極上御曹司は懐妊秘書を娶りたい
 こうして始まったハウスキーパー業務は、最初こそどうなることかと思ったものの、何事もなく穏やかで、ひどく順調だった。
 一週間ほどは家に上がるたびに緊張し、何か粗相がないかと逐一心配していたのだけれど、『社長』のときとは違う距離感に戸惑っているうちに、そうしたネガティブな思考は押し流されていった。ハウスキーパーとして景光さんに接することが、すっかり日常の一部になってしまったのだろう。要するに、慣れたのだと思う。
 『景光さん』『紗世』という呼び方と、彼がどうしようもなく優しいことには、未だに全然慣れないけれど。
「……毎日、大丈夫かって聞いてくれるもんね」
 味噌汁の鍋をゆったりとかき混ぜながら呟けば、その音が一緒に掻き混ぜられて、溶けていく。
 景光さんはちょっぴり過保護の気があるようで、毎日『体調は問題ないか』『料理中に気分が悪くなってはいないか』と聞いてくれる。実際、少しでも体調が悪いと目ざとく気付かれて『明日は休んでいい』とか『何かしてほしいことはないか』などと言われてしまうのだ。その心遣いはくすぐったくて、甘くて、泣いてしまいそうなほどに優しい。
 実家も頼れず、友達も少ない私は、景光さんの外に話す相手も頼る相手もいない。彼に寄り掛かりすぎてはいけないと分かっていても、つい『今だけ』『少しだけ』と甘えが顔を出してしまう。
 本当なら、仕事とはいえこうして彼の家に上がり込んでいるのだって、良くないことなのに。
「……あれ、」
 ふわりと上った味噌汁の湯気が、柔らかく鼻先をくすぐる。その瞬間に、胃の辺りに激しい不快感が湧き上がった。
「あ、」
 視界がぐにゃりと歪み、私は片手をキッチン台につきながら、ずるずると床にしゃがみ込んでしまう。ぐう、と喉が鳴って、慌てて口元を手で押さえ付けるようにして覆った。せり上がってくるものは何とか飲み下したものの、その場から動くこともできそうになくて。
 確かに今日は妙に出汁の匂いや味噌の匂い、野菜が煮える匂いが鼻につくなとは思っていた。お昼はペットボトルのレモン飲料だけ。予兆と言えば予兆だったのだろう。でも、まさか、――――こんなに急にくるなんて。
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