あなたの隣を独り占めしたい(続編まで完結)
「私、ずっと佐伯課長のことを忘れられなくて……」

 シャツにそっと触れてくる指先からは、確かに猛烈な色香を感じる。
 この香りに触れたら男はあっという間に飲み込まれるのがわかる。
 危険でありながら、逃れることは許されない食虫植物のような甘い香りだ。

 過去に夜を承諾した時、俺もこの香りには多少やられたんだろう。

(だが、今は胸がムカつくだけだ。過去の自分を見ているようで気分が悪い)

「手を離せ」

 俺が腕をスッと引くと、坂田は驚いて瞬きする。

「どうして? 槙野さんがそんなにいいですか?」
「……」

 どうやら坂田は俺と栞の関係を知っているようだ。
 男女の関係を六感のようなもので理解する女性がいるのは知っているが、坂田はその能力が異様に長けている。

(おまけに自分以外の女性が幸せになるのが許せないタイプのようだな)

 ため息をつきつつ時計を確認すると、まだ五分しか経っていない。
 栞との時間は溶けるように過ぎていくのに、坂田との時間は拷問みたいに遅い。

「逆に聞くけど、槙野より自分の方が魅力があるって自信はどこからくるんだ」
「自信なんて……ないですけど。佐伯課長をあの人に取られるのが、なんか嫌なんです」
「……呆れるほどに愚かだね」
「っ!」

 こんなセリフを口にされることが普段ないのだろう。
 坂田は意外にも傷ついた顔をする。

(この女性は、佳苗さんよりも哀しい人間なのかもしれない)

 そうは思うが、今の俺にはしてやれることは何もない。

「美島は? あいつは坂田に本気なんじゃないのか」

(二度も栞から男を奪いたいと思う坂田の気持ちは、どうにもわからない)

 坂田は困ったように眉根を寄せると、泣きそうな顔をした。

「彼のことは好き、ですよ。でも……満足できないんです」
「それは坂田が美島を大切にしないからだ。いや、それ以前に坂田自身が自分を粗末にし過ぎてるからだ」

(これは栞にも言った言葉だけれど、坂田はその事実をきっと認めないだろう)

 はたして、坂田は強気な顔つきになると俺を睨んだ。

「ワンナイトを売りにしていたあなたに言われたくないです」
「そうか。ならもう俺に用はないよね」
「っ、そうじゃなくて……」

 捨て身というのはこういうのを言うのか、彼女は俺のガードもくぐり抜けて抱きついてきた。
 むせかえるような女の香りが吐き気を呼ぶ。

「……坂田。離れろ」
「いやです。頭が真っ白になるような夜を体験させてくれたのは、あなただけだった……愛なんて知らないけど、体が喜んだのはあなただけだった」

(性欲に負けているだけだ……なんて気の毒な女性なんだ)

「なら俺みたいなのを他で探すんだな」

 引き剥がすように坂田の体を推しやると、俺はもう話すことはないと判断してドアノブに手をかけた。

「悪いけど、もう俺は以前のような生き方はしていないんだよ。いい加減、君も自分と向き合う時期なんじゃないか」
「向き合う……って、どうすれば?」
「さあ、それは自分で考えなよ」

 我ながら最悪に冷酷な声だったと思う。
 でも、坂田に対する感情は栞に抱くものの反対側だった。
 どうにもできない。

(俺じゃない男に気づかせてもらうしかないだろ)

 これからは仕事以外の話には乗らないと釘を刺し、部屋を出た。
 坂田はそれ以上追ってくることはなく、仕事に戻ってからも昼の顔は完全に消していた。
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