんのことを頼って、慕っている。
(そんな人と仮だとしても恋人になるなんて……恐れ多いよ)
私は心の中で一つうんと頷き、改めて佐伯さんに視線を向けた。
「色々考えてくださって……本当にありがとうございます。でも、体調は自分でなんとかしますので」
「なんとか?」
「はい。仕事に支障が出ないよう、心身を戻す努力をします」
感謝の気持ちと一緒に仕事も頑張る姿勢を見せると、佐伯さんは笑って立ち上がった。
「分かった、じゃあ一つだけ忠告聞いて。ちゃんと食事をするまでタバコは禁止ね」
「……はい」
小さく答えて頷いた私の頭をくしゃりと撫で、佐伯さんはビルの中へ戻っていく。残された私は、乱された髪に触れながらしばらくぼんやりと風景を眺めていた。